第6話 笑い声

 ……教室に鉛筆を忘れてきた。

 きちんとものをまとめてから寄宿舎に戻ったつもりだったが、細い鉛筆一本を、机の隅に置き去りにしてきたらしい。勉強しようとしたら全く見当たらないので、その時ようやく忘れてきたことに気付いたのだった。

 教室に戻ってみると、確かに、机の上にぽつんと鉛筆が置き忘れられていた。とりあえず、なくなっていなくて良かった。

 私はそれを持って寄宿舎のほうへと廊下を歩いた。

 すると、音楽室のほうからピアノの音が聞こえてきた。

 音楽室も教室も一階にあるので、それで良く音が聞こえてくるのだろう。

 私はふと気になって、音楽室を覗いてみることにした。この学校において、こんなに流麗にピアノを弾ける人は、一人しかいない。

 ドアノブを握り、木のドアをそーっと薄く開けてみると、グランドピアノに座って楽譜を並べ、ピアノを弾いている後ろ姿があった。

 それは予想通り、類巣先生だった。

 類巣先生は西洋の音楽を中心に学んでこられた先生だ。今弾いている曲も、西洋で書かれたものなのだろう。聴き馴染みのない、けれど美しい音楽。私はドアを開けたまま、そこに立ち尽くして類巣先生の演奏を聴いていた。

 そして曲を弾き終えると、類巣先生は手を止めて、すっとこちらのほうを向いた。

「あなたですか」

 私がここにいることに気付いていたらしい。何だか邪魔をしてしまったようで、申し訳なくなる。

「す、すみません。お邪魔をしてしまって」

「いいえ。邪魔などではありません。何かご用でしたか」

「いえ、何も……。ピアノが聞こえてきたので、つい……」

「そうですか。まあ、立っていないで、お入りなさい」

「すみません。失礼いたします」

 お言葉に甘えて、私は音楽室に入った。私がピアノに近付く間に、類巣先生は手近な椅子を引き寄せて、私の座る場所を作ってくれた。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 せっかく用意してくださったので、そこにそっと腰を下ろす。

「その……とても綺麗な曲をお弾きになっていらっしゃいましたね」

「お気に召しましたか」

「はい、とても」

「ベートーヴェンの奏鳴曲ソナタです。弾いていたのは『嵐』の第三楽章ですよ。ベートーヴェンがお気に召したとは、趣味がいいと思います。彼はいいですね。彼の作品には物語があります。文学的な意味での物語ということではありませんよ。精神の物語です」

 その話は何だか抽象的すぎて私には飲み込めなかったけれど、類巣先生がそう言っている姿からは、どこか神秘的な空気を感じた。

「類巣先生は、学校が終わってからもこうしてピアノを弾いていらっしゃるそうですね」

「宿舎には縦型ピアノしかありませんので、たまにはこちらで弾きたくなるのです」

「遅くまで弾いてらっしゃることもあると聞きました」

「そういうこともあります」

「暗くなった校舎に一人でいると、怖くはありませんか?」

「いいえ。私は、恐怖には疎い方です」

「先生は、怖いと思われたことはないのですか?」

「怖いと言うより、不思議な経験をすることなら、たまにありますよ。それを怖いと思う人ももちろんいるでしょうが、私は怖くはありません」

「不思議な経験? どんなものですか?」

 私は思わず身を乗り出した。

 怖い話を類巣先生から聞けるかもしれないと思ったのだ。

「ご興味があれば、お聞かせしますが」

「実は、怖い話を集めているのです。ぜひ、お願いします!」

「元気がいいですね。分かりました。では一つお話ししましょう。ですが、あまり怖くはないと思いますよ」……


 類巣先生がまだ幼かった頃は、罪を犯した人間が処刑された場合、その死体が街中まちなかや河原などにさらされていることがまだあったそうだ。

 特に印象に残っているのは、浅草に行ったとき、町の隅に梟首きょうしゅ――さらし首――となった女性の首が晒されているのを見たことだった。女性の首の乗った梟木きょうぼくの横には札が立ててあり何か書いてあったが、まだ文字も読めなかった類巣先生には、そこに何が書かれていて、女性にどんな罪があったのかは分からなかった。

 しかしあまりにもその女性の首が印象に残ったのだろうか。類巣先生はそれからしばらくの間、頭の中にその首がこびりついて離れなかったそうだ。

 そうして大人になり、そんな首のことなど忘れていた頃のこと。

 立花女学院の教員となったばかりの頃だったが、類巣先生は夜中に一人校舎に残って、ピアノに向かっていた。あまり騒々しい曲は迷惑になって弾けないので、出来るだけ静かな曲だけを弾いていた。

 そうしていると、ピアノの音に混じって、「ぐぐっ、ぐぐっ」という声がする。押し殺したような笑い声に聞こえた。

 ピアノを弾く手を止めると、その声も止まる。けれどやはり弾けば「ぐぐっ、ぐぐっ」と声がし、手を止めればしなくなる。

 妙な気がしたので、類巣先生は辺りを見回してみた。何か音を立てるようなものがあるのではないかと思ったのだが、共鳴しそうなものは何もない。一応ドアを開けて廊下のほうも見てみたが、全て明かりが消されて真っ暗なそこには、何もなければ、誰もいない。

 類巣先生は首を傾げながらピアノに戻り、再び弾き始めた。するとやはり、「ぐぐっ、ぐぐっ」と笑う声がする。

 類巣先生は手を止めると、背後を見た。けれど別に何かあるわけではない。

 そうしてピアノに向き直ると、譜面台の影から女性の首が類巣先生を凝視していた。

 はっとして首と目を合わせようとしたら、その女性の首はすっと消えてしまった。

 首が消えてしまうと、ピアノを弾いても低い笑い声が聞こえることはなくなった。

 けれど思い返してみれば、あの女性の首は、小さな頃に見た晒し首に似ていたような気がするそうだ。

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