第3話 鬼子母神の女

 私に仕えてくれているちよは、池袋の出身だ。

 池袋には、鬼子母神きしもじんや、広大な敷地を持つ雑司が谷霊園があったりするそうだ。数年前に死んだ夏目漱石が埋葬されたのも、その霊園だったような気がする。

 ちなみに、私は池袋には行ったことがない。

 立花女学院のある下谷したや区は、市電が路面を走っていて、池袋方面にも線路が続いている。ちよが里帰りするには便利な立地だけれど、ちよは私の父の許可がない限りは里帰りしたりしない。使用人の決めごととして、勝手な里帰りは出来ないのだ。容易に帰れる場所なのだから、ちよもきっと帰りたくなることもあるだろう。本人はそんなことはおくびにも出さないけれど。

 ところで、この下谷区には、入谷鬼子母神がある。正式には真源寺しんげんじという。立花女学院からも徒歩で行ける距離だ。実家の近くに鬼子母神があり、そこで遊んだ経験のあるちよにとって、入谷の鬼子母神は馴染みを感じるものかも知れない。

 私にとっての入谷鬼子母神と言えば、かつて朝顔市をやっていたらしい、という知識があるくらいだ。入谷鬼子母神の朝顔市と言えば昔は有名だったそうなのだが、朝顔を作る家がなくなってしまったので、久しく絶えているという。その内復活することもあるかも知れないが、今のところそんな気配はない。

 そしてこれは、入谷のほうの鬼子母神ではなく、ちよの遊んだほうの鬼子母神での話だ。


「ねえ、ちよ」

 一日の授業が終わり、私はいつものお茶をいただきながら、ベッドを整えるちよに話しかけた。

 私は藤一郎から色々なことを言われて以来、その言葉について考え続けていた。つまり、重い業罪を負う程の力がある――私がこの世ならざるものに近い、ということについて。

 一体どういうことなのかさっぱり分からない。藤一郎の言う業罪というものについても、私にそれほどの力があるということについても、私には全く身に覚えがない。この世ならざるものに近いと言われても、そんなわけがないとしか思えない。当然だろう。私は今までごく普通に生活してきて、そんな言葉が自分に降りかかってくるだなんて予感すらしていなかったのだから。

 けれど、それでも否定するのならお前は無知だ、と言われたその言葉。それがどうしてだか私の中で響いて、離れなかった。

 私には藤一郎の言っていることが納得できない。けれど藤一郎の言うように、悔しいけれど、私は無知なのだ。だから否定することもできない。それならば知るしかないのだろう。

 では、知るためにはどうすればいいのか。

 この世ならざるものについて知るのが近道だろう。

 と、思った。

 本当にそれが近道になるかどうかは分からないが、何らかの足がかりにはなるかも知れない。私の業罪がどんなものなのか知らないし、藤一郎の言っていることが事実かどうかも分からないけれど、私がこの世ならざるものに近いというなら、本当にそうなのかを知るしかない。

 それならこの世ならざるものとは何なのかと考えると、簡単に言ってお化けのことなんじゃないのか。それくらいに単純化して考えるならば、この世ならざるものについての話というのは、つまり怪談――怖い話なんじゃないのか。怖い話だったら、人からも聞きやすいし。

 という考えに至った。

 それで、私は人から怖かったときの話を聞くことにしたのだ。まずは、一番身近なちよから話を聞きたかった。

 ちよはベッドを整えていた手を止めて、私のほうを向いた。

「なんでございましょう」

「ちよって、怖い、って思ったことってある?」

 問われると、ちよは少し考え込むように、一瞬だけ黙り込んだ。

「そうでございますね……。少しくらいは、ございますよ」

「どんなことが怖かった?」

「色々なことが、少しずつ怖く感じられます、きこさま」

「一つ話してもらえない?」

「よろしゅうございますよ」

 と言って、ちよは語り出した。

「まだきこさまにお仕えする前の、うんと小さな頃の話でございます。ちよは、家の近い子ども同士で、よく近所の鬼子母神で遊んでおりました」……


 これはそんな時の話だ。

 鬼子母神の境内は大きな菱形と四角形がくっついたような形をしていて、かなり広大な敷地面積を持つ。ちよのような子ども達にとっては、境内やその周辺が遊び場になることが多く、自然と子どもが集まってくるような場所だった。

 そんな境内の隅には、大公孫樹おおいちょうが立っている。名前の通りとても大きな銀杏いちょうの樹で、その太い幹にはしめ縄が回されている。大公孫樹のすぐ近くには武芳稲荷堂たけよしいなりどうがあり、ちよたちはよくその周辺で遊んでいたそうだ。

 ある晴れた日、ちよはいつも通り近所の子ども達と、幼児の子守を交代でしながら、まりをついたりして遊んでいた。

 稲荷堂の連なる鳥居の前でまりをついて遊んでいると、ふと、大公孫樹のほうが気になった。

 ちよはまりを両手に持って、そちらのほうを見てみた。

 そこに、誰かいる。

 大公孫樹の影に隠れるように、体半分だけ出して立っている。何かしているという様子でもない。ただ、身じろぎもせずに立っているのだ。

 女性のようだった。薄汚れた着物姿で、腰から下の方が赤黒い色に染められている。長い髪に遮られて顔は見えない。髪の毛は元々島田に結っていたのだろうけれど、かなり乱れてしまっていて、ほとんどほどけていた。そのほどけた髪の毛が顔にかかっているのだ。

 顔が見えなくなるほどに乱れたその髪の毛を見て、ちよは何だか変な人がいると思ったらしい。襟から帯の辺りまでは汚れているとは言え白っぽい生地なのに、腰から下だけ赤黒い模様のある着物というのも奇妙な感じがした。

 ちよは一緒に遊んでいる子ども達のほうを見た。誰も、あの奇妙な女の人に気付いている様子はない。太い木の幹から体半分出しているだけなのだから、あまり目立たないのだろう。

 再び女の人のほうを見ると、その人はまだそこに立っていた。位置も変わっていない。

 別に、こちらに用があるということでもないだろう……。何か用があるとするなら、銀杏の木に用があるのだろう。そう思い、ちよはそれ以上気にすることをやめ、再びまりつきを始めた。

 翌日、ちよはまた近所の子ども達と一緒に鬼子母神の境内にいた。遊んでいる場所は昨日と同じく、稲荷堂の鳥居の前だ。

 一人遊びが出来る子どもばかりでなく、やはり子守が必要な幼児も一緒だ。やっとよちよち歩きが出来るようになった子、まだ自力で体を起こすことすら出来ない子、そういう子達を交代で見張りながらの遊戯だった。

 このときはちよが一人で幼児たちの見張りをしていた。稲荷堂の鳥居に幼児たちを並べて眠らせながら、遊んでいる他の子どもたちを眺める。

 そんなとき、また、ふと大公孫樹のほうが気になった。

 見ると、そこに誰かがいた。

 銀杏の太い木の幹に片腕だけかくして、ただそこに立っている。薄汚れた着物は、腰から下が赤い模様。ほとんどほどけるくらいに乱れた島田まげ

 昨日の人だ、とすぐに分かった。昨日は体半分出ているだけだったが、今日はもう少し姿を見せている。

 どうして二日続けてそんなところに立っているのだろう。

 ちよは少し不思議に思ったものの、声をかけてあげるほど深刻そうには見えないこともあり、この日もそのまま放っておいた。

 更に次の日、ちよは交代で子守をしながら、近所の子どもたちと遊んでいた。場所は相変わらずの場所だ。

 ちよたちは鳥居の前に円になって立って、手遊び歌を歌いながら遊んでいた。

 そんなとき、ふと、視界にうつるものがある。

 ちらりと見ると、大公孫樹の太い幹の横に、誰かがいた。

 乱れた島田髷、薄汚れた着物、腰から下の赤い色。あの女の人だった。

 ちよはさすがに気になって、あそこに誰かいると周りの子に言った。けれどみんな、銀杏の下には誰もいないという。

 何か見間違えたのだろうとみんなは言い、この日も日が暮れるまでここにいて、やがて帰った。ちよたちが帰るまで、あの女の人は銀杏の真横に立ち続けていた。

 そして次の日、ちよたちは相変わらずの場所で、相変わらず遊びに興じていた。

 このときちよは木の枝を持ち、地面に絵を描いていた。そしてふと、大公孫樹のほうが気になった。

 そちらのほうを見ると、誰かがいた。

 銀杏の木の前に、あの女の人が立っていた。

 昨日は木の横に立っていたのに、今日は木の前に立っている。

 その翌日も、ちよたちは子守と遊びを交代で行っていた。

 ちよはまりをつきながら、ふと気になって、大公孫樹のほうを見た。

 そこに人はいなかったが、大公孫樹からこちらへ続く石畳の上に誰かがいた。

 あの女の人だった。

 ――少しずつ、出てきている。

 こっちへ来ている。ちよはそのことに気付くと、何かぞっとするものを覚えた。

 ちよはまりつきの手を止めて、遊び場を変えようと言いだした。みんなは不思議がったが、結局鬼子母神堂の裏、妙見堂みょうけんどうのほうへと移動になった。そこは大公孫樹のあるほうとは反対側になり、最も離れた場所だった。鬼子母神堂という大きな建物に遮られて、大公孫樹の足下は全く見えない。その日はそれ以降女の人の姿を見ることもなく、子守と遊びを終えて、それぞれの家へ帰っていった。

 次の日、ちよはみんなと一緒に、昨日から移動になった妙見堂のほうで遊んでいた。

 そしてふと気になって、妙見堂のほうを見た。

 妙見堂の影に、誰かがいた。

 あの女の人だった。

 ちよはそれ以上そこで遊んでいることが出来なくなり、この日は早々に切り上げて一人で帰って行った。

 その翌日、誰か大人に確認してもらおうと、祖母と一緒に鬼子母神の境内へおもむいた。しかしどこを見ても、もうあの女の人はいなかった。

 あの女の人は一体誰だったのか、いまだに分からない、という。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る