第7話 兄、来たる

 ……お兄様が、来る。

 お兄様が、来る……!

 私はその緊張でかちこちだった。

 父から女学院に電話が入ったのは一昨日のこと。週末、学校も休みになるのだから、家へ帰って来て兄と顔合わせをしないか。そういう内容だった。

 その話に私はめまいがするほどの緊張に見舞われた。類巣先生の話が怖すぎてなかなか眠れず、寝不足だったところに突然湧いてきた兄来訪の知らせ。

 正式な養子縁組の手続きはまだだそうだけれど、その前に、兄と妹で会わせてあげたいと思ってくれたようだった。

 その気遣いはありがたい。ありがたいのだけれど、私は兄となる方のお顔もお人柄も分からないし、不安と緊張以外のものを感じる余裕が全くなかった。

 寄宿舎をたつ直前にも、自分の部屋の中をうろうろし、「どうしよう、どうしよう」とばかり呟いていた。

 そんな私に代わって、ちよは私の荷物をまとめてくれていた。本当にしっかりしている。

「ねえ、ちよ、どうしよう!」

「落ち着かれなさいませ、きこさま」

「私、どうしたらいいのかしら。どんなふうにしていたら、いいと思う?」

「いつも通りになさいませ。いつも通りのきこさまが、一番よろしいかと存じます」

「い、いつも通りって? 私って、いつもどんな感じだったかしら?」

「落ち着かれなさいませ、きこさま」

 ちよは私の荷物をまとめながらも私をなだめるという離れ業をやってのけ、続いて私の着替えを手伝った。家に戻ったらどうせもう一度着替えるのだけれど、だからといって適当な服は着て戻れない。それなりに格好を整えると、私はちよを連れて、父の用意してくれた車に乗って小石川の実家へと戻っていったのだった。


 私の実家はちょっとした洋館で、様々の木々に囲まれた豊かな敷地の中に建っている。

 お兄様とお会いするのは二階の応接間だ。女がいきなりそこで待っているのはみっともないというので、私は奥の部屋に控えていることになった。折を見て、両親が呼んでくれるという。

 私は実家に戻ってきてから、自分が持っている中でも上等の洋服に着替えていた。黒地に花が刺繍されたドレスで、白いリボンで腰を絞っている。豊かに広がるスカートの中にはパニエを沢山仕込んでいるので、動く度にしゃらりしゃらりと音がした。

 私は応接間の隣の部屋で、椅子に座ったまま落ち着きなく指をもてあそんでいた。

 そして母から聞いたお兄様になる方の話を、頭の中でぐるぐると回し続けた。

 お名前は、希清まれきよ、とおっしゃるそうだ。

 希清様。

 ……また、つかみ所のないお名前だ……!

 希清様というお名前からは、どんなお人柄も想像できない。お写真も拝見していないから、どんな方なのかは余計に不明だ。

 希清様は、父の末の弟の三男で、私の従兄いとこに当たる。従兄とは言えお会いしたことはない。聞けば、幼い頃に双子の妹を事故で亡くされてしまったそうで、当時四歳だった希清様はそれに大きな衝撃を受け、暫く口もきけない状態だったという。けれど今はごく普通に成長なさり、今年帝大にご入学なさったのだそうだ。つまり十九歳。私とは五歳も離れている。

 私の母奈知子なちこは、希清様が妹を亡くされているという話をし、私にこう言った。

「よい妹になるよう、つとめるのですよ」

 よい、妹に……!

 ……いや、それはいい。私もそうしたいと思う。でもその前に、希清様とは一体どんな方なのか、それを教えてほしい。私にはお人柄を想像できるような情報が一つもないのだ。不安ばかりが募って、口から心臓が飛び出しそうだ。

 この部屋には今は私一人だ。ちよはここにはいない。ちよがそばにいてくれれば、こんなに心細くなんてならないのに。

 そうして一人そわそわしていると、隣の応接間から話し声が聞こえてきた。低くくぐもっているので、母の声くらいしかはっきり聞こえない。ただ、ひとつだけ聞き馴染みのない声があった。低く、柔らかな声。まだ若そうなこの声は、――希清様に違いない!

 希清様がいらっしゃったのだ。母も、よく来てくれました、というようなことを言っている。

 ままま、希清様がお隣に……!

 こんな時、もう、藤一郎でもいい。藤一郎でもいいから、ちょっと出てきて軽口の一つも叩いてくれたら、少しは落ち着くと思うのに! でも藤一郎は全く現れる気配がない。とは言えいつお呼びがかかるか分からないこんなときに出てこられても、それはそれで困ることは確かなんだけど。

 隣からは、三人で何事か話している声が聞こえてくる。私が呼ばれるのはいつなのだろう。ああ、もう、いっそ早くして……! いやでも、まだ心の準備が……。

 立ったり座ったりする余裕もない。

 もう半分錯乱しそうになっていると、控えの間の扉が叩かれた。

 私はそれに全身でどきりとした。

 その扉を開けて顔を覗かせたのは母だった。私の顔を見て、にっこりと微笑む。

「葵子。いらっしゃい」

「は、はいっ」

 かちこちに立ち上がると、私は顔も上げられないまま、ぎこぎことぎこちなくと扉のほうへ近付いていった。

 母の横を通って、応接間に入る。

 応接間には様々な調度品がえてあり、真ん中に大きなテーブルがある。父はテーブルの向こう、主賓席のほうに立っていた。でも私はそれを視界の端にとらえられただけで、それ以外のものは一切目に入ってこなかった。緊張のあまり真下を向いたまま、徐々に徐々に、前へ進み出る。

 ま、希清様がいらしている、希清様が……。

 と思いながらちょこちょこ進んでいたら、突然、ふわりと全身が圧迫されるような感覚に襲われた。

 え?

 え? なに?

 何が起こったのか、とっさには分からなかった。

 そして気付く。

 誰かが、私を抱きしめているのだ。

 ……抱きしめている?

 ふんわりとした髪の毛の感触が、私の頬と耳をくすぐる。

 ……ま、まれ、

 希清様だ!!

「えっ、え、あの、あのあのあの……」

 私はとっさのことに反応できず、混乱したまま口をぱくぱくと動かした。

 そんな、いきなりこんな、抱きしめてこられるなんて……!

 ふりほどくことも出来ないし、落ち着いて身を任せることなどもっと出来ない。まさか、日本の男性にこんなにも大胆な方がいるなんて、その、私はえっと、どうしたら……!

「……やっと会えた。長かった……」

 低い、まろやかな声。耳に心地よく響く低音で、どこか安心させるような響きがあった。その優しいお声が、独り言なのか私に向けて言ったのか分からない言葉を呟いた。

 錯乱していると、希清様はそっと腕をほどき、私を放した。そしてそのまま私の両肩に手をお置きになり、どこか感慨深げに私の顔を見下ろした。

「……長かった。本当に」

 私を見つめてくる瞳は、落ち着いた焦げ茶だった。涼やかだけれど、どこか切なそうな目つき。反して眉毛は精悍さを覚えるくらいにしっかりしていて、その対比で、どこか不思議な印象に感じられた。

 そして特筆すべきなのは、髪の毛だった。

 真っ白、なのだ。

 少し毛先に癖があるが、癖があることを感じさせないくらいに白さが目立っている。眉も、まつげも、白い。若白髪にしても、あまりにも完璧に真っ白だ。

 私は髪の白さに驚いてしまって、長かった、と言われたことに全く言葉を返すことが出来なかった。

 希清様は黒の洋装をお召しになっているので、髪の白さがいっそう際立っている。

 私達はそれ以上何も言えないまま、ただじっとお互いの目を見つめ合っていた。

 そして、ややあった後、希清様ははっとした顔をした。そしてかあっと顔を赤くなさって、慌てて私の両肩から手を離した。

「こ、これは申し訳ない。感極まってしまって、つい……その、普段はこんな大胆なことはしないんだ。気を悪くしないでくれ」

 そう、希清様はおたおたと弁解した。

 どこか神秘的に見える風貌に反して、その人間味溢れる狼狽の仕方は、私に安心感をもたらした。これで外見通りに不思議な言動をなさる方だったら、私の混乱は去って行かなかっただろう。

 あまりに慌てていらっしゃるので、私は思わずくすりと笑った。

「いいえ。お気になさらないでください」

「悪かった、その……ええと」

 探るように私を見る。名前を確認したがっているのだろう。

 私はそっと頭を下げた。

「葵子と申します」

「そ、そうか。俺は希清という。……あ、俺だなんて行儀が悪いな。ええと」

「どうぞ、そのままでお話しください。私は気にしませんから」

「そ、そうか」

 本当に、人間味のある言動をなさる方だ。

 私はほっとした。

 希清様だなんてつかみ所のないお名前に、白い髪とどこか切なさを感じる面差し。だからどんなお方かと思ったが、何のことはない、中身はごく普通の方だったのだ。

 良かった……。よく分からない方ではなくて。

 私は安心から微笑んで希清様を見上げ、希清様は照れたように額をかいた。

 そんな私達の様子を見ていて、両親は顔を見合わせるとお互いに笑顔を交わした。そして父は、私達に向かって頷いた。

「私達は暫く失礼するとしよう。あとは、二人でゆっくり話でもしているといい」

「二人とも、仲良くね」

「はい」

 私は頷いたが、希清様は何か緊張したような面持ちをなさっただけだった。

 両親が出て行ってしまうと、私と希清様は応接間に二人きりになり、しんと黙り込んでしまった。会話のきっかけが、ない。

 私はちょっと視線をうろうろさせると、指をいじりながら希清様に提案した。

「あの、座りませんか?」

「あ、ああ、そうだな」

 そうして私達はテーブルに向かい合って座ると、またしても黙り込んでしまった。希清様は何かずっと緊張なさっているご様子で、じっと私の顔を見つめている。

 やがて女中の一人がお茶を運んできてくれたが、それを前にしても、私達はなかなかお茶には手を伸ばさなかった。

 しかし希清様も黙っているのはいけないと思ったのだろう、ややあってから、意を決したように口を開いた。

「あー、その、なんだ。は……」

「あ、いいえ、葵子です」

「ああ、そうだったな。紛らわしいな、どうも……」

 希清様は苦笑いなさると、落ち着きなく洋装のリボンに触れた。

「それで、葵子は十四になったんだって?」

「はい」

「そうか……。五歳も離れてしまうと、何だかさびしいような気がするな」

「もう少し、歳の近いほうが良かったですか?」

「あ、いいや、それは仕方がないことだから、いいんだ。しかし、その、懐かしいな」

 希清様ははにかんだような笑みを浮かべた。

「こうして実際会ってみると、もう随分経ってしまったなという気がするな」

「……ええと……?」

 それは、どういう……?

 私は希清様がおっしゃっていることの意味をはかりかね、思わず首を傾げてしまった。

 しかし私の戸惑いに気付いていないのか、希清様は嬉しそうになさっている。

「会ってみるまではどんなふうかと思っていたんだが。まあ、なんだ。あれこれ想像していても仕方がないからな。あまり考え込まずに会ってみて良かった」

 それは私にもよく分かった。確かに考え込んでしまうこともあったけれど、結局はそこまで想像を膨らませたりはしなかったほうだろう。……多分。

 私は笑って頷いた。

「私も……。お会いしてみるまで、どんな方なのかと思っておりました。でもお優しそうな方で、良かったです」

「優しそうかな? そうか。ははは……」

 希清様は照れたように笑った。

「いや、でも、少し驚いたんじゃないか? こんな髪になってしまったから……」

 そう言うと、希清様は前髪の真ん中辺りをつまんだ。前髪の中で一番長いその部分は、眉間をすっかり隠してしまっている。でも長いのは前髪ばかりではなくて、暫く髪をお切りになっていないのか、耳も半分くらい髪に覆われてしまっていた。その長さのせいで余計に髪の白さが際立っていて、癖のある毛先もやや踊るようで、綺麗に透き通っていた。

 私は失礼かなと思いながらも、小さく頷いた。

「……ええ、……少し、驚きました」

「あの時から、あっという間に白くなってしまってな……」

「あの時?」

 訊ねると、希清様はお答えになろうとして、でも思い直したように首を振った。

「いいや、やめよう。葵子にとっても、あまりいい話ではないからな」

 そう言うのを聞いて、私は少しだけ察しが付いた。あの時というのは多分、双子の妹が亡くなってしまったときのことなのだ。

 きっと、髪の毛が真っ白になってしまうほど、希清様にとっては大きなことだったのだろう。そう思うと、私は何だか胸が痛んだ。

 希清様は前髪の真ん中辺りを再びつまんで、上目遣いにその色を眺めた。

「しかし、白くなったものだなあ。参ったよ。目立つから」

「そのお色、私は好きです。とてもお綺麗ですから」

「そ、そうか? 気に入ってくれたんなら、いいんだ。友人からはまるでそういう妖怪のようだとからかわれるんだが」

「ふふ、妖怪?」

「お前は生真面目すぎるから、それくらい外見が奇抜な方がいいのだとも言われるな。失礼な話だ」

「真面目なことは、いいことだと思います。私も真面目そうな方で安心しましたもの」

「そうだろうか。安心してくれたんなら、まあ、いいかな。お前は真面目すぎて硬(かた)い、少しは遊ぶことを覚えた方がいいとしきりに言われるから、正直閉口しているんだが。とは言え自分でも手を抜いた方がいいと思うこともあるんだが、どうもな……」

「いいではありませんか。私は真面目な方が好きです」

「そ、そうか」

 私が肯定的なことを言う度にはにかまれるので、何だかお可愛らしい方だと思った。真面目すぎて、照れてしまうのだろう。

 こんな方がこれからお兄様なのだと思うと、嬉しい感じがする。

 私もついもじもじとして、テーブルの下で指先をいじりながら頬を熱くした。

「……何だか、本当に……希清様がお兄様になってくださると思うと、嬉しいです」

「う、うん。そうか」

「実は少し、不安だったのです。会ったこともない方が、お兄様になると思うと……」

「会ったことも……?」

 なぜか、希清様は目を丸くなさった。

「覚えていないのか?」

「はい?」

「俺のことを、知らない? 全く? 本当に?」

「え……? ……は、はい、お会いしたことはないはずですが……」

「そんなまさか……。り、じゃなくて、葵子、本当に何も覚えていないのか?」

「ええと……」

 私は困ってしまい、それ以上言葉が出なくなってしまった。

 もしかして、初対面というのは私の思い違いだったのだろうか? いや、でも、確かに希清様にはお会いしたことはなかったはず……。母も、「初めて会うので不安でしょう」と言っていたくらいだ。希清様は他の誰かと勘違いなさっているのではないだろうか。

 私が戸惑っているので、希清様は慌てたように両手を振った。

「ああ、いや、いいんだ。そうか、まあ、仕方がないかも知れないな」

「お会いするのは、初めて……ですよね?」思わず、確認してしまう。

「いや、気にしないでくれ。考えてみれば、覚えていないのも無理はないかもな」

「え? お会いしたことが……? 申し訳ありません、私……」

「いやいや、いいんだ。そうか。分かった。うん、気にしないでくれ」

「あの……」

「うん、いいんだ」

 希清様はそう言って笑われたが、そのお顔は何だか少しさびしそうに見えた。

 会ったことがあったのだろうか……? そんなはずは、ないのだけれど……。

 それから少しの間沈黙が続いてしまった。私は上目遣いに希清様のお顔をうかがって、言葉を探していた。希清様も少しお言葉に困っていらっしゃる様子だ。手持ちぶさたになったようにお茶を飲んで、何か考え込まれていた。

 お茶を置くと、希清様は話題を見つけたように口を開きかけた。けれど、どうしてか何か違和感を感じたかのように私の顔をまじまじご覧になった。

 何だか分からず、私は希清様を見つめ返す。

 希清様は少しの間何か考えているご様子を見せてから、あごを引いて目を細めた。

「……何が取り憑いている?」

「えっ?」

 私はびっくりして肩を跳ね上げた。

 けれどそれに答えたのは私ではなく、私の真横に現れた人影だった。

「ふむ。なかなか勘がいいようだ」

 いきなり藤一郎が現れたので、私はぎょっとしてその顔を見上げた。藤一郎はインバネスの襟元を掴み、すっと立ったまま希清様を見つめ返していた。

 希清様は藤一郎が現れると、がたんと椅子を揺らして立ち上がった。

「何だ、お前は」

「僕は神隠しだ」

「神隠し……?」希清様は藤一郎をにらみつける。「確かに、悪霊や妖怪変化の類いではない感じだが……」

「そこまで分かれば上等だ」

「どうして神隠しが、葵子に取り憑いている?」

「取り憑いているとは失礼だな。まあいい。こいつが異形の者を引くのでな。それを喰うためにそばにいるのだ」

「異形を引く? 葵子が? 葵子に一体何があると言うんだ」

「こいつは重い業罪を負っている。それが邪気を呼び、邪気に引かれて異形が来るのだ」

「業罪だと。葵子にそんなものがあるわけがない!」

「勝手に言え。事実は変わらん」

 藤一郎は肩をすくめて呆れたような顔をした。

「……葵子を悪し様に言うなら許さない」

 希清様は眉を寄せて藤一郎をにらみつける。その希清様の気迫をつゆほども気にした様子もなく、藤一郎は目を細めて希清様を見た。

「……ふむ」

 そして、何か察したような声を漏らす。

 私は藤一郎が希清様にまで失礼な口をきくんじゃないかとはらはらし通しだった。もしそんなことをしたら早速抗議してやるつもりで、じっと二人の会話を見守っていた。

 お願いだから、滅多なことを言うんじゃないわよ……! と、ついそればかり考えてしまう。藤一郎の口が悪いせいだ。

「いつまで葵子に取り憑いているつもりだ」

「さあな。こいつが異形を引かなくなれば用はないが、しばらくはここにいることになるだろう」

「お前の存在が葵子にさわるんじゃないだろうな。もしそうなら、許しはしない」

「そう警戒するな。人は喰わんし、寄ってくる異形を喰ってやっているのだから、むしろこいつにはいいくらいだろう」

「葵子を助けているとでも言いたげだな」

「そう言いたいわけではないが、結果としてはそうなっているな」

「本当に葵子には障りはないんだな」

「同じことを二度も訊くな。あるわけなかろう」

 藤一郎は希清様の警戒に、いちいち呆れたように応対した。

 希清様はまだ安心できないご様子で――それはそうだろう――、藤一郎をにらみつけていた。そして何を思ったのか、むっとしたようなお顔をなさった。

「……神隠しが、随分と美男子に化けたものだな」

「この外見の良し悪しは知らん。どうしてこんな顔にしたのか、理由はこいつに聞け」

 やはりその外見を私のせいにするのか。

 しかし希清様にそんな理由を訊ねられても、私に答えられるわけがない。素敵だなと思う男の人を想像していたら、それが藤一郎に反映されてしまいこうなったなどと。考えるだけで恥ずかしい。

「私は別に……そんな顔になってほしかったわけじゃないわよ」

 ぼそぼそと、小声で抗議する。むしろ、そんな顔になられて困っているくらいだ。

 そして希清様のほうをちらりと見ると、だんだんと希清様の気が立ってきているように感じられた。何だか、これは良くない。それに今はせっかく希清様とお話をしているときなのに、藤一郎に応接間の空気を険悪なものにされては、たまったものではない。

 私は身じろぎをして姿勢を正すと、希清様を見上げた。

「希清様」

 呼びかけると、希清様は眉間をほどいてこちらを見た。

「この神隠しはこんな調子ですけれど、ご心配なさらないでください」

「だが……」

「今までに、悪いことが起こったことはないのです。むしろ、結果的に私の大切な、その……お友達を助けてくれたこともあります」

 蓮子様のことをお友達と言うことが嬉しいやら気が引けるやらで、私はつい頬が熱くなった。

「それに、普段は全く気配を消していて、まるでいないように感じられるのです。ですから、何か私にとって悪いということはないと思うのです。希清様、どうかここはご安心なさってください」

「……葵子」

 希清様は納得しがたいような困り顔をなさったが、少しの間考え込んで、どこか不満そうなため息をついた。

「……分かった。葵子に免じて、そうしよう」

「申し訳ありません、希清様。無理に納得させてしまって……」

「いや、いいんだ」

 とはおっしゃるものの、希清様は藤一郎に対して全くいい印象を持たなかったようだった。あごを引いて、再度にらみつけた。

「神隠し」

「何だ」

「もし葵子に何かあったら、絶対に、許さないからな」

「別に構わん。好きにしろ」

 藤一郎はどこ吹く風だ。図太いというのか、人間は相手にしていないというのか。

 希清様がにらむばかりなので、これ以上ここに姿を現していても仕方がないと思ったのだろう、藤一郎は肩をすくめて姿を消した。

 藤一郎の姿が見えなくなると、希清様は興奮を冷ますようにふうと息を吐き、椅子に座り直した。

 これまで楽しくお話ししていたというのに、希清様の気分を害してしまったので、私は申し訳なさから肩をすぼめた。

「本当に申し訳ありませんでした、希清様。藤一郎が、失礼なことを……」

「藤一郎?」

「……あ、あの神隠しに、私がつけたのです。人の姿に化けている以上、神隠しとは、どうも呼びにくかったので……」

「……そうか。しかし、藤一郎とは……。それは、その、葵子の……」

「お聞きでしたか?」

「ああ、まあ、少し。兄となるはずだった、と聞いているだけなんだが」

「そうですか……。そうです。他に思いつかなかったので、つい名を借りてしまいました」

「そうか……。藤一郎……。兄の……」

 希清様はぶつぶつと呟いて、何か考え込まれた。

 そのご様子を見て、私は慌てて首を振った。

「いえ、ですが、私のお兄様になるのは希清様以外にはいらっしゃいません。兄になるはずだったとは言え、結局は……。ですから、私のお兄様は、希清様だけです」

「そ、そうか」

 希清様は久々にはにかんだような顔をした。

 希清様が普通に戻ってくださったので、私はほっとした。

「希清様」

「うん?」

 私は深く頭を下げた。

「これから、どうぞよろしくお願いいたします」

「あ、ああ。こちらこそ、よろしく頼む」

 希清様もどぎまぎなさったような様子で、そんなことをする必要もないのに、わざわざ頭を下げられた。

 その思わずやってしまったという動作を見て、私は微笑ましくなり、くすりと笑ってしまった。その私の笑い声に、希清様は少し恥ずかしそうになさって、真っ白な髪の毛に手を触れた。


 そして、その夜。

 私とちよは翌日にはもう学校があるので、実家には泊まらずに女学院に戻ってきた。

 希清様との初めての顔合わせは、私にとって満足なものだった。何より希清様が、とても真面目で、お優しい方だったことが嬉しかった。

 私は寝間着に着替えてベッドに腰掛けると、昼間の希清様とのやりとりをあれこれと思い返し、思わず笑顔になった。

「ふふふ……」

「楽しそうだな」

 その楽しい気分に水を差すように、藤一郎が勉強机に足を組んで現れた。

 私は一気にむっとして、じろりと藤一郎を見た。

「……何よ。いいじゃない」

「まあ、別に構わんがな」

「何をしに出てきたのよ」

「お前は自分の業罪について気にしていただろう」

「……だから何よ」

「原因が分かったから教えてやる。あいつの狂気が誘引したのだ」

「……あいつって誰?」

 私の知っている人の中に、狂気を持つような人なんていただろうか?

「お前は本当に勘が悪いな。黒川希清だ」

「希清様? 希清様のどこが狂気だって言うの?」

「お前はあいつの狂気に気付かなかったのか?」

「滅多なことを言わないでよ! 希清様は真面目でお優しい方よ。狂気なわけないじゃない!」

「どう言ってかばおうと無駄なことだ。ともかく、お前の業罪の根底にはあいつの狂気が関係している」

「関係なんてしてないし、希清様は狂気じゃないわよっ!」

 そもそも私と希清様は今日初めて会ったばかりなのだ。どうにも関係のしようがないではないか。

「おい、自分の業罪がどうのと気にしておきながら、僕の話を聞く気はないのか」

「聞く気になんてなれないわ!」

 私は大声を上げると、がばっとベッドの中に入り込んだ。

「あっちへ行って!」

 それに対する返事はなかった。すぐにいなくなったのだろう。布団の隙間からそっと見てみると、もう藤一郎の姿はどこにもなかった。

 私は希清様が狂気だと言われたことが悔しくて、その夜はなかなか寝付くことが出来なかった。

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