第11話 雨女

 今日は朝から、春らしい線の細い雨が降っていた。

 ところで、この世の中には、雨女、と呼ばれる人がいる。

 その人が何か計画をし、何かを成そうとすると、雨を降らすという。一般的に雨女は根拠のない俗信だけれど、雨を呼びやすい人というのはいる、と信じている人は多い。

 この雨女という概念がいつ頃からできてきたものだか私は知らないけれど、こういった俗信以外に、妖怪としての雨女というものもいるらしい。

 不必要に雨を降らす妖怪、干魃の時に恵みの雨をもたらす妖怪、雨の日に訪れ、子どもを攫う妖怪。

 中でも、産んだばかりの赤ん坊を雨の日に神隠しで失い、それから泣く子どもの元に現れるようになったと言われる雨女の伝承には、もの悲しい空気がある。

 この話は、そういった様々な雨女伝承と少し似ているが、実際にあった不思議な話だ。


 朝から細く降り続いている雨を部屋の窓から眺めながら、私は勉強をするでもなく、本を読むでもなく、ただぼうっとしていた。

 そうして勉強机でぼんやりしている私の後ろでは、ちよが雑事をこなしてくれている。掃除をし、本棚を整え、洗濯に出す私の服を選別する。ちよは十歳にならない小さな体で、実にてきぱきと用事をこなす。

 私は窓ガラスにぶつかる雨の線をすっと指でなぞってから、そっとちよのほうを見た。ちよは洗濯物を持って、部屋を出て行くところだった。

 ちよは私が見ているのに気付いていて、戸を閉める前にちょこんとお辞儀をしてから部屋を出て行った。

 ちよは本当に働き者だ。自分も学校があるのに、それが終わるとまっすぐに私のところへ来て様々な仕事をする。必要な仕事以外にも、私の話に付き合ってくれたり、私のことを気遣ってくれたり、器用に気を回してくれる。

 それと同じことが、私にできるか、と問われたら、きっとできないと答えるだろう。ちよはそれくらい、働き者で気遣い者なのだ。私にはもったいないくらいに。

 私はちよが出て行ったドアをじっと見つめながら、ふと考え込んだ。蓮子様がおっしゃっていた、人は皆平等に特別で重い存在だというお考え。それを私とちよとの関係で考えた時に、私はちよに対して自分との平等を考えたことがあっただろうかと思った。

 ちよは凄い。確かにそう思う。私にはちよと同じことはとてもできない。ちよは私を丁寧に扱ってくれるし、大切にもしてくれる。だからこそ私も、ちよを大切に思ってきたけれど、ちよがしてくれていることに見合う平等の感情を、私は抱いてあげていただろうか。

 そう思うと、私はちよに対して、とても不義理であったような感覚がした。

 考えてみれば、お互いの関係を詳しく分析してみたこともなく、この関係が当たり前だという感覚になってはいなかったか。そうかも知れなかった。

 やがてちよが戻ってきた。ちよは私がまだドアのほうを見ているので、一瞬手を止めてから、そっとドアを閉めた。

「きこさま、どうかなさいましたか」

「あ、ううん、いいえ」

「お茶をお出ししますか」

「あ……そうね……」

 ぼんやりと答えかけてから、私ははたと思い付いた。

「ねえ、ちよ」

「はい」

「一緒に、どこかへ出かけない?」

 私の唐突な提案に、ちよはちょこんと首を傾げた。私がちよを外出に誘うのは、女学院に進学してからは初めてのことだ。それで、ちよは不思議な気持ちがしたのだろう。

 ちよは顔をまっすぐに戻すと、小さく頷いた。

「よろしゅうございますよ」

「ほ、本当?」

「はい。ですが、今は雨が降ってございます。お外へ行かれるのならば、お傘を持って参ります」

「ありがとう、ちよ」

「お待ちくださいませ」

 と言うと、ちよはまた部屋を出て行った。暫くして戻ってくると、私の洋傘と、自分の小さな和傘とを抱えていた。

「お傘をお持ちしました、きこさま」

「ありがとう。じゃあ、出かける準備をしましょう」

「はい」

 ちよは傘をドアのそばに立てかけると、私の着替えを手伝った。洋服は、少し生地の厚い紺にした。

 私は自分が着替え終えてから、そっとちよの格好を見た。木綿の簡素な和服。ちよは和服しか持っていない。それも生地の薄い、木綿のものがほとんどだ。私はちよがおめかしをしているのを見たことがなかった。

 もっとも、私の世話で忙しく、おめかしをする余裕などないのかも知れない。そう思うと何だか申し訳ない気持ちになり、ちよにそんな余裕を与えてこなかった自分が恥ずかしくなった。

「ねえ、ちよ」

「はい」

「少し、お洒落をしない?」

「いいえ、ちよはこれで充分にございます」

「遠慮しないで、ちよ。もっと上等の服はないの?」

「きこさま、ちよは奉公人にございます」

 と、ちよは言外にそんな服などないと言った。それは多分、家にも、身分にも、そんな余裕はないという意味なのだろう。もしかしたら、奉公人に気を遣わないでくれという気持ちだったのかも知れないが、私にはそう思えてしまった。

 私は何だか悲しくなった。私がちよくらいの頃は、沢山の服があって、ある程度わがままにお洒落を楽しむことを許されていた。けれどちよにはその自由がない。

 ちよも女の子だ。お洒落に興味があって当然と言うもの。けれどこの歳にして奉公人という身分をわきまえて、それを無視している。

「でも、ちよ……」

「きこさま、ちよの服がお恥ずかしゅうございますか?」

「いいえ、そういう意味じゃないわ。ちよも女の子なんだから、外に出かける時くらい、お洒落をしたくはないのかしらと思っただけなの。私ばかり着飾って、何だか不平等な気がして、それが恥ずかしいのよ」

「ちよは今のままで充分にございます、きこさま」

「だけど……」

「きこさま、ちよときこさまの服が違うのは、不平等ではございません。ちよはちよ、きこさまはきこさまにございます。人はそれぞれに違うので、それぞれの服を着るのです」

 ちよはまっすぐにそう言った。そのあまりに聡明な言葉と考えに、私は暫くものが言えなかった。

 ちよは凄い。黙々と仕事をこなし、私の相手をし、ただ粛々とした態度でいる。決して自分のことで高ぶることなく、私に対して物静かで、落ち着いている。私はそういうちよを、そう……凄いと思う。

 私はちよの顔をじっと見つめて、それからぱっと服や装飾品をしまっている戸棚へと向かった。

「ちょっと待っていてね、ちよ」

 私は戸棚を開けて、その中から小さな髪飾りを探し出した。梅の花を模した本当に小さな髪飾りで、繊細な造りをしている。私はそれを掴むと、ちよの元へ戻って髪飾りを見せた。

「ちよ、これはどう?」

「きこさまに良くお似合いにございます」

「いいえ、そうじゃないわ。梅の花は好き?」

「はい」

「それじゃあ、ちょっとじっとしていてね」

 そう言うと、私はちよの左耳の上に、そっと髪飾りをさした。ちよの髪の毛は幼さ故に柔らかく、髪飾りをうまくさすのに苦労した。

「これをちよにあげるわ」

「頂けません、きこさま。叱られてしまいます」

「受け取って、ちよ。いつも良くしてくれているお礼だわ」

「ちよはちよの仕事をしているだけにございます。それ以上のものは頂けません」

「いいえ、ちよは本当に凄いことをしてくれているんだから、これでも足りないくらいだわ」

「きこさま、ちよにも分相応というものがございます。その身以上のものは頂戴できません」

「ちよ……」

 私は小さくため息をつくと、頷いた。

「そうね、あまりちよを困らせるのもいけないわね……。でも、ちよ、今日だけ、これを付けていてくれない?」

「どうしてですか?」

「これを付けたちよと、出かけたいのよ」

 ちよは私の考えがくみ取れないような沈黙をした。私はただ、ちよにもお洒落を楽しんでほしかっただけだ。ほんの少しの間だけでも、自分を可愛く飾ることの喜びを感じてほしかった。お礼としては些細なものだけれど、私がちよにしてあげられることなんて、そんな些細さで精一杯だった。

 私は手鏡を持ってくると、ちよの顔をそれに映した。

「ほら、よく似合う。だめかしら。こうやっておめかしをして、可愛く出歩くことの楽しさを、感じてほしいだけなのよ」

 ちよは鏡に映った自分の顔を、私が今まで見たこともない程じっと見つめていた。表情はどこかぽうっとしていて、自分でも見たことのない自分の顔を見ているような目をしていた。

「どうかしら、ちよ」

 問うと、ちよは鏡の中の自分を見つめながら、なお少し黙っていた。それから小さく頷いて見せた。

「……はい、きこさま。きこさまのご厚意を、受け取らせていただきます」

「ありがとう、ちよ!」

 私は素直に嬉しかった。思わず笑顔になる。

「それじゃあ、一緒に行きましょう、ちよ」

「はい」

 私は手鏡を勉強机に置くと、ちよと一緒に傘を持ち、女学院を出た。

 雨の中を、しとしとと歩く。私はそっと、傘に隠れたちよの顔を覗き見た。その左耳には、梅の髪飾りが揺れている。本当にちよによく似合って、可愛かった。

 私はちよが私の気持ちを受け取ってくれて満足していたけれど、少し心配だった。ちよは気遣い者だから、私を困らせまいとして頷いたのではないかと。だから私は、ちよが私に気を遣ってくれたのでないことを願った。素直に自分の新しい姿に心動かされ、これを身につけていたいと思ってくれたのであってほしいと思った。

 まだ夕方にもなっていない時間だったけれど、薄い雨雲に覆われてほんのりと暗い。けれど暗すぎもせず、わずかに日の光を感じられた。道々にある草木の青葉が、雨に降られてしっとりと濡れて光っていた。

翠雨すいうにございますね、きこさま」

「そうね。草花がとても綺麗だわ。花が散らないといいけれど」

「春雨が花を散らすのも、風流韻事ふうりゅういんじにちょうど良くございますよ」

「本当ね。でも私、詩を作ったりすることは苦手だわ」

「きこさまにも苦手なことがおありですか」

「いろんなことが苦手よ。ちよは器用に色々できて、いいわね。学校ではどう? よくできる?」

「はい。お陰様で、不自由なくしております」

「凄いじゃない。優等なのね」

「きこさまほど難しいことはしておりませぬゆえ、できているだけにございます」

「ちよは頭がいいのよ」

「恐れ入ります」

 ちよとこうして他愛のない話をしながら歩くのは、とても心地よかった。慣れ親しんだ間柄であるのに、どこか新しいところを見ているような気にもなり、心がうきうきとする。その心の浮き方が、心地よかった。

 私達は人通りの多い道を行くと、様々な店の並ぶ通りを歩いた。雨に降られた人力車の車夫や、馬車の馬、自動車の横を通りながら、雨の街を楽しんだ。私達の他にも出歩いている人は多く、それぞれに雨の格好をして歩いている。

「ここだわ」

 私達が足を止めたのは、小さなあんみつ屋の前だった。

 ちよは窓ガラスから明るい店内を見た。いや、窓ガラスにうっすらと映った自分の顔を見ているのだ。左耳に揺れる見慣れない髪飾り。ちよはそんな自分の姿を見て、何を思っているだろうか。

「入りましょう」

「きこさま、ちよはお金を持っておりませんが……」

「いいのよ」

「申し訳ありません」

 ちよが本当に申し訳なさそうにするので、私はそんなちよの姿を珍しく思い、思わず笑みが漏れた。

 私達は傘を畳むと、傘立てに傘を立て、店内に入った。

 あんみつ屋の中は空いていた。私達は案内された席に座って、適当なものを頼んだ。ちよは少し迷っている様子だったが、好きなものを頼んでと言うと、おずおずと伊予柑いよかんの入ったものを頼んでいた。

 私はほっと息をついた。

「でも良かった。ちよとこうやって出かけられて」

「お連れくださり、ありがとうございます」

「こうして二人きりで出かけるなんて、あまりしなかったわね……。もしかしたら、初めてかしら」

「はい」

「これからは、もっと色々なところへ行きましょう。二人でお洒落をして、おしゃべりをして、まるで姉妹みたいにね」

「恐れ多くございます、きこさま」

「ふふ、そう? でも本当に、ちよのような妹がいてくれたら、嬉しいわ」

「ありがとう存じます」

 本当に、ちよが妹であったらな……。私はそんな風に思った。

 物静かで賢く、良く気の付くちよ。こんなにできた者はそうそういまいと思う。そんなちよを私は、本当は、尊敬しているのだと思った。

 こんなに尊敬できる者が妹なら、どんなにいいだろう。きっと誇らしく、幸せなのに違いない。

 けれどそれを思うと、身分の違いが悲しかった。今は華族の娘と奉公人という関係だけれど、それがいつか姉妹という形で結ばれたりしないだろうか。そう、私と希清様のように……。

 暫くしてあんみつが運ばれてきた。けれどちよがじっとあんみつを見て口に入れないので、私はくすりと笑いながら食べることを勧めた。

「食べてみて、ちよ。美味しいわよ」

「ありがとうございます。……いただきます」

 ちよはそっと小さな口にあんみつを運んだ。そうして口を動かす姿は、本当に可愛らしかった。

 私は自分もあんみつを食べながら、ほうとため息をついた。

「本当に、ちよが妹ならと思うわ」

「もったいのうございます」

「どうして、私は華族の娘で、ちよは使用人なのかしら。私、もっと平等な関係がいいわ」

「きこさま」

「なあに?」

「きこさまはちよに充分にご厚意をくださいますし、ちよは、今のままで充分と思っております」

「でも……」

「きこさま、人の平等は身分によって左右されません。平等は相手への敬意によって成り立つのです。ちよはきこさまを尊敬しておりますゆえ、そう思ってくださるだけで幸せにございます」

「相手への敬意……」

 私はじっとちよを見た。

「私も、ちよを尊敬しているわ」

「恐れながら、それが平等というものでございます。ですから、特別に何か関係を結ぼうとなさらなくとも、きこさまはもう、ちよを平等に扱ってくださっているのです」

「そうなのかしら……」

「はい」

 ちよは静かにそう言って、あんみつを口に含んだ。

 ちよは本当に賢い。今以上に特別な気を遣わなくても充分なのだと、私をそっと諭したのだ。ちよという存在は、私にはとても得がたく、かけがえがないと改めて思った。

 そんなちよの姿を見ていて、私は、そうだ、とはっとした。

 たとえば、ちよがまだ胎児のうちに誰かに殺されてしまって、生まれてくることができなかったとしたら、今のこの幸せはないのだ。生まれてこられたとしても、もしそれがちよでなく、ちよの体を奪った存在だったとしたら、それはきっとちよではない。

 私は藤一郎が言った魂殺しの罪の重さというものを、ちよを通して考えて、改めて何と言うことだろうと思った。

 私の手が止まっているので、ちよは顔を上げた。

「いかがなさいました、きこさま」

「え? ああ……その」

 私は少し悩んでから、口を開いた。

「もし、もしよ、もしちよが誰かのせいで生まれてこられなかったら、それって悲しいことだなって思ったの」

「その時は、他の者がちよの代わりをいたします」

「いいえ、ちよじゃないとだめなのよ」

「ちよの代わりはいくらでもおります」

「そんなことないわ。ちよはちよしかいないのよ。もしちよの代わりに誰かがちよになったとしても、それはちよではないのよ」

 言いながら、私は胸が痛んだ。ちよはちよしかいないなら、葵子も葵子しかいないのだ。それを私は殺してしまって、存在を取って代わった。魂殺し。何て罪深いのだろう。

 罪深い、そう思うけれど、希清様のことを考えると、私はもっと複雑になる。希清様は私が璃子であることに気付いていて、ようやく会えた、とまでおっしゃったのだ。希清様にとっては、璃子は璃子しかいない。そんなたった一人しかいない妹の璃子と会えることを、ずっと心待ちになさっていたのだ。

 そんな希清様の思いに応えるため、私は、璃子は、魂殺しをしてまで生まれ変わった。きっと璃子にとっても、希清様は希清様しかいなかったのだろう。けれど私にその記憶はない。せめて記憶があったならと思う。そうすれば、魂殺しの罪についてもっとよく考えることができたものを、それができない。なぜ私は、生まれ変わるのに、魂殺しという手段を選んだのだろう。もっと他に、できることがあったはず……。そうすれば、私は、希清様のことを考える時に、自分の罪というものを考えずに済んだのに。

 私はあんみつを食べる手を止めて、そっとまぶたを伏せた。

「ねえ、ちよ」

「はい」

「人が生まれてこられないことって、とっても……悲しいことよね」

「きこさま、いかがなさいました?」

「ううん、ただ……考えるのよ、もし誰かのせいで人が生まれてこられなくなったとしたら、それってとっても悲しいことだなって」

「きこさま、何かお悩みですか?」

「ううん、ちよ。ただ、ただね、もしよ、もしも、……」

 自分がまだ魂のままで、生まれようと思って他の胎児の魂を殺して生まれてきたら、それって罪深いことよね。私は思わず、そう言ってしまいそうになった。

 その罪深さのせいで、私はこの世ならざるものに近くなった。私はそのことすら、きちんと理解できていない。でもそれではいけないのだ。何も分からないままでは、希清様とも向き合えない。理解するためにも、私は……もっと色々なことを知るべきだ。私と近い、この世ならざるもののことを。

 私はふるふると首を振ると、微笑んでちよを見た。

「そうだわ、ちよ、何か話をしてくれない?」

「何をお話しいたしましょう」

「そうね……。雨の話がいいわ。雨の怖い話」

「承知いたしました。では、ひとつお話しいたします」……


 これはちよが黒川家に奉公に来る前、まだ池袋の実家にいた頃の話だ。

 その時ちよはまだ幼く、ようやく物心が付いてきたくらいだった。歩くのも手遊びをするのもおぼつかなかったが、ようやく一人遊びや一人で眠ることができるようになったので、世話をするのに誰かが張り付いているということが少なくなっていた。

 そんな頃、近くの家で女性が亡くなった。子を身ごもっていたが、その子が流れてしまい、それから長血を患って、そのまま病死したのだという。

 その女性はやもめで身寄りがなかったため、近所の女衆が中心となって葬儀と埋葬を済ませた。女性が亡くなった時、ささやかな雨が降っていて、埋葬の時にも雨が降った。それを涙雨だという人もいたが、ちよの祖母だけは何か不穏な顔をしてこう言っていた。「雨はあの世と近いもの。女がこの世に未練を残して、雨を降らしているのでなければいいが」。

 まだ幼かったちよにはその意味がよく分からなかったが、それからちよに奇妙なことが起こり始めた。

 雨の降る夜、とんとん、と雨戸を叩く音がする。上の兄姉たちと眠っていたちよは、その音で必ず目を覚ました。目を覚ますのはちよだけだ。そしてその音の後、必ずこういう声がする。

「ここにはいない……」

 どこか虚ろな女性の声であった。それが誰の声なのかは分からない。

 翌朝になって家族にそのことを言うと、他の者は誰もそんな物音も声も聞いていないという。そんな中、祖母はちよに向かってこう言い聞かせた。

「相手をしないで、黙っていなさい」

 ちよはそれに素直に頷いたが、まだ幼い年頃のこと、言葉の意味がよく分からなかった。それで、また雨が降った夜のこと、とんとん、という音がした時に、布団から這い出して雨戸へ寄っていった。

「ここにはいない……」

 間近で、虚ろな女性の声がする。ちよは雨戸を開けようとしたが、重くて動かない。仕方がないので布団に戻って、じっと雨戸を見つめていた。

 数日たって、今度は昼時、やはり雨が降っていた。ちよが一人でお手玉を転がしていると、薄暗い家のどこかから、とんとん、と音がした。続いて、「ここにはいない……」という声。

 ちよは音の源を探して、立ち上がった。どうやらお勝手から聞こえてくるようだ。お勝手の戸を、とんとん、と叩く音がする。ちよが黙っていると、やはり「ここにはいない……」と声がした。

 ちよがなお黙っていると、音はしなくなった。

 その夜のこと、雨はまだ降り続いていて、雨戸の外からしとしとと音がする。そこに、とんとん、と音がした。それから、「ここにはいない……」という声。ちよはまた布団から這い出して、雨戸へ寄っていった。

 そっと耳をそばだてていると、そこに誰かいるような気配がする。

「かくれんぼう?」

 とちよが問うと、

「……みいつけた」

 と声がした。

 何だか分からなかったが背筋がぞっとして、ちよは布団に戻った。

 その明くる日の夜、ちよが眠っていると、とんとん、と音がした。少し遠くからだった。それから聞こえた、「ここじゃない……」という声。それからもう少し近付いて、とんとんという音と、「ここじゃない……」という声。その音は遠くから順に雨戸を叩いて、少しずつこちらへと近付いているような感じだった。

 とんとん、「ここじゃない……」。

 とんとん、「ここじゃない……」。

 ちよがじっと雨戸を見ていると、いつもとんとんと音がするところで、とんとんと音がした。

 しかし、それに続く声がしない。

 ちよは雨戸に近寄って、そっと耳を近付けた。

「……ここだった」

 すぐそばで声がした。

 雨戸の隙間から、知らない女性がちよのことを見つめていた。

 ちよは驚いて声を上げた。その声に祖母が起きてきて、ちよの話を聞くとすぐにちよに塩を振りかけ、雨戸のそばに塩を盛った。

 祖母は翌日ちよをお祓いに連れて行った。それからは雨が降っても、妙な音も声もしなくなったという。

 その女性が誰だったのか、誰も何も言わなかった。ちよ自身も、雨の時に現れていたその女性と、子が流れて病死した女性とが同じ人だったのか、分からない、と言う。

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