第30話
結局、旦那様は帰っては来なくて、きっとそのまま出勤したんだろう。どこにいたのかなんて怖くて聞けない。
目を覚まして、あなたがいない。その事実だけならなんとも思わなかっただろう。
まだ気を抜くと涙腺が緩んでしまうくらい、心が苦しいけれど──今日は、結婚記念日だ。入籍した日から一年が過ぎた。気持ちを切り替えていかなくては、と自分の頬を叩いて気を引き締めた。
──と、意気込んだものの、手が震えてしまってメッセージすら送れなかった。洸さんの会社で会議に出たはいいが何も動きのないまま定時になってしまう。
このままじゃ駄目だと、洸さんを探す。私は今日はこれで直帰するから、結婚記念日くらい一緒に帰りたいと思うのは悪いことじゃないだろう。
副社長室まで行ったが、彼の姿はない。洸さんの鞄がまだ残っているのを確認すると再びこの広い会社を必死で駆け回った。今日は残業もないと言っていたはずだから早くしないと先に帰ってしまう。すれ違いにならないよう副社長室にいればいいのに、どうしてもじっとしていられなかった。
「美緒ちゃん、帰ろう!」
エレベーターなんて待っていられなくて、階段を駆け下りて行くと由良くんの声が聞こえて振り返る。そういえば、彼も一緒にここへ来ていた。本当に、洸さんのことしか頭にない自分に呆れてしまう。
「あ、ごめん。今日は結婚記念日だから……洸さんと一緒に帰ろうかと思ってるの」
「そっか……」と少し眉を下げて残念そうにするから、罪悪感が湧きあがってくる。すると由良くんが何か気がついたように私の後ろを指さして言った。
「噂をすれば、あれ旦那さんじゃない?」
指さす先を目で追えば、あまり人気のないフロアの向こうから洸さんが走ってくるのが見えた。
「洸さん!」
「ああ、美緒」
息を切らして何かを探しているようだった。「どうしましたか?」と聞こうとする前に彼が口を開く。
「留美さん、見てない?」
身体が凍りつくのがわかった。彼が探しているのは“何か”じゃなくて“誰か”だった。
「見て、ないです……」
そう答えるのが今の私には精いっぱいだった。これでも頑張った方だ。褒めてほしい。
ああ……やっぱり弱っている。こんなことで泣きそうになるほど、面倒な女じゃないのに。
「そっか。じゃ」
そのまままた走り出そうとする洸さんに、思わず彼のスーツを掴んで止める。
「まってください!」
今日は、譲れない。だって、結婚記念日だ。一年に一度しか来ない、私と彼の大切な記念日。今日ぐらい私を優先してよ、と言う。それぐらいのわがまま、許されてもいいはずの日だ。
「今日、何の日か──」
“覚えていますか?”
そう尋ねようとして、遮られた。
「悪い、今は美緒と話してる時間なんてない」
そう言って、掴んだ私の手を振り払うようにして駆け出していく。
私はそれ以上、何も言えなかった。
私と話してる時間、なんて?
洸さんにとって、私との時間“なんて”──その程度の存在なのか。
仮にも、愛を誓った妻相手に。
もう癖になってしまった、涙の堪え方。ぐっと唇をかみしめて目を閉じる。
(大丈夫、大丈夫……)
そうやって堪えていても、目を閉じた私に聞こえてきた声は耳を塞ぐ間もなく心に突き刺さってきたのだけれど。
「留美さん!何やってんだよ、歩き回るなって言っただろ?」
「ごめん、ごめん。でもみんなに迷惑かけたくないからさ……」
「まだ残業か?やめろって。自分の身体、一番に考えろ。大事に、しろよ……」
必死なのか、洸さんの声が大きくて聞きたくないのに鮮明に聞こえてしまう。
(“大事にしろ”?それは誰に言ってるの?)
留美さん?それとも、もういなくなってしまった愛する人?
一度は消えてしまった大切な人だから、そんなに敏感になるのだろうか。
「──美緒、もう大丈夫なのか?」
「あ、はい。みなさんに迷惑かけたくないので」
「そっか。お前のそういうところ、好きだけどな」
そんなやり取りが蘇る。あの時、舞い上がっていた自分が惨めで笑えてきた。
(そっか……本当に好きな人には、そんな風に思うんだ。そんな風に、必死になるんですね)
そして洸さんが、彼女の頭を掴んで自分の胸に押しつける。背中に腕を回して……強く、強く抱きしめた。
(だめだ、もう、零れちゃう)
私は階段を駆け上がった。少しでも、二人から遠ざかるように。
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