第6話
ある日、洸さんが珍しく家に忘れ物をしたらしく、私が届けることになった。出勤前だった私は会社へ連絡して少し遅れることを告げると彼の元へ向かった。
「……初めて、かも」
父の会社は何度か行ったことがあるけれど、洸さんの妻として足を踏み入れるのは初めてのこと。
緊張しながらも受け付けの女性に「広瀬です」と伝えれば、その人は頬をピクピクと引きつらせながら笑顔を張り付けていた。
「……副社長の奥様ですね、お話は伺っております」
この人は洸さんに好意を持っているようだ。私のことを隙を見ては鋭く睨んでいるのが分かる。
だからといって何を言うでもなく、私は「ありがとうございます」と会釈して受付を通り過ぎ、エレベーターに乗り込んだ。
「……あー怖かった」
大きくため息をついて肩の力を抜く。女の嫉妬ほど怖いものはない。
ぼーっと階数が表示されているのを見上げていると、私が押した階ではない数字が点滅してエレベーターがゆっくりと止まる。誰かが乗ってくるんだと思えばまた背筋を伸ばした。
扉が開いて入ってきたのは若い男性。背がすらっと高くて男前で、きっとモテるんだろう。私と目が合うと微笑んでお辞儀をする。その仕草だけで素敵な人なんだと想像できたくらい、スマートな人だ。
「どちらへ行かれるんですか?」
優しい声色に聞き惚れてしまったけれど、すぐに我に返って「副社長に届け物を」と答えた。
「もしかして、奥様ですか?」
洸さんはあまり身内の話をしたがらない。会社の人にも結婚のことはあまり伝えていないようだったから、私のことを知らない人も多いらしい。苦笑いをして頷けば、男性はとても吃驚している。
「驚いた。副社長はこんなにも可愛い人とご結婚されていたんですね。そりゃ、隠したくもなります」
また優しく微笑まれて、お世辞に決まっている甘い言葉にも惑わされそうになる。そして彼に「じゃあ、特別にご案内しますね」と言われ、素直に頷いた。
最上階に位置する副社長室の前に到着すると、案内してくれた男性が軽くノックをする。
「……何だ?」
ドアの向こうから聞き慣れた声がして内心ホッとする。隣の彼が「失礼します」と声をかけて扉をゆっくりと開いた。ドアの真正面にいた旦那様は私と目が合うと眉間にしわを寄せる。
「美緒?なんで頼と?」
──と、言われましても。
隣の男性が「よっ」と手を上げたから吃驚した。きっと彼が“頼さん”なんだろう。
先ほどまでの丁寧さはどこへやら、とても明るい彼は「お姫様をお連れしました~」と冗談ぽく言った。
「エレベーターでお会いしたんです」
洸さんの問いかけに私が説明すれば、彼は大きくため息を吐いた。
「こんなに可愛い奥さんだったなんてさ。俺らにも紹介してくんないんだもんな」
そう笑って私の肩を抱く頼さん。不思議と嫌悪感は抱かなかった。
また私にはもったいない言葉をかけてもらい、少しどきっとしてしまう。洸さんは絶対に言ってくれないんだもの。
「洸に飽きたら、俺んとこおいで?」
そんな言葉に私は目を瞬かせる。
「えっと……」
「相手にすんな、美緒」
洸さんからそう厳しく言われて、ぐっと口を噤む。
「こんな冷たい男のどこがいいんだよ~」
やれやれと肩をすくめる頼さんに、私は柔らかく反論した。
「洸さんはとても素敵な旦那様ですから。洸さんが私に愛想を尽かすことはあっても、私が洸さんに飽きるなんてことは絶対にあり得ません」
きっぱりと言えば目を丸くする二人。すぐに洸さんはくすっと笑って「さすが俺の嫁」と言ってくれた。
「おー、いい女だねえ」
パチパチと手を叩く頼さんは私を見てまたあの綺麗な微笑みを浮かべる。
「いえ…そんな…」
“可愛い”ではなく“いい女”だと言われたことに喜び、唇を噛む。洸さんはいつもお姉ちゃんのことを“いい女”だと言うから。私も少しは洸さんの理想に近づけたのかな、なんて思った。
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