第27話


 あのまま、彼の温もりに包まれて寝てしまっていたようだ。差し込む朝日は目を閉じていても眩しい。目を開けた私が最初に見たのは洸さんの顔。私をじっと見つめる洸さんは何を考えているんだろう。黒い瞳はなんだか困惑しているようで、ゆらゆらと揺れている。

「洸さん……?」

 掠れた声はまさに私の心情を表す。彼の不安そうな表情は私にも移って、胸の中にモヤモヤと広がっていった。


「美緒、お前は……」

 そう言いかけて止める。そして軽く首を振ると「何でもない」と微笑んだ。


 彼は“微笑んだ”つもりだろうが、私にはわかる。ぎこちない彼の表情も、無理やり作った声色も。たとえ愛のない夫婦だとしても、私は彼が大好きで、大切だから──仮にも妻なんだから、分かってしまう。洸さんが今、とても悩んでいること。きっと私にとって良くないことが、この先待ち受けているということ。それでも、その時が来るまでは──そばにいたいと望んでしまう。世界で誰よりも愛しているから。





 朝食の準備をしていると、後ろから視線を感じた。振り返れば冷蔵庫に寄りかかっている洸さんの姿。

「もうすぐできますよ?」

 一旦手を止めて彼に告げた私の目をじっと見つめ、おもむろに洸さんが口を開いた。


「結婚式を延期したい」


 その表情は無に近く、彼の本心は読み取ることはできなかった。


「え……」

 頭の中で彼の言葉を反芻して、やっと理解が追いつく。放心状態の私を見て、彼は何を思うのだろう。

 浮かぶのは疑問ばかりだ。だけどどこかで納得してしまっている自分もいる。いつかは、と覚悟はしていてもそれは思ったよりもずっと早くてずっと苦しかった。


「どうして、ですか……?」

 ガタガタと、全身が震えるのが分かる。あんなことを告げられて苦しいのは私のはずなのに、洸さんはもっと苦しくて悲しそうな顔をする。その理由さえ、考える余裕もない。


「少し、考えさせてくれ……」


(考える?何を考えるっていうんですか?)


 私との将来?それとも、私じゃない人との未来?


 そんな心の声を口に出すこともできず、彼は私に背を向けてしまう。


「洸さ──」

 伸ばした手は、彼の背中には届かなかった。

 呼んだ名前に、振り返ってはくれなかった。



 包丁を持っていた手が震える。再び調理に取りかかろうとしたけど、冷静に物事を考えられない今の私には、それは凶器にしか成り得ない。


「いた……」

 痛くて痛くて仕方がない。それは血が滲む指のせいなのか、酷く傷ついた心のせいなのか。ジクジクと痛む傷は深くてそう簡単には癒せない。



 零れた涙が、切ってしまった指の傷に落ちて染みる。



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