第26話
帰宅してからもボーっとした頭では何も考えられなくて、やっとのことで夕食を作り終えた私はソファに身体を預けて目を閉じる。
静かな空間の中、目を閉じても瞼の裏にはいつでも洸さんの横顔がある。耳を塞いでも私の名前を呼ぶ彼の声なんて、こうも容易く思い出せる。
「──ただいま」
そんな旦那様の声にハッとする。いつもなら玄関の扉が開く音で気がつくはずなのに。慌てて座っていたソファから立ち上がると玄関に向かう。
「おかえりなさい、洸さん……!」
急いで駆け付けた私を見て彼は「珍しいな」と笑った。
「すみません、ちょっと考え事をしていて……」
彼から鞄を受け取りながら告げた私の言葉に、洸さんは眉間にしわを寄せた。
「それは、今日川島が資料を持ってきたことと関係あるのか?」
私が首を傾げれば、小さくため息を吐く。
「お前に頼んだものは、いつもお前が届けてくれていただろ?でも今日は川島が代わりに持ってきたから」
洸さんはそんなの気にしていないと思っていた。誰が持ってこようが、彼の手元にさえ届けば──それでいいのだと勝手に解釈していた。
「ちゃんとお前が来いよ、何かあったのかと思っただろ」
胸が鷲掴みされたみたいにきゅうっと苦しくなった。確かに嬉しいのに、ちょっぴり切ない。その苦しみに耐えて私は頷く。
「あれ、洸さん……どうして濡れているんですか?」
背広を受け取ると、肩のところが濡れているのに気付く。聞いてみれば「雨が降ってきたんだよ」とのこと。天気予報では一日晴れだったのにな、と眉を下げた。
「すみません、傘の準備ができていなくて……」
いつも雨が降るかもしれない時は彼の通勤鞄に折りたたみ傘を入れている。でも今日はそれができていなかったから、旦那様が濡れてしまったのだ。申し訳なくて謝れば、彼は私の頭を撫でる。
「そんなのお前が気にするな。むしろお前は俺を甘やかしすぎなんだよ」
優しく励ましてくれる。そんな彼の“珍しい”態度に、嬉しいと言うよりは空しい。
だってそれも、“彼女”が関係しているのかと思うと自分がひどく惨めに思えてしまうんだもの。
窓の外を見れば──本当だ。土砂降りの雨。洸さんは酷くなる前に帰って来られたようでよかった、と呟いた。
こんな雨は、あの日を思い出す。洸さんと出会った始まりの日──彼が愛する人を失った日。
じっと窓の外を見つめていればピカッと空が光って地響きのような大きな音が私の身体を震えさせた。自分の身体を抱きしめても、それは止まらない。この光は、この音はダメだった。雷だけは、どうしても嫌いだ。だけどそれを知らない旦那様は不思議そうに私を見る。
「どうした?」
子どもっぽいって思われるだろうか。お姉ちゃんは平気だったのに、って言われてしまうかな。
でも、これだけは本当にどうしようもない。服を着替えようと寝室に向かう彼の背中が遠くなっていく。
(やだ、行かないで──)
「洸さん!」
意を決して大きな背中に抱きつけば彼は「おい、美緒?」と不思議そうに私の名前を呼ぶ。
「雷、きらいなんです……」
そう言って縋るように旦那様のお腹に手を回した。だけどすぐにその手を掴まれて、離されてしまう。
彼から拒否されたみたいで悲しい。虚しさや惨めさは酷く私をどん底に突き落としたけれど、仕方がない。どうにかこの恐怖を自分で我慢しなければならない。面倒な女でいてはいけないから。
──でも、本当は知っている。優しい彼は私を突き放したりなんてしないということを。振り返った彼が今度は私を抱き寄せる。ぎゅっと強く抱きしめてはくれないけれど、柔く触れ合う体。そして大好きな手のひらが背中を優しくポンポンとたたく。
「もう大丈夫だから、な?」
小さい子を宥めるみたいに囁く洸さん。私はその背中に甘え、手を回して彼が苦しいんじゃないかっていうくらい抱きついた。
「俺がいるだろ?」
旦那様の短い言葉に涙が出そうだ。
──そう、私にはあなただけ。あなたがいれば何も怖くはないのに。
「離れ、ないで……」
そう言って更にしがみつく。彼は珍しい私の様子に少しおかしそうに笑った。
(どうか、離れないで欲しい。今この瞬間だけじゃなくて、これから先も私のそばで──)
そう願うのは欲張りなんだろうか。婚姻届を出したあの日、私は永遠にあなたのそばにいることを誓った。でも、それが永遠に続くなんてどうして思ってしまったのだろう。結婚してしまえば、なんて浅はかな考えだった。
(どうして、あなたの心に私はいられないのかな)
心のほんの片隅、小さくても狭くても構わないのに。私という存在を、留めておくことはそんなに難しいことだろうか。
いつまでも返答のない問いに、答えが出ることなんてあるのだろうか。
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