第29話
「──留美さん!」
一体何が、起こったのだろう。
私の会社にやってきた洸さん。もちろん、隣には秘書である留美さんの姿もある。階段で彼らに出くわすと、私を睨む視線を気にしないように頭を下げた。私は階段を下り、二人は上る。そうやってすれ違った時、事件は起こった。
「きゃ……!」
「おい──!?」
私の視界の端から、急にいなくなった彼女。
留美さんが足を捻って、階段を踏み外して──下で倒れているのは、わかる。
「大丈夫ですか!?」と声をかけに行こうとした。でもそうやって私が彼女のもとへ行く前に、横から人影が出て来て一心不乱に階段を駆け下りていく。彼女を心配する声も、発されることなく喉元でつっかえてしまった。
(ねえ、なんで?)
そんなに慌てて駆け寄って、抱えて行くの?
あなたが必死になって、オフィスを出ていくの?
心配そうに、彼女を見つめるの?
私の時は──その冷静な表情を、崩すこともなかったのに?
慌てて私も後を追ったけれど、その時はもうすでに洸さんは彼女を車に乗せて去っていってしまった後だった。
「失礼します……」
そっと副社長室のドアを開ける。この間は由良くんが私を運んでくれたこの部屋に、今度は愛する旦那様が違う女を運び入れた。
皮肉ぽく表現するところが、嫌な女だと自嘲した。
「奥様……」
「留美さん、大丈夫ですか?」
ソファに座った彼女の足首は包帯でぐるぐる巻きだった。こう言っては悪いけれど、本当に怪我をしていたのかと思った。洸さんの気を引くためのものではなく、最近流行りの悪役令嬢もののワンシーンように、そばにいた私のせいにするためのものでもなかった。
(私の方がずっと嫌な女じゃないか)
本当に不幸な事故だった。そう思えば、彼女に少しばかり優しく声をかけることができた。
「平気です。でも洸が安静にしてろって言うから……」
束の間、彼女の勝ち誇ったような声にぐっと喉が詰まったけれど。
「そう、なんですか」
ぎゅっと拳を握りしめて無理やり笑顔を作る。少しでも、余裕ぶっていたかった。そうやって偽っていないと、頭に血が上って何をしてしまうか分からないくらいには、私は彼女が妬ましいから。
「美緒」
洸さんが私を呼ぶ声に、少しほっとする。私の名前を呼んで、私をその瞳に映してくれている。
私は彼に顔を向け、言葉の続きを待った。
「悪いけど、俺このまま帰るから他の奴に伝えておいて」
当り前のように言う洸さんに、背筋が凍る。自分で立て直したものが、一瞬で崩れ落ちるような気がした。
「え、帰るんですか……?」
思わず疑問が口をついて出た。
私に「伝えておいて」と言うのだから、もちろん一緒に帰るわけではないだろう。仕事人間な洸さんが早退するなんて、珍しい。
「こんな状態の留美さん、放っておけないだろ?家まで送るから」
私が倒れた時、仕事を中断してくれただろうか。
家まで、一緒に帰ってくれただろうか。
確かに今日は会議もなければ、大事なプレゼン準備もない。
だけど──それは、洸さんがしないといけないこと?自分の妻の事は、由良くんに頼んだというのに?
いくら仕事人間と言っても──妻というのは、秘書よりも優先されないものだっただろうか。
「放っておけない」と彼は言った。では、裏を返せば──私の事は放っておいても大丈夫だったということだろうか?
「わかりました」
震える唇で言葉を紡いでみたけれど、もう息をすることも辛い。
人間というのは、一体どこまで傷ついてしまえるのだろう。
私が倒れた時、彼は留美さんと一緒にやってきて五分足らずで出て行った。本当に「様子を見に来た」だけだった。
それなのに、留美さんには付きっきりで……大切に、大切に扱っている。
(だめだよ、だめ)
涙を堪えてただ時が過ぎるのを待った。
(私のことは大切じゃない、なんて……思ったらダメ)
でも洸さんはその日、私の待つ家に帰って来てはくれなかった──。
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