第5話 後ろから
……怖いじゃない。
怖いじゃないっ!!
私は心の中でそう叫んだ。
今は音楽、唱歌の授業中だ。みんなで歌を歌っている。そんなとき、ちよや蓮子様から聞いた怖い話を思い出し、背中が上から下までぞーっとした。
自分のことを知るための、ただの情報収集のはずだ。でも、何でこんなに怖いのだろう。別に命に関わる危機が迫ったわけでもないし、何より私が体験したわけでもない。なのにどうしてこんなにも真に迫って怖いのか。
全く訳が分からない。
怖い話を思い出すと、声がひょろひょろとして安定せず、音の収束部分も乱れてしまった。ただでさえ全体で十数人しかいないから、私一人が安定しないと、全体の音程が不安定になっているように聞こえる。私は乱れてしまった集中力を必死になって引き締めて、みんなの歌についていった。
歌っている間、伴奏を弾いているのは類巣先生だ。この女学院には音楽学校並みのグランドピアノがあり、それを西洋風の髪の色の、しかも洋装の類巣先生が弾いていると、まるで外国の方から授業を受けているかのように錯覚する。
歌が終わり、類巣先生の後奏が静かに弾かれ終わると、音楽室の中がしんとした静寂に満たされた。
「今日は少し、喉の調子が良くないようですね」
類巣先生は静かにそう言った。でもこれは多分、私に向けて「音が悪かった」と言っているのだと思う。
「無理をして音を出そうと頑張らずとも良いのです。とくにここのところ書かれている唱歌は、音の幅の広いものが増えていますから、喉に負担をかけては痛めてしまいます」
そう言いながら、類巣先生は楽譜をしまい始めた。そろそろ授業が終わるのだから、それは別に不自然ではないのだけれど、全く生徒のほうを見ないのは少し不自然さがある。
類巣先生は大抵そうで、あまり女学生のほうを見ない。顔を向けたとしても視線はそらしたままで、ほとんど目が合うということがないのだ。
そのどこか伏し目がちにしている様子が、儚げでお美しい……ように見えるらしい。目が合わないとしても、類巣先生はとにかく女学生から人気があった。
けれど私にとっては、何を考えているのか分からない無表情といい、目を合わせないところといい、何だかつかみ所がないなあ、という先生だった。多分、数いる先生の中でも、つかみ所のなさは突出しているだろう。
類巣先生は楽譜をまとめて抱えると、鍵盤の蓋を閉めた。
「とは言え、音の高さを保とうとする意思はとてもよく感じられます。皆さんは耳が良いのです。その耳で、もう少し歌詞の抑揚を感じながら歌えると、もっと楽に声が出るはずです。では、今日はここまで」
私達はそろってありがとうございましたと言い、頭を下げた。
寄宿舎の自分の部屋に戻ると、私は勉強机の椅子をひき、勢いよくそこに座った。セーラー服から室内着に着替えることも忘れて、頭を抱える。
怖いことなんてない。それなのに、なぜ、どうしてこんなに怖いのだろう! これでは自分のことを考えるどころではない。怖がって終わりだ!
「ああもう、どうしてなのかしら……!」
「今度は何をぼやいているんだ」
と、言う声が聞こえたのは本棚のほうからだ。
ちらりと横目で見ると、本棚の上に藤一郎が足を組んで腰掛けていた。どうして普通に立つか椅子に座るかせずに、本来座るべきではない場所に腰掛けるのだろう。
「そんなに音痴が気になるのか?」
「音痴じゃないわよ失礼ねっ!」
「一人だけやたらと音が乱れていたのにか」
「それは、ちょっと集中力が乱れたのよっ」
「しかしあの教師も甘やかしだな。ずばりとお前のことを名指しすれば良かったのだ」
「類巣先生は名指ししたりしないのよっ」
「まああれだけ明らかに外していれば、名指す必要もないかも知れないが」
「そこまで外してないわよ失礼ねっ!」
「お前があそこまで歌の勘が悪いとはな。さすが、重い業を負っているだけのことはある」
「関係ないでしょ、何なのよ!」
「そこまで関係がない話ではない。声の乱れは気の乱れだ。歌がまずいということはそれだけ気の質が悪いのだ」
「本当に失礼ねっ!」
私はむきになってそう言うと、藤一郎をにらみつけて手を振り上げた。
そもそも、私が一体どんな業を負っているというのか。藤一郎は私が重い業罪を負っていると言うが、私はこの世に生を受けてたったの十四年だ。そこまで重い業罪を負うなんてそうそうあり得そうもないではないか。
「ねえ藤一郎」
「何だ」
「私が負っている業って、何なの?」
「本当に分からないのか?」
藤一郎は片眉を上げて、呆れたような表情をした。
「勘が悪、」
「うるさいわねっ本当に分からないのよ!」
「勘が悪い」
「何でもう一度言うのよ!」
本当に腹立たしい神隠しだ。
私は体ごと藤一郎のほうに向いた。
「ねえ、私は一体何をしたの? どうして重い業罪を背負うことになったの? 私が業罪を背負っているのは本当なの?」
「本当だ」
「……どんな業罪?」
私はやや構えた。
「お前、人を生かしただろう」
「……何の話よ?」
「死に向かっていた人間を生かしただろう、と言っているのだ」
死に向かっていた人間……?
「……何を言っているのかさっぱり分からないわ」
「本当に勘が、」
「それはもういいわよっ」
「よく思い返せ。お前の身近に、死にかけた人間はいなかったか」
「……両親が労咳で、危険な目に遭ったわ」
「肺結核か。それだな」
「それって何よ。でもそれは、私が何かしたわけじゃないわ。お医者様と神様が助けてくださったのよ」
「いいや、それは違うな。お前は
「そんなこと私に出来るわけないじゃないの。私はただ、助かってと願っただけよ」
「その願いが人の生死を操ったのだ。考えてもみろ、人の生死を人が思うままにしてしまったのだぞ」
「……本気で言っているの? 私が両親を生かしたって、本当にそう思っているの?」
「僕がどう思うかは事実に関係しないだろう。実際にお前は願い、叶えてしまったのだ。どういう理由からかは知らないが、お前は願うだけで人の生死を操るのだ。つまりはそれがお前の業罪の核だ。気を付けることだな、ただでさえ、一度人を殺めているのだ」
……え?
今、聞き流せないことを言わなかったか?
人を……殺めた?
「……ちょっと待ってよ。殺めたって……何?」
「人を殺めた上に、生死を操ったりしたものだから、余計に邪気を呼ぶことになったのだ」
「待ってよ、殺めたって何なの?」
「僕が知るか」
殺した?
私が?
誰を?
覚えがないどころではない。そんなこと、あり得ない話ではないか。
そんな恐ろしいことを、私が、どうして?
私は小さく震えた。覚えがない。あり得ない。だったら落ち着いていればいい。それなのに、私は震えてしまい、心臓が脈打つのをおさえられなかった。これでは、まるで、身に覚えがあるかのようではないか。
「……殺してない」
「殺したぞ、お前は」
「――私は誰も殺してない!」
私はそのまま部屋を飛び出し、一人で街を歩いていた。
下谷区は市電や車が行き交っているので、人通りが多い。時々人力車や馬車も通っていく。私はそんな人の気配を避けるように、細い小道へと入り込んでいった。これだけ栄えていると人のいない道を探すのも一苦労だ。けれど、今は人の姿を見たくなかった。
……私が人を殺した?
一体誰を?
一体いつ?
荷物も持たず、とぼとぼと歩く。
藤一郎の言ったことをどこまで真に受ければいいのか、全く分からなかった。
日もだんだん傾いてきて、人通りのない小道はあっという間に薄暗くなっていく。今この細い道を歩いているのは私だけで、私の足音だけが寂しく響き渡っていた。
周りにあるのは民家ばかりだ。時間もいい時間なので、夕餉(ゆうげ)のいい香りが漂ってきている。
本当は私もこんな所を歩いていないで、早く引き返した方がいいのだ。だいぶ歩いたので女学院からも少し離れたところに来てしまった。このままでは、早足で戻ったとしても門限に間に合わなくなる危険がある。
……早く、戻らないと……。
そうは思うが、なかなか戻る気になれない。私はどんどん女学院から離れていった。
そうして歩いていると、何だか変な感じがしてきた。思わずそれまでの思考が止まる。
……真後ろから、何か……気配がする。
私はそろりと寒気がして足が止まってしまった。すると、
……ふー……ふー……。息のような風のような生温かいものが、首筋にかかった。
私は全身から血の気が引いていくのを感じた。
……ふー……ふー……。首筋に、耳に、気味の悪いものが吹き付けてくる。
動けない。
あまりの恐怖に身がすくんでしまって、私は身動きがとれないでいた。
固まっていると、そー……っと、肩や背中に覆い被さるように、生温かい重みがかかってきた。
人間? お化け? 分からない!
声も出せないまま、どんどん身が固くなる。立っているだけで精一杯だった。恐怖で耳の中がざあざあうるさい。
両肩に生温かいものが乗る。視界の端に入ってきたそれは、手だった。
「――痛たたたたたぁーッ!」
そして、いきなり大声が響き渡った。
突然何が起こったのか分からず、私はぎょっとしながら前方に飛んで、思わず後ろを振り返った。
するとそこには、手をひねり上げられてうめく男の人と、ひねり上げている背の高い人がいた。
うめいているほうの人は少し太り気味で、歳は中年くらい。背は私と同じくらいに見えた。
一方その人の手を何でもなさそうにひねっているのは、亜麻色の髪、鳶色の瞳をした、色白の男性だ。書生のような袴姿で、左腕に風呂敷を抱えている。空いている方の右手で、中年男性の腕をぎりぎりとひねっていた。
一瞬、誰だと思った。
中年男性の方に見覚えはない。もちろん。しかし書生風の人にはどこか見覚えがあった。と言うより特徴的すぎて見間違うはずがない。いつも洋装でいる人がこんな格好をしているから一瞬分からなかったが、間違いない。
類巣先生だった。
「痛い、痛い痛いぃっ!」
「あなたはうちの女学生に一体何をしているのですか」
「ごめんなさい、出来心でつい、痛たたたっ!」
「ほう、出来心で。ではもう二度とそんな気など起こらないようにして差し上げる必要があるようですね」
「ゆ、許して、許してくれっ」
「情けない。腕一本くらい何です」
類巣先生は冷ややかに相手を見た。
「この、根性なしが」
類巣先生はそう言うと、ぱっと手を放してあげた。
中年男性は崩れるように膝を折ると、腕を押さえてひいひい言った。
「うめいていないでさっさと行きなさい」
類巣先生は相手のおしりを蹴飛ばした。中年男性はそれに飛び上がって、細い道を慌てて走り去っていった。
私はその後ろ姿を唖然となって見送った。
……何だったの、あの人。
類巣先生も男性が走り去っていくのを最後まで見送って、その姿が見えなくなると、ようやくこちらに顔を向けた。
私は初めて、本当に初めて類巣先生と目が合った。大きな目に、鳶色の瞳が浮いている。私はその瞳にどきりとした。
美男子。素敵。ハイカラ。みんなの類巣先生への評価が、何だか理解できたような気がした。……確かに、これは……そうかも知れない……。
「ご無事ですか」
「え……あ、は、はいっ。あの、助けてくださって……ありがとうございました」
「気味の悪い目に遭ってしまいましたね」
「はい……」確かに気味が悪かった。
「この辺りはあまりいい場所ではありませんよ。私もおかしな目に遭うことがよくあります。なぜこんな所に?」
「え……ええと……人と、少し……それで、飛び出してきてしまって」
「そうですか」
満足な説明をしたわけでもないのに、類巣先生はまったく追及してこなかった。
「先生は、どうして……?」
「湯屋に寄った帰りです」
「湯屋……? では、その……お風呂に……?」
「長湯をするのが趣味なのです」
それで、風呂敷などを持っているのか……。よくよく見てみれば、確かに濡れ髪だ。湯上がりなのは本当なのだろう。
でも、お風呂なら教員宿舎にもあるはずでは?
「宿舎の湯はすぐに冷めて、長湯には向きませんのでね」
と、私が問う前に、類巣先生のほうから教えてくれた。
教員宿舎のお風呂がどういう構造をしているのかは分からないけれど、おそらく掛け流しなどではないのだろう。だから、長湯をしたければ外に行かなければいけないということらしい。
類巣先生は促すように、手をすっと横に滑らせた。
「お送りしましょう。そろそろ門限ですよ」
「あ、はいっ。ありがとうございます」
私が先生の横に並ぶと、類巣先生は女学院のほうへ、人通りのあるほうへと歩き出した。
何だか不思議な感じがした。類巣先生とこんな所で出会って、一緒に女学院に帰るなどと思うと。その隣を歩いていると、風が
暫く歩いていると、大きな通りに出た。曲がり角を曲がってすぐの所に小さなあんみつ屋があって、類巣先生はそちらのほうをちらりと見た。
「あんみつ屋ですか。いいですね」
「え?」
「湯上がりによく食べているのです。今はあなたが一緒なので遠慮しますが」
「類巣先生が、あんみつを?」
「意外ですか?
「え、そうなんですか?」
何を食べているのか想像が付かない先生だけに、あんみつが好きだという情報には親しみやすさがあった。意外と人間味のある方なのかも知れない。
私はまっすぐ前を向く類巣先生の横顔を見つめて、自分の足下に視線を落とした。
「……何だか……私、類巣先生のことを少し誤解していたみたいで……」
「私のことをどう思っていたのかは存じませんが、おおむね間違ってはいないと思いますよ」
私がどう思っていたのか分からないのに、間違っていないと思うとはどういうことか。
「まあ、そうですね。意外だ、意外だ、とはよく言われます」
「……すみません、私も色々なことを意外だと感じてしまいました。あんなに軽々と、人を撃退できてしまわれるなんて……」
「私は軍人をしていましたから。訓練されていない人間にはそうそう負けはしません」
「ええっ、軍人っ?」
「やはり意外ですか?」
「意外というか、その……」
類巣先生の雰囲気とは、最もかけ離れた類いの職業ではないか。
「どうして、軍人を……?」
「私の家は士族なのですが、私は次男坊で家を継ぐ権利がないので、東京音楽学校を卒業してから早々に家を出たのです。そこで
「軍には、どれくらいいらっしゃったのですか?」
「それを言うと年齢がばれますので、黙っておきましょう。皆さんの夢を壊してしまいますから」
「え? おいくつなんですか?」
「もう、だいぶいい歳ですよ」
「い……意外です……」
「まあ、若作りですからね」
若作りか……。二十代半ばか、後半くらいに見えるけれど、本人がそう言うからには実際にはもっと上なのかも知れない。
そうして歩いていると、立花女学院が見えてきた。門に立つ衛士様に挨拶し、二人で門をくぐる。
そうして寄宿舎と教員宿舎との分かれ道にさしかかると、類巣先生は足を止めて高い位置から私を見下ろした。
「今日はご無事で何よりでした」
「類巣先生のおかげです。本当に、ありがとうございました」
「困ったら、頼りなさい。そのための教師です」
言うと、類巣先生はのんびりと頭を下げた。
「それでは」
「あ、はいっ。今日は本当に、ありがとうございました」
私も慌てて頭を下げた。
顔を上げると、類巣先生はもう教員宿舎へ歩いて行っているところで、背中しか見えなかった。随分とあっさりした別れ際だった。
私も寄宿舎に戻る。
すると驚いたことに、宿舎の入り口に数人女学生が集まっていて、私のほうを凝視していた。
……え? 一体、何なの?
私は何が起こっているのか分からず、おそるおそる寄宿舎に足を踏み入れた。その途端に、集まっていた女学生たちにわっと取り囲まれてしまった。
「類巣先生と、どこに行っていらしたの?」
「お二人だけで帰ってこられるなんて!」
「どうして、類巣先生とお二人で?」
次々に発せられる問いに、なるほど、と思った。この人たちからは、私が個人的に類巣先生と出かけていたように見えているのだ。
私は首を振った。
「いいえ、ちょうど偶然、外でお会いして……。それだけなんです」
「まあ、なんて羨ましい!」
「類巣先生はどんなご用事で外出なさっていらしたのかしら」
「類巣先生とはどこでお会いしたの?」
「類巣先生のあのお姿、ごらんになりました? 洋装以外もお召しになるのね!」
女学生たちは好き勝手にきゃあきゃあ言っている。
それを聞きながら、私は、ああ……納得だ、と思った。
類巣先生が女学生と目を合わせないのは、自分が特定の女学生と何らかの話題の中心になるのを避けるためなのだ。
根も葉もない噂で盛り上がられては、類巣先生もたまらないだろう。
特定の女学生と噂になる。それは類巣先生にとっては煩わしいことでもあり、ちょっとした恐怖なのかも知れないな……。私は、そんなことを思った。
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