第8話 手

「葵子さん」

 授業が終わり、次々に同級生が教室から出て行く中、私に近付いてきて声をかけてくる人がいた。顔を上げると蓮子様だった。

 私は教科書などをまとめている最中だった手を止めて、蓮子様を見上げた。

「蓮子様」

「どう? 何か分かった?」

 蓮子様はふんわりと微笑んで首を傾げられた。

「あなた自身のこと」

「ああ……」

 蓮子様は、私があんみつ屋で話したことを覚えてくださっていたのだ。自分のことを考えるために、怖い話が必要なのだと言った、あの要領を得ない話でも。何だか恐縮だった。

 私は教科書類を抱えて立ち上がると、弱々しく首を振った。

「考えてはいますが、まだ全然分かりません」

「そう……」

「色々と怖い話を聞いてみたりもしましたが、怖いばかりで、私のことは全く分からないんです」

「そうなの」

 蓮子様は頷いた。そして「一緒に寄宿舎へ戻りましょう」とおっしゃって、歩き出した。お言葉に甘えて、私も蓮子様のお隣に並ぶ。

 沢山の女学生が寄宿舎のほうへ歩いて行く中を、私達も静かな足音を立てて進んでいく。

「わたしもね、考えてみたの。自分って、何なのかって」

「蓮子様も?」

「ええ。葵子さんに、怖い夢を見ているという話をしたことが、あったでしょう?」

「あ、はい」

「わたしあの時、どうして自分がこんな怖い夢を見るのかしらと思っていたの。でも考えてみたら、わたしにあんな夢を見る原因のようなものがあったのかも知れないのよね。わたしには詳しいことは分からないけれど、葵子さんが考えていることも、きっとそんなようなことなんじゃないかしら」

 実際にはただの夢ではなく、鬼の異界に繋がっている夢だったのだけれど……。でも蓮子様にとっては、あれはただの夢ということになっているのだ。

 私は頷く。

「はい……。私も、怖い話が何か自分の抱えているものを解き明かす鍵になってくれるんじゃないかと思って、考えているんですけれど……。でも全然分からなくって」

「葵子さんは、実際に怖い話のような体験をしたことはあるの?」

「え? あ、ああ……。まあ、少し……」

 蓮子様を狙ってきた鬼と対峙したこととか、変な人に後ろから迫られたこととか……。

「その時と、葵子さんが聞いてきた怖い話とは、違うの?」

「そうですね……。まだ、よく分かりません。怖い話って、つまりこの世ならざるものの話ですよね。でもそれと自分とがどう関わってくるのか……」

「そう……。葵子さんは、そういう不思議な体験をしているの?」

「いえ、その、まあ……」

 私はもごもごと口ごもって、下を向きながら赤くなって頷いた。

「……そうかも知れません。実は……、もしかしたら、私自身が不思議なものなのかも……なんて、そんなようなことを言う人がいて、気にしているんです」

「まあ。そうだったの」

「あ、すみません、変な話をしてしまって」

「ううん。いいの」

 寄宿舎の二階に上がると、私達は階段のところで立ち止まった。蓮子様は三階に上がるため、ここでお別れだ。

「じゃあね、葵子さん」

「はい。蓮子様、色々お話ししてくださってありがとうございました」

「いいえ、わたし、たいしたことは言っていないわ。むしろ、葵子さんが色々話してくれて嬉しかった」

「蓮子様……」

 蓮子様はふんわりと微笑まれた。

「わたしも、怖い話を集めてみようかしら」

「え? 蓮子様も?」

「ええ。それで、沢山集まったら、二人で話し合いっこしましょう? 一人で考えているよりも、きっといいと思うの」

「蓮子様……! は、はいっ。ありがとうございます!」

 蓮子様からの提案は嬉しかった。何より、蓮子様がここまで私と仲良くしてくださることが。

「それじゃあ、また後でね、葵子さん」

「はい。ありがとうございました!」


「いい傾向だな」

 部屋に戻って勉強机に教科書を置くと、藤一郎がそう言って本棚の上で足を組んだ。

 私は希清様のことを狂気だのと言われたことをまだ根に持っていたので、むっとしてその顔を睨んだ。

「何がいい傾向なのよ」

「お前が異形の物語を集めていることがだ」

「それが何?」

「異形の物語は異形を呼ぶのだ。お前がそういうものを集めるほど、異形を引きやすくなる。僕にとってはすこぶる都合がいいな」

「別に、あなたのためにやっているんじゃないわよっ」

「しかし、自らのことについて考えようなどと、随分と暇なことだな」

「ひ、暇じゃないわよっ」

「どうしてそんなものを考える気になったのか、お前の思考はさっぱり分からん」

 と言って藤一郎は肩をすくめた。何だかバカにされているような感じがする。

「何よ、いけないって言うの?」そもそも、藤一郎があれこれと言うから気にしたのではないか。

「そんなことを言うか。好きにすればいい。それに異形の話を集めるほどお前の周りには異形の者が引かれてくるのだから、そのまま続けてくれるのは結構なことだ」

「だから、あなたのためにやっているんじゃないわよっ。勘違いしないでよね!」

「誰がそんな勘違いをするか。お前が勝手にやっていることが、結果として僕にとって好ましい状況を作っているというだけだ」

 藤一郎の言葉を聞いていたら、だんだん腹が立ってきた。私はむううっと頬を膨らませると、ぷいっと藤一郎から顔を背けて勉強机に腰を下ろした。

 そうして教科書を開くと、私は藤一郎のほうも見ずにぶっきらぼうに言った。

「勉強するから、あっちへ行ってよっ」

 と言ったものの、返事がない。

 ちらっと本棚のほうを見てみたら、藤一郎はもういなかった。何の反応もなくあっさりいなくなられると、それはそれで業腹だ。と言うよりもやもやする。

 私はむーっとして、ふんっと鼻を鳴らすと宣言通りに勉強を始めた。

 ……異形の物語が、異形を呼ぶ。

 ふと藤一郎の言葉が脳裏に入り込んできたが、私はそれを首を振って振り払った。


 その日の夜、入浴を終えた私は、自分の部屋で本を読んでいた。勉強机の目の前の窓からは星空が綺麗に見えていて、夜の寄宿舎の静寂と相まってとても浪漫(ろまん)的だ。

 ちよはもう戻ってしまっているので、私は今は一人だ。ちよが淹れていってくれたお茶の香りがまだ残っているから、そこまで一人という感じはしないけれど。

 そうして本を読んでると、突然、ことりという音がした。

 何か小さな音がすることなど日常茶飯事なので、私は最初気にしていなかった。しかし、ことり、ことり、とその音が頻繁になってくると、だんだん無視してもいられなくなってきた。

 ――何の音?

 私は本から顔を上げた。

 すると目の前の窓に、白いものが張り付いているのが見えた。

 手だった。

「きゃあっ!」

 私はぎょっとして椅子ごと後退った。

 すると、手はするすると下のほうへ下りていった。

 な……何、何なの、今の?

 ここは二階だ。一階ならともかく、こんな高さの窓に手が張り付くなんていうことが、果たしてあるのだろうか。

 心臓がばくばくする。

 ……い……嫌なものを見た気がする……。

 私は暫く固まってしまうと、ぱたんと本を閉じた。それを勉強机の小さな本棚にしまう。……と、とにかく窓から離れよう。またあんなものを見るのは気味が悪い。

 と思って勉強机に椅子をしまうと、すすす……という音と共に勉強机の縁を白い何かが滑っているのが見えた。

 誰かの両手だった。

「きゃああっ!」

 私は悲鳴を上げて飛びすさった。すると、その両手はするんと勉強机の陰に落ちていった。

 今の……今の、今のは……。

 ぞっとした。背中がぞわぞわするし、後ろに何かいるような感じもする。

 私は慌ててベッドのほうへ駆け寄った。出来るだけ背中を壁にくっつけたかった。後ろが壁ならまだ安心だ。

 そうしてベッドに飛び乗り、背中を壁に密着させる。

 ――こ……怖い、怖い怖い……!

 あの手は一体何なんだ。それに、相変わらず後ろに何かいるような感覚がする。後ろは壁なのに。

 私は膝を抱えて部屋の中を凝視した。

 ――ずっ。

 その時、ベッドの下から何かを引きずる音がした。

 私はさあっと青くなった。

 ベッドの下に、何かいる。

 ――ずっ。

 背中がぞわぞわする。

 ベッドの下……ベッドの下……。

 ――ずっ。

 私は目と耳を閉じて、じっとした。

 ――ずっ、ずっ、ずっ。

 ベッドの下からの何かを引きずる音は、消えない。

 恐怖で全身が寒くなってくる。

 ――藤一郎、藤一郎は何をしているのっ?

 異形を喰うと自分で言っているのだから、この物音を早く何とかしてほしい。

 早く何とかして――と思った瞬間だった。

 ずるうっと、寝具がベッド下に向かって引っ張られたのだ。

「きゃあ!」

 私は転がって壁に後頭部をぶつけた。そしてもう一度寝具が引っ張られ、私はベッドの縁まで転がってしまった。そうして思わず、はっと目を開いてベッドの下を見下ろしてしまった。

 もう半分くらいずり下がった寝具の下には、何もなかった。

 何かの手が寝具を引っ張っているところをとっさに想像していた私は、手も何もないのでふうと安堵した。……また嫌なものを見るかと思った。

 そうして体を起こすと、目の前に女性が逆さまになってぶら下がっていた。

「きゃあーっ!」

 私は悲鳴を上げて飛び上がった。でも寝具でもつれてベッドの上に転がってしまう。

 天井から逆さにぶら下がっている女性は、私のことを見てはいなかった。うつろな目はほとんど白目をむいていて、私どころかどこも見てはいない。両手はだらんと床に向かって垂れ下がっている。その白い手は、先程から私が目撃しているものと多分同じものだった。

 私はとっさに顔を覆って、寝具にうずめた。

「藤一郎、藤一郎、藤一郎!」

「何だ、うるさいな」

 びょおう、と室内に風が起こると、藤一郎の声がした。

 私はまだ寝具に顔をうずめたまま、右手をぶんぶん振って逆さの女性がいるであろうほうを指さした。

「そ、それっ、それ、それ!」

「落ち着け。もう何もいない」

 藤一郎は心底呆れたと言いたげな声でそう言った。

 その言葉を聞いて、私はそろそろと顔を上げた。

 逆さの女性がいたところには藤一郎が立っていて、あの女性の姿はもうどこにも見えない。

 私は上目遣いに藤一郎を見た。

「い……いない?」

「言っただろう。異形の物語は異形を引くと」

「もういない……? 本当に?」

「何度も言わせるな。もう喰った」

 私はほーっとして体を起こした。

「こ……怖かった……」

「またそれだな」

「仕方ないでしょ! いきなりぶら下がってこられたら、怖いわよ!」

「何を言っている?」

「何をって何よ」

「あいつはずっとお前の真上にぶら下がっていたぞ」

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