第2話 鬼

 二階様の元気がない。

 私は授業中、それにばかり気をとられていた。

 いつも明るい表情をして笑顔を振りまく二階様が、ここ二、三日、どこか上の空というご様子で、ずっとため息ばかりついている。

 そんな調子だから、あまり授業に集中できていらっしゃらないようだ。先生に指名されても、いつもならすらすらお答えになるのに、不意を突かれたように反応が遅れる。

 一体どうなさったのだろう。

 私は神隠しに遭ってから二、三日が経っているので、いい加減いつもの調子に戻っていた。最初のうちこそ不安があったものの、時が経つにつれそれも薄れていった。でも私が普通になるのと連動するように、二階様は浮かない顔をなさるようになってきていた。

 夜もあまりお休みになれていないようで、休み時間にもお喋りに参加せず、席に着いたままうつらうつらなさっている。

 どこか具合でもお悪いのか、それとも悩み事でも抱えてらっしゃるのか……。

 今日はたまたま席が近かったのもあり、一日の授業が終わった後、私は思いきって二階様に声をかけてみることにした。

 席を立ち、二階様に歩み寄る。

 今日の授業が全て終わったというのに、二階様は教科書などをまとめ始める気配もなく、ぼうっと虚空を見つめていた。その表情があまりにもぼんやりとしているので、私は一瞬声をおかけするのをためらってしまった。

 二階様は隣に私が立っているのにお気付きになっている様子はない。私は少し腰をかがめて、ややお顔を覗き込むようにした。

「……二階様?」

「え?」

 二階様ははっとしたように肩をふるわせて、ちょっと驚いたご様子で私を見た。

 そして私の顔を見て、柔らかに、でも元気なく微笑んだ。

「黒川さん。どうかしたの?」

「いえ、その……」

 どうかなさっているのは二階様のほうだけれど。

「何だかこのところ、ご様子がおかしい気がしたので……。何かお悩みなのかと思って」

「そうなの……。ごめんなさいね。心配させるつもりがあったわけじゃないの」

「何かあったのですか?」

「いいえ、たいしたことではないの……」

 そう言うお声に、やはり元気がない。確実に何かあるようだ。

 私達が話していると、同級生達が次々に二階様に挨拶をしながら、教室を出て行った。二階様はその全てに挨拶を返されていたが、どうにも覇気がない。

 教室から人がほとんどいなくなると、二階様はふうとため息をつき、弱々しい笑みを浮かべた。隣の椅子を示し、小さく頷く。

「どうぞ、座って」

「は、はい。失礼します」

 私はやや緊張気味に、二階様の隣に腰掛けた。

「本当に、たいしたことではないのだけれど……。聞いてくれる?」

「もちろんです。私でよろしければ、何でもお話しください」

「ありがとう。だけど、本当に、『そんなこと?』って思うようなことなの。小さなことよ」

「本当に小さいかどうかは、うかがってみないことには……」

 私がそう言うと、二階様はおかしそうに小さく笑い声を立てた。それだって張りのないお声だ。

「……そうね。そう言ってくれてありがとう。でも本当に些細なことなの」

 そう言うと、二階様は体を回して、体ごと私のほうを向いた。私も体ごと二階様のほうを向く。これからどんなお話があるのかと思うと緊張してしまい、思わず肩が上がる。

 二階様はちょっと斜め下を見ると、改めて私の顔を見た。

「あのね……。夢を、見るの」

「夢、ですか?」

「そう。怖い夢……」

「どんな夢なのですか?」

「夜、自分の部屋で眠っていると、いつの間にか寄宿舎の廊下に立っているの」

 二階様のお部屋は、三階の突き当たりのお部屋だ。突き当たりの一人部屋は寄宿舎の中で一番広い。二階様のような身分の高い方が使うような部屋ということだ。ちなみに私の部屋は二階にある。

 二階様は続ける。

「真夜中だから廊下は暗くて、周りがよく見えないの。でも、現実とは違って、どこまでもどこまでも続いているらしいっていうことは分かる。そんなところに一人でぽつんと立っているの。それだけでも怖くて、身動きがとれなくて……。でもそうしていると、後ろから物音がするの。足音のような音……」

「足音……ですか?」

「そう。でも、何だか人間のものとは違うような気がするの。みしり、みしり、って、少し変な音だから」

 確かに、人間の足音とは思えないかも知れない。靴を履いていても、素足でも、人間の重みではきしむような音にはならないと思うから。

「何か大きくて重いものが、後ろから近付いてくる……。そんな夢なの。たったそれだけ」

「恐ろしい夢ですね……」

 私は本当にそう思ってそう言った。

「わたしも、夢を見ているときは本当に怖くて、早く目が覚めて、ってすごく思うの。それで目が覚めると、とてもほっとする。だけど……」

「だ、だけど?」

「何だか気になることがあるの」

「何ですか?」

「この夢を見始めたのは、二、三日前からなの。最初、足音はすごく後ろの方から聞こえてた。でも夢を見るごとに、少しずつ近付いてきているような気がするの」

 ……みしり、みしり……。

 暗い廊下で、一人。そんなところに、背後から近付いてくる足音。

 私はそれを想像してぞっとした。

「昨日の夜は、ついにわたしのすぐ後ろまで近付いてきて……。ふー、ふー、っていう重い吐息が、わたしの首筋にかかってくるくらいに」

 二階様は不安そうなお顔をして、両の手を握った。心細そうにぎゅうっと。

「……今夜、もしまた同じ夢を見たら、わたし……どうなってしまうのかしら」

 と言ってから、二階様はくすっと笑った。

「……なんて。ただの夢よね。ごめんなさい、子どものような話をして」

「いいえ、そんな! でも……本当になんて怖い夢……」

「わたしも見ているときは本当に怖い。でも、夢は夢だもの。たまたま、同じような夢を見続けているだけ。気にしすぎなの」

「そんな夢、私だって気になります!」

「ふふ、ありがとう」

「それで、お悩みになっていたんですね……」

「夢くらいで、恥ずかしいわ」

 二階様は頬を赤らめて、その頬を白い手で覆った。

「恥ずかしがられることなんて、ありませんよ!」私は身を乗り出して言った。

「ありがとう、黒川さん」

 そうして話していると、校舎を見回っていた先生が教室に顔を覗かせて、私達の姿を認めた。

「お二人とも、早くお部屋にお戻りなさい」

「はっ、はいっ」

 私は跳ね上がるように返事をしたが、二階様はさすがに落ち着いておられて、先生に向かって柔らかに頭を下げただけだった。

 私と二階様はそれぞれに荷物をまとめ、席を立った。

 そうして寄宿舎まで戻ると、二階の階段で立ち止まり、二階様は微笑んだ。

「黒川さん、話を聞いてくれてありがとう。何だか、心強くなったような気がする」

「い、いえっ。私は、お話を伺っただけですから」

 私は恐縮して、思わず顔が熱くなった。

「今夜は、悪い夢を見ないで済むといいですね」

「本当にありがとう。そう言ってもらえると、何だか大丈夫なような気がする」

「お祈りしておりますから」

「ありがとう……。優しいのね。今日は嬉しかった。いい夢を見てね、それじゃあ、また明日」

「はい、二階様も、どうかいい夢を」

 私は頭を下げた。

 頭を上げると二階様は階段を上っている最中で、踊り場にさしかかると私のことを見下ろされ、にっこりと微笑んでくれた。

 私はそこでもう一度頭を下げ、自分の部屋へと戻っていった。


 入浴を終えて、私は自分の部屋の前へ戻ってきた。廊下の照明はまだ点いているが、そろそろ消灯されるだろう。私の両隣の部屋からは物音がせず、廊下全体がしんとしている。

 部屋に入るべく、ドアノブに手を伸ばす。

 ……みしり、みしり……。

 すると二階様が見続けているという夢の話を不意に思い出し、私は思わず身震いした。半ば慌てるように部屋に入ると、明るい室内にはちよがいた。

 お茶を用意してくれていたらしく、部屋中にいい香りが充満している。ちよは私のベッドを整えていた手を止めて、顔を上げた。

「きこさま、お帰りなさいませ。お茶が入ってございます」

「ありがとう、ちよ」

 私はお茶のそろえられた小さなテーブルに着き、お茶を口に含んだ。

 ちよはベッドのしわを伸ばして仕上げをすると、行儀良く両手をそろえて頭を下げた。

「それでは、ちよはこれで失礼いたします」

「今日も、お疲れさま。ゆっくり休んでね」

「ありがとう存じます。お休みなさいませ」

 そうしてちよが部屋のドアを開けると、私は不意に思いついて声をかけた。

「あ、ちよ」

「はい」

 ちよは振り返る。

「あの……同じ夢をずっと見続けているのって、悪いことかしら?」

 問われると、ちよはちょこんと首を傾げた。

「きこさま、何か夢を見ておられるのですか?」

「いいえ、私じゃなくて……。その、あるお方が、ここ数日同じ夢を見続けているとおっしゃるの。しかもそれがとても怖い夢で……。ちよ、どう思う?」

 ちよは私の方に向き直って、少し考えるような顔をした。

「同じ夢を見続けているということには、何か意味があるかと存じます」

「意味? たとえば?」

「ちよには、詳しいことは……。ただ、夢は、異界と繋がっているとも申します。もしも悪い夢であるならば、何か悪いものがやってきているのかも知れません」

「悪いもの……」

 ……みしり、みしり……。

 夢を見るごとに少しずつ近付いてくる、不気味な足音。

 いいものであるはずがないと思うが、その正体が一体何なのか、私には分からない。もちろん、ちよにはもっと分からないと思うが。

 ちよは私が考え込んでいるので、口を挟まずに黙ってそこに立っていた。いつまでもそこに立たせたままでは申し訳ないので、私は慌てて首を振った。

「ごめんなさい、戻るところを引き留めて。ちよ、ありがとう」

「いいえ。それでは、ゆっくりお休みくださいませ」

「お休みなさい。ちよもしっかり休んでね」

 ちよは改めて頭を下げて、そっと部屋から出て行った。木のドアの向こうに、ちよの軽い足音が遠ざかっていく。これからちよは使用人のための宿舎に戻って、明日の準備をするのだろう。ちよは夜になってもあまり休めていないんじゃないかと、少し心配になる。

 私は一人になると、両肘をついてお茶を飲んだ。すごく行儀が悪いが、誰も見ていないのでまあいいかということにする。私の行儀の悪さよりも、二階様の夢のことが気になった。

 夢は、異界と繋がっている。

 何か悪いものがやってきているのかも知れない……。

 今夜、か。

 二階様は、今夜のことを気になさっていた。今夜も同じ夢を見たら、自分はどうなってしまうのかと。

 一体何が迫ってきているのだろう? そして、後ろから迫ってきたそのものに、一体何をされてしまうのだろう?

 そんなことを考えているとあまりに心配で気詰まりになり、私は思わずお茶を置いて頭を抱えた。

 ……本当に何かあったら、どうしよう……。

 二階様もただの夢だとはおっしゃっていたが、そんなことを言っても何だか落ち着かない気分だ。私はお茶を中途半端に飲み残して、勉強机から読みかけの本をとってきた。本でも読めば少しは落ち着くだろうと思ったのだ。

 少しずつ、本を読み進める。

 けれど、やっぱり二階様のことがちらついてぶつぶつと集中力が切れてしまい、どうしても内容が頭に入ってこない。

 そうして集中できないまま一時間ほどが経ち、私はぱたんと本を閉じた。

 二階様は、今どうなさっているだろう……。

 私はちよしか連れてきていないけれど、二階様はご実家から三人使用人をお連れになっている。だからそういう人たちがいる間は落ち着いていられるだろうけれど、もうこんな時間になってしまっているから、お部屋に一人でいらっしゃることだろう。

 私はため息をつきながら、本をお茶の隣に置いた。その時お茶を半端に残していたことを思い出し、冷めたそれを飲みきった。

 すると、就寝時間を告げる鐘が聞こえてきた。かーん、かーん、という静謐(せいひつ)な音が、寄宿舎に響き渡る。

 私達はこの音を聞いて布団に入り、明日に備える。廊下の照明が消灯されるのも、このときだ。

 私はまだ鐘が鳴っている間に椅子から立ち、室内着から寝間着に着替えた。寝間着の生地はさらさらしていて軽く、まだこの季節ではこれ一枚だと肌寒い。布団に入ってしまえば暖かいので、問題はないけれど。

 でも私はすぐに眠る気になれず、部屋の明かりもつけたまま、ベッドに腰掛けてぼうっとした。

 そして膝に肘をつき、手のひらにあごをのせる。思わず、溜め息が漏れた。

 二階様はもうお休みになったのだろうか。

「……二階様、あんな夢を見ていなければいいけれど……」

「――何をぼやいているんだ」

「きゃあっ?!」

 突然の声に、私は反射的に叫び声を上げた。

 声がしたのは窓の付近だった。私は心臓をばくばくさせながら、ばっと顔を上げてそちらを見た。

 そこには、私の勉強机の上に腰を下ろし――椅子ではなく、机そのものに!――、足を組んでいる人間がいた。

 いや、人間ではない。

 自称、神隠しだ。

 二、三日ぶりに見るその姿に、私はにわかに驚いた。どうして、再び私の前に現れたのか。

 その神隠しの顔は、相変わらず私が想像した理想の顔と同じものなので、私は照れるような恥ずかしいような複雑な気分になった。

 その感覚を力ずくで振り払うべく、私は大声を上げた。

「で、出たわね、神隠し!」

「大声を出すな。僕の空間にいるわけではないのだから、声は隣に筒抜けになるぞ」

 ということはつまり、私は今神隠しに隠されているわけではないのか。それは、まあ、いいことだけれど。

「何をしに来たのよ?」

「来たんじゃない。お前のそばにいるだけだ」

「そ、そばに?」

「お前は異形を引く。だからお前のそばにいることが、僕にとっては都合がいいのだ」

 それを聞いて、私はかあーっと顔が熱くなった。

「……み、見てたの?」

「何をだ」

「……き、着替えるところとか……お、お……お風呂に入っているところとか……」

「そんなものを見るわけなかろう。お前がどんな生活をしていようと知ったことか」

 神隠しは肩をすくめてそう言った。本当に関心がないらしい。

 とは言え、私は何だか素直に安心できなかった。まだ顔を熱くしたまま、じっと神隠しをにらみ続ける。

 そうしていると、神隠しは呆れたようにため息をついた。

「僕には人間が言うような視覚というものは存在しない。気や気配というものを感じるだけだ。人型に変化しているときはそれらしい視界を持つことは持つが、普段は何も見えてはいない」

「そ……そうなの?」

「だからそう警戒するな。そもそも僕は神隠しであって、人間ではないのだ。お前が気にするようなことに関心があるわけがなかろう」

「だって……」

「お前は蚯蚓みみずが服を着ていないことに関心を抱くのか?」

「だ、誰が蚯蚓よっ!」

 なんて酷いたとえだ。この神隠しは、本当になんて失礼なんだろう。

 私は興奮して荒くなった息を整えると、ふんと息を漏らして座り直した。

 ちらりと、片目を開けて神隠しのほうを見る。

 神隠しは闇の滴るような黒い瞳で、私のほうを見ていた。

 何だか本当に、人間のようだ。怪異だの現象だのと言われても、そのように思うのは無理がある。

 それに、神隠し、神隠しと呼ぶのも妙な感じがしてむずむずする。この神隠しには、固有の名前なんていうものはないのだろうか。

 気になったので、訊いてみることにした。

「ねえ」

「何だ」

「あなたって、名前、ないの?」

「そんなものはない」

「でも、神隠しだなんて、呼びにくいわ」

「別にそれでいいだろう。名前なんかいらない」

「よくないわ。私が何だかいやなのよ。変な感じがして」

「よく分からんな。なら好きにしろ」

 好きにしろと言われて、私はうーんと考え込んだ。

 そして、思いつく。

「……藤一郎とういちろう

「何だ、それは」

「私には、お兄様が生まれるはずだったんですって。お兄様が生まれていれば、藤一郎と名付けるつもりだったって、母から聞いていたの」

「死んだ人間の名をつけるか。趣味が悪いな」

「う、うるさいわねっ。男の人の名前なんて、他に思いつかなかったのよ!」

 趣味が悪いと言われてしまうと、確かに悪趣味だったかも知れないなどと思えてしまう。でも他に思いつかなかったのだから、どうしようもないではないか。

 私はまた顔がかあっとなるのをごまかしたくて、肩を怒らせて神隠し――藤一郎をにらんだ。

「と、……とう、藤一郎」自分で名付けたはずが気恥ずかしく、ついどもってしまう。

「早速その名で呼ぶか。何だ」

「まだ、現れた理由を聞いてないわ」

「二階蓮子のことを何かぼやいていただろう」

「二階様のことを知っているのっ?」

 私は思わず腰を浮かせた。

「お前のそばにずっとついていればどれが誰だかおおむね分かる」

「二階様のこと、何か知っているの?」

「あいつは鬼を引いている」

「お、鬼?」

「元々お前の邪気に引かれてきたものだが、鬼は若くて美しい女を好むからな。お前ではなく二階蓮子のほうへ行ったらしい」

 何だかまるで私が若くも美しくもないような言い方に聞こえたが、気にするべきはそこではない。私は身を乗り出した。

「そんな、じゃあ、藤一郎――あの、二階様はここ数日、同じ夢を見続けているのよ。後ろから何かが迫ってくる夢。じゃあ、迫ってきているのは鬼なの?」

「鬼だな。この気は間違いない」

 そう言うと、藤一郎はあごに手を当てて笑みを浮かべた。穏やかな笑みではない。何か企んでいるような笑みだ。

「大物を引いたな。鬼は久々だ」

 藤一郎は余裕があるふうににやりとしているが、私はそれどころではない。思わず立ち上がった。

「じゃあ、二階様が危ないっていうことなのっ?」

「まあ、放っておけば喰われるな」

「そんな……!」

 鬼はもう、二階様のすぐ後ろまでたどり着いてしまったのだ。

 今夜。

 今夜、同じ夢を見たら――。

 二階様が気になさっていたことが、最悪の形で本当になる。

「藤一郎、二階様を助けて! 今すぐ!」

「なぜ僕が」

「なぜも何もないわよ! 今すぐ二階様の所へ行って!」

「僕は知らん」

「は、薄情者!」

 私が詰め寄ろうとすると、藤一郎は「しっ」と言って、私を制した。そしてどこか別の方向を見つめて、再びあの、にやりとした笑みを浮かべた。

「――来たか」

 その言葉が、鬼のことだとはすぐに分かった。

「藤一郎!」

「しつこいぞ。僕はもう行く」

「二階様はどうなってしまうの? ねえ!」

「僕が知るか」

「助けて、お願い!」

「知らん。勝手に助かれ」

 言うと、藤一郎の姿はかき消えてしまった。

 私は一人、部屋に取り残された。藤一郎は二階様の所に行ったのだろう。正確には、二階様を喰おうとしている、鬼の所に。

 私はさっと青くなった。思わず、頬を覆う。

「二階様……!」

 二階様が、鬼に!

 私は部屋から飛び出した。


 就寝時間を迎えた寄宿舎の中は、廊下も部屋も消灯が済んでいて暗く、静まりかえっている。私の走る足音だけが聞こえていて、夜の不気味さを増長させていた。

 三階に駆け上がると、一番奥、突き当たりの部屋まで急ぐ。寝間着に空気が絡んで走りづらい。でもそんなことを言っていられる場合ではないのだ。一刻も早く、二階様の所へ行かなければ!

 ついに突き当たりの部屋にたどり着き、私は二階様の部屋のドアに飛びついた。そのドアを叩きながら、声を上げる。

「二階様、いらっしゃいますか、二階様!」

 反応は、ない。室内はしんとしていた。

「二階様、お返事を!」

 いくらドアを叩いてみても、誰かが出てくる気配すらない。

 私は意を決して、ドアノブを握った。

「二階様、失礼いたします!」

 そう言って、一気にドアを開ける。

 二階様のお部屋は、私の部屋よりも二倍くらいは広い。今は廊下と同じように明かりが全て消されていて、室内の細かいところはよく見えない。

 私は視線を巡らせてベッドを探した。ベッドは出窓の近くにあった。

「二階様!」

 私は勝手ながら二階様のお部屋に飛び込んで、ベッドに駆け寄った。

「二階様、……」

 誰も、いない。

 ベッドの上には誰も。

 私はばっと部屋の中を見回した。

 二階様の姿は見えない。

 いらっしゃらない? ではどこに? 鬼はすぐそこに迫っているというのに!

「二階様……!」

 私は身を翻して廊下へ飛び出した。

 そして目の前に伸びる光景を目にして、ぎょっとして立ちすくんだ。

 ……廊下に、終わりがない。どこまでもどこまでも伸びていて、端が見えない。

「え? こ、これは……」

 後ろを見ると、あるはずの二階様のお部屋がなく、永遠に伸び続ける廊下があるだけだった。

 ――二階様が見ていた夢。

 眠っていると、いつの間にか廊下に立っていて、しかもその廊下には終わりがない……。

 これは、二階様が見ていた夢そのものだ。では、私は二階様の夢の中に入ってしまったのだろうか?

 どうして、私が、二階様の夢の中に?

 いや、今はそれどころではない。二階様はどこへ?

 これが二階様の夢ならば、どこかに必ず二階様がいるはずだ。

「二階様……!」

 私は後ろと前、どちらに行くべきか迷って、意を決して前へと足を踏み出した。

 どこまでもどこまでも続く廊下を、必死になって走る。

「二階様! 二階様、どうかお返事を、二階様ー!」

 二階様を呼びながら走り続ける。どこかにいるはずなのだ、絶対にどこかに!

 そうして走っていると、どこまでも続いていた廊下の突き当たりに、ぽつんとドアがあるのを見つけた。

 ――ドア?

 私は思わずそこで立ち止まった。

 永遠に同じ光景が続いていくかと思われたのに、唐突にドアが現れた。このドアは何だろう。一体どこに続いているのだろうか。

 私は一瞬迷って、ばっとドアノブを掴んだ。

 ドアノブは難なく回り、私はその中に飛び込んだ。

 その中は見たことのない部屋だった。教室の二倍くらいの広さがあり、机も何もない。寄宿舎にも校舎にもこんな部屋は存在しないはずだ。

 その広い部屋の真ん中に、大人二人分はあろうかという背の、巨大なものがいた。一つ目で、鼻はなく、耳と口が異様に大きい。つのはないが、間違いない。あれが、鬼だ!

 その鬼の一つ目が、じっと一人の人を見据えている。絹の寝間着をまとい、怯えきって立ち尽くしているその人は、二階様だった。

「二階様!」

 私は二者の間に割って入った。二階様をかばうように自分の背中に回し、鬼に向けて右手をあげる。

「何なの、あなた! それ以上この方に近付くと、容赦しないわよ!」

 二階様は私の行動に驚いているご様子で、何も言葉を発することが出来ないでいた。二階様の震える吐息が、私の肩や首筋にかかる。

 私は二階様をかばいながら、じりじりと後退った。すると鬼も一歩一歩近付いてくる。

「こ、来ないで! 来ると、ゆ、許さないから!」

 とは言え、後退る以外にどうすればいいのかさっぱり分からない。

 ――藤一郎! 藤一郎は、どこに行ったの!

 私達はついに壁際まで追い詰められた。二階様の背中は壁に密着し、私達はこれ以上移動のしようがなくなってしまった。

 そんな私達の様子を見て、鬼は大きな口を開け、にやあと笑った。その笑顔は不気味だった。

「く……黒川さん……」

 私は鬼に気圧されて、思わず二階様に背中を押しつけるように更に後退ってしまった。二階様は壁と私に挟まれて、少し潰されそうになっている。

 二階様、本当に申し訳ありません、でも、私もすっごく怖いんです!

「黒川さん……お願い、わたしを置いて、一人で逃げて」

「そ、そんなこと出来ませんっ」

「いいの。狙いはきっとわたしなんだから、黒川さんは、逃げて……」

 何という気丈な方だろう。そんなことを言われては、余計に二階様を見捨てられない。

 鬼が喉を鳴らす。そのにやあという笑みが深くなる。

 そして鬼はこちらに腕を伸ばしてきた。

 ――二階様を守らないと、二階様を、二階様を――!

「――こっち」

 不意に、声がした。

 しかもそれは二階様の声だった。

 でも、二階様は私の背中で震えている。声がした方向は部屋の反対側、鬼の背後からだ。

 二階様ではない。では、誰?

「こっち」

 また、二階様ではない誰かが言った。

 その声に反応して、鬼が振り返る。

 鬼の背後にいたのは、二階様と全く同じ姿をした誰かだった。

 それを見て、私は無条件に、あれは藤一郎だという気がした。

 ――千変万化。

 藤一郎は今、二階様に変化しているのか。

「こっち」

 藤一郎が変化した二階様が、誘うように微笑む。鬼を歓迎するかのように両手を広げ、誘惑するような表情をする。

「こっち」

 魅惑的だった。あまりにも。

 鬼は本物の二階様に背を向けて、藤一郎の二階様へと向かっていった。

「こっち」

 でも、鬼は藤一郎には全く到達できなかった。藤一郎は全く動いていないのに、二者の距離は全く縮まらない。

 一体どうなっているのか。

 すると、二階様には全く出来ないだろう調子で、藤一郎は冷たい笑みを浮かべた。

 途端、びょおう、と強風が吹いた。

 私と二階様は急の風に思わず顔を覆った。

 そして一瞬で風が通り過ぎると、おそるおそる目を開けた。

 広い広い室内。

 藤一郎が化けた二階様と、私の背後には本物の二階様。そして、私。

 鬼は、消えていた。

 鬼……鬼は、どこに?

 私達が呆然としていると、藤一郎は二階様の姿をしたまま、にいーっと笑った。

 喰った……のか? 鬼を……?

 藤一郎のその表情に釘付けになっていると、急に二階様の体から力が抜け、私の背中に寄りかかってきた。

「二階様!」

 私は慌てて二階様のお体を支えた。でも急のことだったのできちんと支えることが出来ず、二人で床にへたり込んでしまう。

「二階様……!」

 二階様の両目は閉じられていた。意識を失われたのだろうか。

「二階様っ?」

「案ずるな。眠っただけだ」

 すぐ近くで、二階様のものではなく藤一郎の声がした。

 見るとそこには変化を解いた藤一郎が立っていた。闇の滴るような黒い瞳で、私達のことを見下ろしている。

「藤一郎、二階様は……」

「お前が鬼の邪魔をするから、助かったな」

「た、助かった……」

 私はほっとして、ひょろひょろとした声を漏らした。

「こ……怖かった……」

「ふん。鬼ごときが怖いとはな」

「こ、怖かったんだから仕方ないでしょ! 私はあなたと違って、ただの人間なのよ!」

「どこがただの人間だ。それだけ重い業罪を負うほどの力がありながら、言えたことではなかろう」

「だから何なのよ、業罪って! 私はそんなんじゃないわよ!」

「お前、自分がどうやってここに立ち入ったと思ってる。ここはこの世ならざる場所だ。そんな場所にすんなり入れたのは、それだけお前がこの世ならざるものに近いのだ」

「何よそれ、言いがかりはやめてよ」

「言いがかりなものか。何度言わせるつもりが知らんが、重い業罪を負い、邪気を引いているのは間違いのないことだ。事実お前は鬼を引き、鬼の異界に入り込んだのだぞ」

「そ……それは……でも」

「それでも否定するなら、お前は無知だということだ。この世ならざるものについても、自分についてもだ」

 そう言う藤一郎の瞳は黒く冴えていた。私は何も言葉を返すことが出来ず、黙り込んでしまった。

 藤一郎もくだらないことを言った、と言いたげな顔をして、ふんと息を吐いた。

「まあいい。いいから戻れ。ここは異界だ。あまり長居するような所ではない」

「と、藤一郎、」

 私が腰を浮かしかけると、既に藤一郎はそこにはいなかった。それどころか、風景も変わっている。何もない広い部屋ではなく、私達は二階様のお部屋にいた。

 いつの間にか、二階様のベッドの下に二人で座り込んでいる。

 ほんの一瞬の出来事だった。今までのことは本当に夢だったのではないか? そう思えるくらい、あっけなく現実に戻ってきたのだった。

 私は半ば呆然として、虚空を見つめてしまっていた。

 そうしていると、二階様が小さくお声を漏らした。

「う……ん」

「二階様っ」

 二階様は薄く目を開けた。そして身を起こすと、周囲を見回して、私のことを見た。

「……黒川……さん?」

「二階様、大丈夫ですか?」

 問われると、二階様は頭をお押さえになって、暫く考え込んでいた。

「……夢を……見ていたの。あの夢を……でも……」

「でも?」

「不思議ね……。よく覚えていないのだけれど、何だか、あなたに助けてもらったような気がするの……」

「二階様……」

 二階様は改めて私の顔を見て、にっこりと笑った。

「ありがとう、黒川さん。そばに来てくれて」

「いっ、いえ、私はただ……」

「本当に、ありがとう」

 二階様にそう言われて、私の顔はぼうっと熱くなった。

 何だか言葉が見つからず、私はただ、うつむいたり、二階様のお顔を見たり、それを繰り返していた。


 翌朝、二階様はいつもの明るい笑顔を取り戻していた。私の姿を見つけると私のほうへ歩み寄ってこられて、首を傾げるように会釈なさった。

「おはよう、黒川さん」

「おはようございます、二階様」

「昨日は、ありがとう」

「いいえ、私など……特に何もしておりませんし……」

「ねえ」

「は、はい」

「黒川さんて、下の名前、葵子さんというのでしょう?」

「あ、はい」

「葵子さん、と呼んでもいい?」

「えっ?」

 突然だった。名字でばかり人のことをお呼びになる二階様が、まさかそんなことをおっしゃるとは思いも寄らなかった。

「だめかしら?」

「そ、そんな! 滅相もない」

 私は嬉しさに頬がかあーっとなった。

「光栄です!」

「ありがとう! 嬉しい。葵子さん」

「は、はいっ」

「本当に、ありがとう。わたし、朝を迎えられたのは、きっと葵子さんのおかげなんだと思うの。本当に、ありがとう」

「二階様……」

 あまりにも光栄なお言葉だった。

 二階様が微笑まれたので、私も、頬を熱くしながら笑った。

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