第9話 桜の森で
「おい、人が来ているぞ」
そう藤一郎が言ってきたのは、一日の授業が終わり、部屋で本を読んでいたときだった。
私は勉強机から顔を上げ、本棚の上で足を組んでいる藤一郎のほうを見た。
「人?」
「会いに出たらどうだ。放っておくのもいかがなものかと思うが」
「誰が来ているのよ」
「出れば分かる。さっさと行け」
そう言うと、藤一郎はいなくなってしまった。
人が来ている……?
一体誰だか分からないが、わざわざ藤一郎がそんなことを教えてきたこともよく分からなかった。藤一郎はそんなことを教えたりするようなにんげ……神隠しではないと思っていたが。
ともかく、人が来ているというのは気になる。私は本を閉じるとそれを置いて、そっと部屋のドアを開けてみた。
……もしかして、蓮子様?
と思ったけれど、部屋の前には誰もいないし、廊下にも人影がない。
……何よ。誰もいないじゃない。
思わず心の中で文句を言ったが、藤一郎はどこに誰が来ているとは一切言わなかった。つまり部屋の前とも限らなかったわけだ。まったく、詳しい話をしないでいなくなるなど、気が利かないにも程がある。
私は部屋を出ると、きょろきょろしながら寄宿舎の出入り口のほうまで下りていった。寄宿舎の前だとすると誰か先生である可能性もあるけれど、そこにも誰の姿も見えない。
じゃあ一体、どこに誰がいるというのだ。
部屋の前、寄宿舎の前……。他に誰か来そうな所はないだろうか? そう思って、ふと芝生のさらさらした校庭に目を滑らせ、そのまま校門のほうを見た。
するとそこに、黒い服を着た人が立っていた。そこでじっと校舎を見つめている。
その服装が学ラン、学帽、インバネスというものだったので、一瞬藤一郎がいるのかと錯覚してしまった。けれど遠目に見ても分かるその髪の色は、間違いようもなく、あの方だった。
私はそれに気付くと肩を跳ね上げてびっくりして、慌てて部屋に駆け戻って服を着替えた。室内着ではまずい。絶対にまずい。
私は蓮子様と一緒にあんみつ屋へ出かけたときと同じ服を着て――何しろこれが一番お気に入りで、生地も仕立てもいいものだからだ――、走って寄宿舎を飛び出した。
でも校庭の芝生の上を駆けていくのは、あまりにもはしたなく思われてしまうかも知れない。私は呼吸を整えると、出来るだけ早足で、でも慌ててはいないふうを装って門のほうへ近付いていった。
校舎をじいーっと見つめていたその方は、私が近付いていくのに気付いて、少し驚いたようなお顔をなさった。
私達はようやく落ち着いて話が出来るほどの距離になると、お互い向き合って、私は微笑み、その方は頬を赤くなさった。
「希清様」
「あ、ああ」
希清様の頬が赤く染まっているので、髪の白さがいっそう際立った。
「いらしていたのですね。よくこんな所まで……」
「どうも、帝大からまっすぐに来られるようだったから……。葵子がいる女学院とはどんなものだか、見てみたくなったんだ。その、ろくでもないところじゃないかと思うと、心配でな」
希清様は目を泳がせながらそうおっしゃった。私のことをご心配なさって、わざわざ帝大からこんな所までいらしたということらしい。なんて真面目な方なのだろう。
私は思わずくすりと笑った。
「ありがとうございます」
「その、どうなんだ、葵子。この女学院は」
「とても過ごしやすい、いい学校です。仲良くしてくださる方もいらっしゃいますし、先生もとても……」
と言ってつい類巣先生の顔がちらついた。元軍人か……。何度でも思ってしまうが、音楽学校出の教師だとはとても思えない経歴だ。
「そ、そうか。よくやれているというなら、いいんだ」
「はい。皆様のおかげで、楽しくやっています」
「それなら、うん、よかった」
そう言うと、希清様はもう一度校舎をご覧になった。
「それにしても、随分と綺麗な校舎だな」
「ああ……」
私も希清様の視線を追う。
「
「帝大とは大違いに立派だな。帝大にも大きな講堂を作る予定があるらしいんだが、完成はいつになることだかな」
「さぞ立派な講堂ができることでしょうね。楽しみではありませんか」
「そうだな」
希清様は校舎から私のほうへと視線を戻されて、首を傾げられた。
「それにしても、よく俺がここに来ていることが分かったな。どこかから見えていたのか?」
「あ……いいえ。藤一郎が教えてくれたのです」
「……藤一郎」
希清様は低くその名前を呟いた。その声音は少し怖く、普通のものではなかった。
そんなに藤一郎のことを良く思っていらっしゃらないのだろうか。無理もないことだとは思うけれど……。
しかしすぐに気を取り直したように元のお声に戻って、希清様はため息をおつきになった。
「あの神隠しがか……」
「はい。教えてくれたのはいいのですが、普段はそんなに気を回すほうではないのです。何を考えているのかさっぱり分かりません」
希清様は学帽の角度を少し直して、明後日のほうを見て少し照れたようになさった。
「しかし、まあ……本当は、女学院を見るだけで帰るつもりだったんだ。まさか葵子のほうから来てくれるとは思っていなかったから、驚いた」
「私も、希清様がいらしているなんて驚きました。とっても嬉しいです」
「う、うん。そうか」
「そうです、希清様。少し外を歩きませんか?」
「そんなことをして大丈夫なのか?」
「はい。門限までに戻れば何も問題はありませんから」
「そうか。そうだな……。せっかくだから、そうするか」
「嬉しいです! どこへ行きましょうか」
「どこへ行けばいい? 学校と本屋を往復するばかりであまり遊び歩くことをしないから、こういうときどこへ行ったらいいのか分からないんだ」
希清様は少し恥ずかしそうにおっしゃった。あまりに真面目すぎて遊ぶことを知らないから、それが恥ずかしくなったのだろう。
そんなことを恥ずかしがる必要などないのに、そういう表情をなさるのが本当にお可愛らしい。私は思わずくすくす笑った。
「そうですね……。上野公園はどうでしょう」
「上野公園?」
「桜の森があると聞いたことがあるのです。私もまだ行ったことがないので、桜の森を見てみたいです」
「上野公園か……。そうだな、そうしよう」
門の横には衛士様が詰めているので、希清様は衛士様に声をかけ、上野公園までの道をお聞きになった。どうやらゆっくり散歩をするのにちょうどいいくらいの距離らしかったので、私達は人力車などは使わず、徒歩で行くことにした。
そうして、私達は並んで歩き出した。
希清様は前を向きながらちらりと私をご覧になると、少しもじもじするように頬をかいた。
「……その、似合っているな」
「え?」
「その服だ。葵子は黒がよく似合うな」
「そ、そうでしょうか。ありがとうございます」
今度は私が照れてしまった。私は頬を熱くして、思わず下を向いた。
上野公園は少し小高いところなので、私達は緩やかな坂を歩いて行った。今日は天気もいいので、少し汗ばんでしまいそうになる。
私はインバネスを羽織ったままの希清様を見上げて、お暑くないのかしらと思った。
「希清様」
「どうした?」
「お暑くはないですか?」
「いいや、大丈夫だ。葵子は暑いのか?」
「……はい、少し。今日はいいお天気ですね」
「ああ。見頃の桜を見るにはちょうどいい天気だろう」
丘まで登り切ると、上野公園が見えてきた。
上野公園には囲いがないので、どこから公園でどこまで街なのかが不明瞭だ。でも中にも外にも人が多く、沢山の人が花を楽しみに来ているのだということはよく分かった。
桜のある一帯は、遠目からでも分かった。
沢山の桜の木が植わっているその様子は見事の一言で、私は思わずため息を漏らした。
「きれい……!」
「ああ。これは見事だなあ」
私達は桜の森の真下に入った。
輝く日の光の下、瑞々しくも柔らかな薄桜色が何とも美しい。時折風に吹かれてはらりはらりと花びらが舞い落ちるのが、命のうつろいを見るようで感慨深かった。
そうして桜の森の真下を歩いていると、一輪ごと地面に落ちている桜の花があった。
希清様はそれを見つけると、腰をかがめてその花を拾おうとなさった。その時、地面に何かがぽとりと落ちた。何かと思って見ると、それは
花をつまみ上げた希清様は、肥後守を落としたことに気付いて慌ててそれを拾われた。そしてそれを胸にしまいながら、花を私に渡してくださった。
「いい形のものが落ちていた。葵子にあげよう」
「わあっ。ありがとうございます!」
誰にも踏まれておらず、本当に綺麗な形だ。白く、薄桜色の五枚の花弁。希清様がわざわざ拾ってくださった嬉しさに、思わず頬が上気した。
「本当は木から直接とりたいくらいだが、染井吉野は傷に弱いと聞くからな。落ちていたもので悪いが、桜のためにそれでよしとしてくれ」
「お優しいのですね」
「い、いや。そうだろうか」
希清様はやはり照れたようなお顔をなさった。肯定的なことを言われるとどうにも平静になれず、照れがまっすぐ顔に出てしまうのだ。本当になんて真面目で、お可愛らしい方だろう。
「それにしても、希清様、肥後守を持ち歩いていらっしゃるんですね」
「え? あ、ああ。そうなんだ。勉強ばかりしているから、鉛筆がすぐに書けなくなってな。いつでも削れるように、持ち歩く癖が付いてしまったんだ」
と言って、希清様は服の上から肥後守をなでた。鋭い刃物ではあるけれど、折りたたみ式で金属の
「勉強熱心でいらっしゃるんですね」
「他にやることがないのかとたしなめられるんだが、他に何をしたほうがいいのか分からなくて困るんだ」
「まあ。ふふふ」
だったらこれからは「妹と散歩に出る」などと言ってください、と言いたくなったが、恥ずかしくて口に出せなかった。
私はただ頬を熱くして、手にした桜の花を見つめた。
その時、強風が吹いて、ぶわっと花嵐が巻き起こった。その光景に、桜の森を歩いていた人々はわあっと歓声を上げた。薄桜色の花びらが桜の森を満たす。この世のものとも思えない、天上のもののような光景だった。
その光景に、私も思わず声を上げた。
「見てください、希清様! なんてきれいな……!」
「これはすごいな」
希清様も感心なさって、花嵐がおさまるまでそれを眺めておられた。そうして花嵐の名残がはらりはらりと落ちてくると、希清様は私のほうを見た。
「葵子が喜んだから、俺も嬉しい」
「希清様……」
「ここはいい場所だな。季節が変わったら、また来てみよう。秋に来れば、桜の紅葉が見られるに違いない」
「はい。楽しみです」
私の笑顔を見て、希清様も笑みを浮かべられた。
「これから、色々なところへも行ってみたいものだな」
「はい」
「……葵子」
「はい?」
希清様はなぜか切なそうなお顔をなさった。
「俺はずっと考えているんだ。これからどうやって一緒にいてやろうかとな。だが、今まで過ごしてこられなかった時間をどう取り戻せばいいか、見当も付かない」
「希清様……」
そう言う希清様の目は本当に真剣だった。けれど元々の切なさを感じさせる面差しのせいで、その真剣な表情すらもどこか切なく見えた。
今まで、過ごしてこられなかった時間を……。
……希清様は、そんなことを考えていらっしゃったのか。
私には少し不思議に思える言葉だったけれど、何を言わんとしているのかは分かった。
私は、希清様がお兄様になるということにばかり舞い上がり、出会っていなかった今までの時間というものなど、全く考えていなかった。それが私にとって重要でないということはないけれど、私は希清様ほど、お互いの過去というものに考えが及んでいなかったのだ。
思いもしていなかった希清様のお言葉に、私は希清様から目を離すことができず、ただじっとお互いに見つめ合っていた。
どれほどが経ったのか、そうしていると、どこからともなく大きな羽ばたきの音が聞こえてきた。
薄桜色の森に突如舞い降りてきた、黒いもの。あまりに目立ったので思わずそちらのほうを見ると、桜の枝に一羽の
鴉はきょろきょろと首を動かすと、少し奇妙な鳴き声を上げた。こんな美しい場所には似合わない、何かを警戒するような鳴き声だ。鴉がいるのが比較的近くだったこともあり、私は少し怖くなった。
「希清様。鴉が……」
「ん?」
私の視線を追って、鴉を見上げる。
「珍しいな。人里に鴉か」
「……何だか、私に向かって鳴いているような……」
「葵子に? なぜ鴉が」
「……気のせいでしょうか」
鴉はまた普通でない鳴き声を上げた。やはり警戒しているように聞こえる。しかもくちばしを私のほうに向けているので、どうにも私が警戒されているような感じがしてしまう。
けれど、私は鴉に警戒されるようなことなど何もしていない……はずだ。鴉が巣を作る季節ともずれているし、羽を休めに来た鴉を邪魔したわけでもない。
鴉は翼を広げて、ばたばたとそれを動かした。顔は私に向いてる。やはり私? でもどうして?
――業罪が邪気を呼んでいる。
不意に、藤一郎の言葉が脳裏をよぎった。まさかこの鴉は、私の邪気に向けて鳴いているのではないだろうか。
確証はない。けれど、他に鴉から警戒されるような原因は思いつかなかった。
私は鴉と目が合ったまま、固まってしまった。
希清様は私が動けなくなっているのを見て、促すように私の肩にお手を触れた。
「葵子。あちらへ」
「……はい」
鴉のことがどうにも気になったけれど、私は希清様に背を押されてその場を離れるように歩き出した。
その時だった。
鴉がぎゃあぎゃあ声を上げ、私に向かって飛び降りてきたのだ。
――こっちへ来る!
「きゃあっ!」
私はわき上がってきた恐怖に突き動かされて、とっさに顔をかばって腰をかがめた。鴉の鋭いくちばしや爪に傷付けられる恐怖でいっぱいになる。
その瞬間希清様は私をかばうように鴉の前に立ちはだかり、何かを一閃させた。
途端に鴉の体勢は大きく崩れ、失速した。希清様はその隙に鴉の首をがっと掴むと、もう一度光る何かを一閃させた。
……静かになった。
どうしてか、桜の森がしんとしている。そんな中、ぽた、ぽた、と、滴る音がした。
そして希清様の足下に、なぜか赤黒い液体が
私は頭を抱え、下を向いた視界の端で、それを見ていた。
私はおそるおそる視線を上げていった。
希清様は左手に鴉の首を掴んでいた。鴉はだらりとしていて、その首と腹からだらだらと血を流している。希清様の右手には、希清様が愛用している肥後守。金属の鞘から抜き払われた刃が、血に濡れている。そこから一滴、ぽたりと血が滴った。
鴉の血を浴びて、白い髪に、顔に、赤黒い液体が伝っていた。
「きゃあっ」
希清様を見て、誰かが悲鳴を上げて後退る。花を楽しんでいた人たちが、希清様を避けるようにさあっと引いていくのを感じた。
希清様は鴉の血を浴びたことを気にした様子もなく、こちらへ顔を向けた。
「怪我はないか、葵子」
「……ま、まれ、きよ……さま」
希清様に掴まれた鴉がどうなっているのか、私は恐ろしくて正視することが出来ない。
代わりに、私の目は希清様の血に汚れたお顔に釘付けになった。そのお顔には、細かな血の
「……希清様、どうして……」
「こいつが葵子に襲いかかろうとしたからだ」
希清様はそう言い切った。私はそれを聞いて、口元が凍ってしまった。
鴉は死んだのに、何を怯えているのか――希清様はそう訊きたがっているようなご様子で、首を傾げた。その頬を、赤黒い液体が、つー……と伝っていく。
「……なにも……殺さなくても……」
「葵子を傷付けるやつは、死ねばいい」
桜の森の静寂に、希清様のそのお声だけが染み渡る。低く、安心させるようなお声なのに、なぜか私の背中を冷たいものが這っていった。
鴉の首の傷口からたらたらと流れる血が、花びらの積もった地面へと落ちていく。
「……希清様……」
私の声はひょろひょろしていた。
希清様は笑った。元々切なさをたたえたお顔にそんな笑みを浮かべると、どこか悲しみが溢(あふ)れているかのように見える。
「……葵子、絶対に、怪我をしたり、死んだりなんて、させないからな。もう何も怖がらなくていい。もうあんな怖い思いは、二度としなくていいように、俺が必ず守るから」
もうあんな、怖い思いは……?
もうこんな、ではなく、あんなとは……?
私と希清様は、過去に何か、あるのだろうか? 何か恐ろしい出来事が?
希清様の言い方は、何だかそう思わせるものがあった。
満開の桜の木の下、鴉の死体を持ったまま、血に汚れた希清様はもう一度私に向かって微笑まれた。
その後誰が呼んだのか分からないが、
血に濡れたまま人目に触れながらは帰れないので、希清様は車を呼んでお帰りになった。小石川に戻ったら、きっと両親や使用人は希清様のお姿に驚くことだろう。
私は女学院に戻ると、寄宿舎への外廊下をとぼとぼと歩いていた。
私の手の中には、希清様からいただいた桜の花と、白いハンカチーフ。私はぎゅうっと、そのハンカチーフを握った。元々白かったそれは、希清様のお顔や御髪を拭いたために赤黒く汚れてしまっていた。この血はきっと、綺麗に落としきることは出来まい。
そうして少しうつむきながら歩いていると、教員宿舎のほうから歩いてくる人影があった。
そちらのほうを見ると、それは類巣先生だった。類巣先生は楽譜や何かの帳面を抱えている。持っているものを見るに、また音楽室でピアノを弾くのだろう。
私達は教員宿舎と寄宿舎との分かれ道で立ち止まり、お互いの顔を見た。
「これはどうも。どこかへお出かけでしたか」
「類巣先生……」
私は思わず力なく反応してしまった。その姿が奇妙に思えたのだろう、類巣先生は私の様子を観察してきた。そして私の手の中に赤く汚れたハンカチーフがあるのを見て、改めて私の顔を見た。
「どうかなさったのですか」
「あ……いえ。その……」
「どうも、普通ではないご様子ですが」
その言葉に、私は黙り込んでうつむいてしまった。
「何かお困りですか?」
そう言われて、私は「困ったら、頼りなさい」と言われたことを思いだした。「そのための教師です」と。でも、今日あったことを相談してもいいものだろうか……。
私は暫し悩んでいた。類巣先生は私のその様子に、口を挟まずに待っていた。
「あの……」
そして、私は意を決して口を開いた。
「はい」
「実は、今し方……兄と出かけていたのです」
私はそこで起こったことを話した。ついでに、私と兄とは元は従兄妹であり、今回養子縁を組むことで兄妹になることになったことも話した。
類巣先生は何も言わずに私の話を聞いていて、私が話し終わると小さく頷いた。
「そうですか。それは驚かれたでしょう」
「……はい」
私は小さく頷く。
「それに……もうあんな怖い思いは、と言われてしまうと、私と兄とは、昔に何かあったのではないかという気がしてしまうんです」
「しかし、お会いしたことはなかった、ということでしたね」
「……はい。そのはず……なんです。でも……何だか、時々兄の様子がおかしく思える瞬間があるんです。まるで、昔にお互いを知っていたかのようなそんな口ぶりをなさることが……。そういう言葉を聞くと、何だか私は不安な気持ちになるんです。不安というか、少し怖いような気持ちに……。私には、私の覚えていない私があるんじゃないかと……」
「それはとても悩ましいお話ですね」
と言うと、類巣先生は楽譜を抱え直した。
そして暫く何かお考えになっているように黙り込んで、改めて口を開いた。
「お兄様のお名前は、何と?」
「希清様です」
「希清、ですね」
類巣先生はそれを確認してどうなさるおつもりなのだろう。私には分からなかったが、私からの返答を聞いて、類巣先生は抱えていた帳面を引っ張り出し、それをぱらぱらとめくった。
「実は、気になった新聞記事を切り抜いてとっておく習慣があるのですが」
「はあ」何の話だろう。
「以前あなたにお話ししたことがありましたね、梟木に晒された首を見たことがあると。それがきっかけになったのかどうか、人間の行いの暗い部分に関心があるのです。ですから、そういった記事があるととっておくことにしているのです」
と言いながら帳面を
「希清という名に覚えがあります。もしかしたら、この記事にあるこの方ではありませんか」
「えっ?」
私は類巣先生の言葉に仰天した。
希清様の名が、新聞に?
私は類巣先生が差し出してくれた新聞の切り抜きを受け取った。思わず指が震える。それは確かに新聞記事の切り抜きで、見出しにはこうあった。
――『業病の治癒と称し、華族令嬢を殺害』
見るからに、あまりいい事件ではない。日付がはっきり書いていないので詳しくは分からないが、記事の傷み具合からすると、十年以上前の事件らしい。もしかすると私が生まれるか生まれないかという時期かも知れない。
ともかく、私は記事を読んでみた。
『被害に遭われたのは黒川
「……これ、は……」
私は最後まできちんと読むことが出来なかった。手が震えて、まともに持っていることも難しいくらいだ。
黒川道知男爵は、希清様のお父様だ。つまりこれは、間違いようもなく、希清様に関係する事件の記事……。
希清様の双子の妹は、事故でお亡くなりになったのではなかったか。私は、そう、聞いて……いたのだけれど……。
「いかがです。この方ですか」
私が言葉を失っていると、類巣先生はそう問いかけてきた。
私はまだ半ば呆然としたまま、何とか頷いた。
「そうですか。これは推測ですが、もしかしたら、あなたのお兄様はこの殺された妹とあなたのことを混同していらっしゃるのではないでしょうか」
「混同……?」
「混同と言うより、同一視かもしれませんが」
「同……一視」
「私にはこれ以上のことは言えません。あなたほど状況を知っているわけではありませんし、滅多なことを言うのも好みませんので」
「いえ……でも……同一視……」
私はもう一度新聞記事を見た。
「……そうなのでしょうか」
「私にはそのように感じられる、ということです。まあ、私個人の感想を聞いたという程度にとどめておいてください」
そう言うと、類巣先生は帳面を閉じた。
「それは暫くお貸ししましょう」
「え……でも、これは類巣先生の大切なものでは?」
「宝物と言うほどのものではありません。あなたが何かを考える手助けになればと思って、お貸しします。不要であればそれでも結構ですが」
私はふるふると首を振った。
「……いいえ。お貸しいただけますか?」
「もちろんです。不要になったら返してください」
と言って、類巣先生は頭を下げた。
「では、私はこれで」
「あ、はい。ありがとうございました、類巣先生。本当に……」
「いえ」
そう言うと、類巣先生はそのまま行ってしまった。校舎のほうに向かったということは、やはり音楽室のピアノを弾きに行くのだろう。
私は類巣先生が校舎の扉に消えるのを見送って、寄宿舎の自分の部屋に戻った。着替えもせずにベッドに座り込み、膝の上に桜の花をのせ、うつむく。
赤黒く汚れたハンカチーフと、忌まわしい事件が書かれた新聞記事を見下ろして、私はため息をついた。
希清様は、私と璃子様を同一視なさっている……。
そう思うと、それはそれで納得できるような気がした。むしろ、そうなのかも知れないとまで考えられる。
私がそうしていると、勉強机の上にふわりと黒い人影が現れた。
藤一郎だった。
勉強机の上で足を組み、私のほうを見ているのを感じる。
私はその視線を感じながら、顔をも上げずに、低く言葉を発した。
「……何をしに来たの」
「鴉が来るとは予想外だったが、いいきっかけになったな。お前もこれで分かっただろう。黒川希清は狂気を持つ人間だとな」
「……希清様は……狂気なんかじゃない。私を守ってくださったのよ。ただ……今回は少し、度が過ぎてしまっただけで」
「まだかばうのか。まあいい。どうだ。少しは僕の話を聞く気になったか」
「……話って何よ」
「お前の業罪のことだ。黒川希清も大きく関係している」
「どう関係するって言うの?」
「その記事を読んだだろう」
私はもう一度記事を見下ろす。
「だから?」
「つまり、そういうことだ」
「どういうことよ?」
「希清は眼前で妹を失ったことで心に狂気を宿したのだ。そしてその狂気が妹の魂を呼び、妹の魂がそれに応えたのだ」
「……璃子様が?」だから、つまりどういうことなんだ。
「様とつけるな。お前のことだぞ」
「私ッ?!」
私はぎょっとして新聞を取り落とした。私の膝の上に、はらりと記事が着地する。桜の花の隣に、
「私、私が璃子様? そんなわけ、ど、どうして……」
「お前は兄の呼び声に応え、胎児だった黒川葵子の魂を殺し、その肉体に宿ったのだ。お前が殺したのは黒川葵子だ。
「ちが……違うわ、私は……そんなことしてない……」
「希清はお前が妹の璃子であることに気付いているぞ。だからお前の名を紛らわしいなどと言ったのだ。似ているからな」
「私は違う、璃子様じゃない……」
「お前が知りたいと言ったのだぞ。わざわざ教えてやったのだから現実を見たらどうだ」
「違う違う! 私は違う!」
私はとっさに目を閉じ、耳をふさいで大声を上げた。
「消えてよ! どこかへ行って!」
私の声が部屋中に響き渡る。それに対する返事はなかった。
思わず荒くなってしまった息を整えて、そろそろと目を開く。勉強机のほうを見てみると、藤一郎はもういなかった。
私が……璃子様?
そんなこと、信じられない……!
もし藤一郎が言ったことが事実なのだとしたら、私は本当は、黒川璃子だということになる。つまり、私は、兄である希清様の目の前で、体中を刺され、抉られて――。
いや! 考えたくない!
私は反射的にベッドに体を投げ出して、枕に顔をうずめた。そのとき、桜の花がはらりと床に落ちていったが、私はそれに気付く余裕などなかった。
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