第18話
誰もいないトイレに駆け込んで、個室へ入った途端声を殺して泣く。
(どうして、妻である私が譲らないといけないのだろう)
そんな思いも声に出せなくて胸の奥に押し込めた。
どうして選ばれたのが洸さんなのだろう。留美さんが頼めば送ってくれる男の人なんていくらだっているだろうに。何故わざわざ私の旦那様を選ぶのだろう。
鼻を啜って、涙を拭いた。きっと化粧もぐちゃぐちゃだ。
だけどもう諦めた。私が綺麗でいたい理由はたった一つ、洸さんのためだから。
彼はもうここにはいない。
しばらく啜り泣いて入れば、遠くから走ってくる足音が聞こえた。自分の声が外へ漏れてバレないよう口を押さえる。
ドン、と私が入っている個室のドアが叩かれて、震える。ビクッと肩が上がった。
「美緒、ちゃんっ……」
荒い息と詰まるような声。それは他の誰でもない、希望の光みたいな人のもの。
「由良くん……?」
「見つけた……」
安堵したような彼の吐息に心臓が痛い。誰も見つけてくれないと思っていた私を、探してくれる人がいた。
「ここ女子トイレだよ……?」
涙を見せたくなくて、「何してるの」と笑ったフリをする。
「誰も来ないよ」
(……ああ、この人は)
「美緒ちゃんが泣いてるのに放っておくほど馬鹿な男じゃない」
誰よりも優しい人だってことを忘れていた。
泣いて、蹲っている私の顔を上げさせてくれる。
「俺が変態扱いされる前に、開けて……?」
縋るような由良くんの言葉に無意識のうちに動いた身体。がちゃっと鍵を開けると由良くんが身体を隙間からねじ込んでまたドアの鍵を閉めた。
「由良く──」
「どうして!!」
怒鳴るような彼を初めて見た。私の両腕を掴んで揺さぶる。
そんな大きな声を出したらバレてしまうよ、と私の頭のほうが冷静だった。
「どうして、旦那さんと留美さんが一緒に帰ってるの!?」
あの二人が並んで帰るところを目撃したのか。目の前の人が息を荒げている理由に納得した。誰よりも優しい彼は、きっと真っ先に私の気持ちを汲んでくれたんだろう。
「前に、言ったでしょ?私は、お姉ちゃんの代わりだって」
「どういうこと……?」
「──留美さんはね、お姉ちゃんに瓜二つなの」
そう言うと、目を見開いて絶句する由良くん。
「『お姉ちゃんの代わり』に、私よりずっと適役な人なの」
唇を噛みしめれば、血の味がした。だけどこの真っ赤な口紅がそれを隠してくれるから平気だ。
「留美さんに呼ばれた瞬間、繋いでいた手を振り払われたの。そんなに馬鹿じゃないから、私が邪魔者だってわかるよ」
自嘲するように笑う。私さえいなければ、と彼も、彼女も……第三者だってそう思うはず。
だけどほんの一欠片のプライドが、自分自身を“可哀想な人”にしたくないと強がった結果がこれだ。
「このドレスも、靴も鞄も、メイクも──。これはね、全部洸さんの好みで、お姉ちゃんの好みでもある。留美さんはこれが私よりずっと似合う人なの」
ペラペラといつもより饒舌になる私を憐れむような目で見る彼。
──そう、その目で見られるのが何より惨めだと思った。
(でも、不思議だなあ)
思ったより嫌じゃない。その哀れみの目の奥には、「がんばったね」と私を褒めてくれるような温かさが宿っていたから。
「……美緒ちゃん」
どうしてあなたは、そんなに優しい声で、瞳で私を包もうとするのだろう。
「さっきは可愛いって言ったけど……。それも本当だよ?だけど──」
そっと頬を撫でる指先は旦那様とは違って温かい。心地よくて目を閉じた。
「美緒ちゃんに赤は似合わないよ」
そう言って私の口紅を拭うように親指を滑らせるから、喉まで出かかった思いがどうしようもなく溢れた。
「本当は……赤なんて、あまり好きじゃない。口紅は薄付きのグロスくらいがちょうどいいし、ドレスはピンクが好き。大人っぽい格好なんて似合わない、のに……。それでも洸さんに好きになってもらうには……赤が似合う人にならなきゃっ、お姉ちゃんみたいにならなきゃ、いけないのに……!」
洸さんには決して出せない本音を由良くんに吐き出す。彼は絶対に受け止めてくれるという謎の確信があった。
(──彼女は、お姉ちゃんじゃない)
そう言いたかった。洸さんが愛したお姉ちゃんはもういないんだと言って、私を見てくれと懇願する。
……でも、言えなかった。
少しくらいは私のことを好きになってくれたのではないかと思ったこともあった。だが、そんな期待は見事に打ち砕かれることになった。
私はあんなにも優しい顔を見たことがなかった。彼女を見つめる瞳が、一瞬で愛情に満ち溢れる。そんな瞬間を見て、洸さんはあんなにもお姉ちゃんを愛していたんだなって思い知らされたくらいだから。
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