第32話


 あの記念日のことを、私は洸さんに何も話さなかった。記念日だということも、留美さんとのやりとりを見ていたことも。

 それを言ったところで彼は気まずそうにするだけだろうし、私自身も由良くんに気持ちを吐き出して取り繕えるくらいには落ち着いていたからだ。


「洸さん、お出かけしませんか?」

 休日の今日、いつも通りの時間に起きてダイニングテーブルに向かい新聞を読む洸さんに勇気を振り絞って話しかける。

「なんで?」

 きっと彼の意図するところではないのだろう冷たいと感じる言葉にも、ぐっと堪えて「お買い物に付き合ってください」と笑う。


 普通の夫婦みたいなことしたって罰は当たらないと思う。彼にも歩み寄ってほしいとは言わない。でも私から歩み寄ったら少しくらいは待っていてくれてもいいのではないだろうか。いつだって、私よりも速いスピードで行ってしまうあなただから。隣で歩きたいって思うのは当然のことだと思う。


「……まあ、たまにはいいか」

 バサッと新聞を置いて私を見る洸さんに思わず顔が綻ぶ。私の思いが伝わったような気になって、思わず両手を上げる。

「やったあ!」

 馬鹿みたいに喜んだ私をくくっと声を我慢して笑う旦那様。じろりと睨めば「わかったから早く準備しろよ」と笑いを堪えて私の寝癖を指摘した。



「何着て行こうかな」

 スキップしてしまいそうな勢いでクローゼットに向かう。洸さんに好みを聞いたって、まともな返答がないのは分かっている。だからこそ難しいのだ。私は洋服と睨めっこをしながら頭の中でコーディネートしていく。

「短いスカートは却下な」

 背後からぶっきらぼうな声が聞こえて、一瞬思考が止まってしまった。


 それはまるで、嫉妬する恋人みたいだった。そこにどんな真意があるのかは知らない。けれど、私にとっては空も飛べそうなほど浮かれてしまう要素の一つになった。


 パチパチと瞬きしてみたけど溢れ出る笑みは自分ではコントロールできない。

「大好きです!洸さん!」

「なんでそうなんの?」

 私の叫びに少し不満そうな旦那様の声が飛んできて、少しずつ彼に近づけているのかもしれない……なんて淡い期待を抱いてしまった。




「この赤のワンピースなんて、どうですか?」

 洸さんを振り返って、自分の身体にワンピースを重ねてみる。お姉ちゃんが好きそうなこの色。お姉ちゃんが似合いそうなタイトなワンピース。


 高級そうなお店で洸さんの私服を見に来たついでに、彼好みのワンピースを見つけたから手に取ってみた。本当に買う気なんてないのだけど。こんな上品なお店の服なんて私には似合わないのは百も承知だ。


「似合わねえな」

 ふっと鼻で笑う旦那様に分かってはいたけれど少しむかっとした。誰のために、好きでもない服を選んでると思っているのだろう。

(私だって──)


「お前には……そうだな、これは?」

 そう言って店内を見渡し、手に取ったのは薄いピンクのワンピース。ウエストが締まっていてスカートはふわっと風に靡く可愛らしいデザインだった。私が手にしているものとはまるで違う、だけどとても私好みのものだ。


「わ……可愛い」

 思わずそう呟けば、「着てみろ」と試着室にエスコートされた。戸惑う私を押し込んで、シャッと閉まったカーテン。


(私は、これを着てもいいんですか?お姉ちゃんは絶対に着なかった、こんな可愛い服を……)


 そんな風に思ってしまうほど、お姉ちゃんに囚われている私。きっと洸さんのことなんて言えないくらいに。

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