第28話
出勤時、いつも使う駅のホーム。そのベンチに腰掛けて電車を待っていると、制服姿の男の子がその少し先を歩くスーツを着たOLさんに声をかけた。
「待ってよ、沙紀ちゃん」
早足で近付くと、女性と目が合って顔を綻ばせる。
「手、繋ごう?」
そう甘えたように、優しく手を差し伸べる男の子。女性のほうが年上でお姉さんか何かかと思ったけどそれは違ったようだ。彼が女性に向ける視線があまりに愛情に満ち溢れていて、微笑ましいから。女性の方だってほら、照れながらも嬉しそうに指を絡めるから。
(なんだか、泣きたくなってくる)
恋人。それはとても甘い響き。
夫婦。それはとても温かな響き。
好きだよって言葉にはときめきが溢れている。
愛してるって言葉には幸せが溢れている。
「いいなあ……」
口をついて出た言葉は、本当に無意識だった。旦那様に不満があるわけじゃない。他人を羨んだって、良いことなんてない。だって私は分かっていて、この道を選んだのだから。甘い関係も温かな関係も望まない。ときめきも幸せも期待していなかった。
私にはそんな資格はないし、それを彼から貰えないのは私の魅力がないせいなのだ。
それでも、やっぱり。
少しくらい、ご褒美がもらえたっていいと思うのだ。自分でも驚くほどの愛情を捧げているのだから、少しくらい返ってきてもバチは当たらないと思うのに。
(そうやって見返りを望んでしまうが、私のダメなところなのかな)
「何が、『いいなあ』なの?」
背後からの声に私は体を揺らす。馴染みのある声が誰のものか、すぐにわかった。私は救ってくれるヒーローは、どうしてこうもタイミングが良いのだろう。
「由良くん、なんでここに……」
そう聞けば、「なんとなく?」なんて首を傾げて言うもんだからクスッと笑ってしまう。彼の最寄駅はここではないはずだ。
「最近、ずっと笑ってないね?」
眉を下げて私の顔を伺うように覗き込む。旦那様が気付かないようなことも、私自身でさえ意識していなかったことも理解してくれている。そこには確かに愛情があるから。その“愛”がどんな種類だとしても、相手を大切だと思っている証拠なのだろう。
「美緒ちゃんはいつも苦しそうだよ……。結婚って、そんなに辛いもの?そんなに苦しいもの?違うでしょ?もっと楽しくて、嬉しくて……幸せなことのはずだよ」
小さい頃に思い描いた幸せな家庭。それとは酷くかけ離れてしまった私の“幸せ”すら、もう戻ってこないのかもしれない。
「でもね、洸さんは私を『愛せるように頑張ってみる』って言ってくれたの……」
あの一言で私は救われた。あの言葉が、今まで私を突き動かしてきたと言っても過言じゃない。
私は彼を庇う。それは彼のためではなく、自分を守るためだ。自分がこれ以上否定されないように、私は言葉を吐く。
「それが可笑しいと思わない?好きになるのに努力は要らないよ」
彼が私にくれたほんの少しの“好意”を否定しないでほしい。それすら否定されてしまったら、私は何に縋っていればいいか分からなくなる。
私にとっては、心が震えるくらいの愛の言葉にだって聞こえた。
「それでも、彼が私を『愛してもいい』って思ってくれたなら……努力しようとしてくれた、その瞬間は私を想ってくれていたってことでしょう?」
私の強く放った言葉に由良くんはぐっと口を噤む。彼に告げた言葉だったけど、自分自身に言い聞かせるためのものでもあった。
彼が愛してくれないからって泣いちゃいけないの。
他の人をその瞳に映しても、泣いちゃいけない。
それは、私の努力が足りないから。
「なんで、そこまで愛せるの……?愛してくれない男を、どうしてそこまで──」
私よりずっと泣いてしまいそうな由良くんは声を震わせる。
「同じ、だよ。由良くんだって、そんな女を愛してくれてる」
理由?そんなもの、必要あるだろうか。
だって私は洸さんを“愛してる”。それ以外に、答えはないはずだ。
さっき由良くんが言ったように、その感情は努力でどうなるものでもない。
「……そうだね。同じだ」
哀れな女だと同情すればいい。
浅はかな女だと嘲笑えばいい。
それなのに、それをしないのは彼も同じ答えを持っているからだと思う。
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