妖しの道を通りゃんせ

兎丸エコウ

第1話 神隠し

 明治五十五年、春、四月。

 風の強い春の夕刻には、神隠しに遭いやすい、という。私の世話をしてくれる、侍女のちよが言っていた。

 今日も、春らしく風が強かった。そして時刻はもうすぐ、夕刻にさしかかっている頃だった。


 私の学校の門には大きな白木蓮はくもくれんがあって、今は季節ではないので花を全て落としており、細長い果実と葉っぱだけになっている。その白木蓮の葉が、びょおう、びょおう、という強い風に揺れていた。

 私がいる教室からはそれが遠くに見えている。私は先生が袴の裾を揺らしながら話すのを真正面に見つつ、ちらちらと白木蓮のほうも見ていた。

 今の花と言えば桜や藤が思い浮かぶ。ここの女学生に人気があるのもそういう花だ。当然のように校内には桜の木が植わっていて、藤棚もあり、沢山の花をつけている。授業が終われば多くの女学生がその下に集まって花を楽しんでいた。校内で咲いている花はそれだけではない。あざみすみれ山吹やまぶきなどなど、まさに花盛りだ。

 今は春の花が盛りだけれど、私は花は白木蓮が一番好きだ。冬と春の間の少し肌寒いときに咲き、いい香りをさせる花。私はこの学校に入ったばかりなので、校門に立つ白木蓮が咲いているところをまだ見たことがない。あれだけの大木ならば、花が咲けばさぞ見事だろうと思う。

 その見事な白木蓮が見られるだけでも、学校を進んだ価値がある、と私は思った。

 これまでは、最低限の女学院を出れば女子はそれ以上進学しなくてもよかったのだけれど、「女子も高等教育を受くるべし」という国の意向があり、進学をした。私が進んだのは立花たちばな女学院という四年制の女学院で、在籍しているのは華族の娘がほとんどだ。華族の娘専用の学校と言ってもいい。他の例に漏れず、私の父も子爵だったりするが。

 私は正直高等の教育をあまり必要としてはいなかったのだけれど、……これまでの授業だって充分に難しかったのだし……、国の決めごとなら仕方がない。

 進学そのものへの憂鬱感もあったが、それ以上にこの冬は、私にとって大変なものだった。

 両親が命を落としかけたのだ。

 両親は同じ時期に同じ病に倒れた。医者からは労咳ろうがいと言われた。両親の死病を宣告された私の衝撃は言葉に出来るものではなく、ただひたすらに回復を祈ることしか出来なかった。

 私は一人娘であるため、父が死んでしまえば家も爵位もそれまでだ。父の危機はそのまま家の危機と直結していた。急の病だったせいで、養子をとって私を嫁に出すか、私が婿養子を迎えるか、それすら全く決まっていなかった。父も病床にありながら、しきりとそのことと、私の身のことを案じていた。

 私は正直家のこととかを心配する余裕はなかった。ただ両親の大病におろおろするばかりで。家の財産や爵位を失うより、両親を失うことの方がよほど恐ろしく、悲しかった。

 出来たのは力一杯祈り、願うことだけ。私がどんなごうを背負ったって構わない、神様、どうか両親を助けてください……と。あの時ほど神様を信じ、一心に祈ったことはなかった。神様がそうしてくれなくても、私が両親を助けたいくらいだと本気で思った。

 そして祈りが通じたのかどうか、両親は奇跡的に回復し、年が明けてからようやくサナトリウムから屋敷に戻ってこられたのだった。大病からの回復に、誰よりも医者が一番驚いていたことは言うまでもない。

 神様が二人を助けてくれたのだ。私はきっとそうなんだと思った。

 ただ父は、自分が死にかかったことで思うところがあったらしく、一つ大きな決断をした。爵位と家の存続のために、養子を迎えることにしたそうだ。女に襲爵権はない。だから自分が死ぬ前に家のことをしっかりさせておこうと、近縁の男子を近く養子に迎える準備をしているという。私よりも年上の方だという話なので、兄になるのだろう。

 私は私で進学のことでばたばたしていて、あまり詳しいことは聞いていないのだけれど、はてさて、一体どんな方が私の兄になるのやら……。

 お兄様、か……。私はずっと一人娘だったので、兄が出来ると思うと、不安でもあったし、胸が高鳴りもした。

 視線の先で、校門の白木蓮がゆらゆらと揺れる。びょおう、びょおう、という風が、夕刻の差し迫った春の日に、大きな音を立てた。


「それでは黒川くろかわさん、ご機嫌よう」

「ご……ご機嫌よう」

 今日の授業が全て終わり、女学生は次々に席を立っていく。その時近くの同級生が挨拶をしてきたが、私はどうも、このいかにもご令嬢というふうの挨拶が苦手だ。とっさに反応はしたが、背中にぞぞぞっと寒いものが走って行く。

 私が進学に乗り気でなかったのは、出来ればこういうお上品な空間から遠ざかっていたかったのもある。自分も子爵の娘だろうと言われればそうなのだけれど、苦手なのだ、何となく。

 私は教科書と帳面をまとめて机に置き、堅苦しさにため息をついた。

 ……普通に「さようなら」とかで、いいじゃないの。「ご機嫌よう」じゃなくたって。と、思う。

 もう一度ため息をつくと、不意に黒板の前のほうからささやかな笑い声が上がった。

 私は思わずそちらのほうに目を向けた。

 そこには数人同級生が固まっていて、その中心にはすらりとした女学生が立っていた。

 長い髪は毛先がくるくると回っていて可愛らしく、顔は細面ほそおもてで色白。柳眉りゅうびの下には夢見るような瞳。いかにも竹久夢二が好んで描きそうな美少女ふうだ。灰色のセーラー服に白いスカーフという服装が、とっても清楚な印象。もっとも、この女学院ではみんな同じ制服だけれど。

 二階にかい蓮子れんこ様だ。確か父親は、二階直大(なおひろ)侯爵だったと思う。私でも知っているくらいの裕福な武家華族で、広大な土地を持っていると聞く。

 その娘である二階様は、父親の爵位や家の裕福なのを鼻にかけたところがなく、他の華族令嬢とは一線を画したところがある。私に話しかけてくださるときも、楚々(そそ)としていながらどこか気楽な雰囲気がある。その立ち居振る舞いはわざとらしくお嬢様を演じているものではないので、私はかなり気持ちのいい方だなあと思っていた。

 何より美貌だ。それは、同級生の憧れの的にもなるし、人気者にもなると思う。

 二階様は話しているみんなと教室を出ようと歩き出したとき、私の視線に気付いて、にこりと会釈をした。私はそれにどきりとして、慌てて頭を下げた。

 顔を上げると二階様は既に廊下だった。くるりとした後ろ髪が、ふわんと扉の向こうに消えていく。

 二階様が教室からいなくなると、それを合図にしたように、続々と人が教室から立ち去っていった。

 この女学院は基本的に少人数制なので、一教室に十数人しかいないため、教室からはあっという間に人がはけてしまった。私も人より少し遅れて、教室を出る。

 私のとんとんという足音と共に、廊下の窓ガラスの向こうから、びょおう、びょおう、という風の音がする。私は何となく、その風の強い外へと顔を向けた。

 すると、窓の向こうの外廊下を、教員が一人歩いて行くのを見つけた。ああ、あの先生は……と思うと同時、前を歩く女学生が数人、きゃあと高い声を上げた。

 それもそのはずで、歩いているのが男性の教員だったからだ。女子ばかりの学内では、女学生は異性に敏感に反応する。それが美男子と評判の先生ならなおさらだ。

 東京音楽学校を出られた先生で、音楽を担当なさっている。だからなのかどこか生活感がなく、浮き世離れしているように見える。洋装の白いリボンが強風に揺れているのが、何だかこの世のものじゃないみたいだ。

 その先生が通り過ぎていくのを、女学生達が目で追っていく。背が高くすらっとしていて、亜麻色の髪に鳶色とびいろの目、色白で素敵――だそうだが、私にしてみれば、色素が薄いだけじゃないのという気がする。女学生からはまるで俳優のような扱いを受けているが、実際活動写真に写したらいかにも白飛びしそうだ。

 確かに、日本風とはかけ離れた風貌だし、洋装が似合っているし、綺麗な髪の色だとは私も思うけれど……。でも私はやっぱり、黒髪の日本男児のほうがいいと思うから、きゃあきゃあ言わない。

 先生自身も女学生からの黄色い声には関心がないらしく、先生がそばを通る度にさっと態度を改める彼女らには目もくれず、さっさと行ってしまった。

 行ってしまった先生を目で追い続けて、前を歩く女学生達はこそこそと話し合った。

「類巣(るいす)先生、素敵ね」

「お名前もルイスだなんて、何だか外国の方みたいだわ」

「ハイカラなお名前!」

 ハイカラな名前。確かに、類巣絹人きぬひとなんていう珍しい響きは、ハイカラな印象を与えるかも知れない。

 女学生達はまだうっとりと類巣先生の去って行ったほうを見ている。先生にうっとりと言うより、うっとりしている自分にうっとり、という感じに見えるが。まあ、そんなことはいいのだ。

 私は寄宿舎の自分の部屋に戻るべく、さっと彼女たちを追い抜いた。

 この立花女学院には寄宿舎が付いていて、在学する女学生は基本的にそこで生活している。外から通っている人はあまりいないのではないだろうか。

 宿舎は大抵二人部屋か個室で、私は個室を使っている。身の回りのことは侍女のちよがやってくれる。ちよは実家にいた頃から私に仕えてくれていて、私がこの女学院に進学することになったので小石川の屋敷からついてきた。私は本当は自分の世話くらい自分でしたいのだけれど、「女学生は勉学に集中すべし」という学校の方針もあって、ちよに様々なことを任せている。ちよには苦労をかけていると思う。

 私は次々女学生たちを追い抜いて、外廊下に出た。女学生用の寄宿舎に向かうほう、教員宿舎に向かうほうとに分かれていて、道を折れて敷地の奥に向かうほうが教員宿舎だ。

 びょおう、びょおう、と強い風が外廊下を通っていく。時刻はそろそろ夕刻で、影が長く伸び、若干日の陰りを感じた。

 私の短い髪が、風に煽られて少し乱暴に頬をくすぐった。

 類巣先生が消えていった曲がり角にさしかかり、私はちらりとそちらのほうを見た。類巣先生の姿はもう見えない。その向こうには教員宿舎としての小さな館が点在していた。

 男性の先生か……、と、私はふと思った。男性というと、どうしてももうすぐ来る兄のことがちらついてしまう。

 私のお兄様になる方とは、一体どんな方なのだろう。写真すら見ていないので全く分からない。日本人らしい黒髪か、それとも類巣先生のような日本人離れした髪色か……。そう思いながら、視線を前に戻す。

 おかしなもので、見たこともない方のことを想像すると、なぜか理想像を想像してしまうものだ。私もつい、そういう顔を思い描いてしまう。

 たとえば……そう、柔らかな黒髪、切れ長の目で、瞳の色も黒、すっとした鼻筋で、ちょっと怜悧れいりな印象があって、そうね、び……美男子でも、まあ悪くないんじゃないかしら? ……とか考えていると頬が熱くなってきたが、これは、西日が暖かいからだ。

 お兄様がどんな方かは分からないけれど、そんな人がいたら、素敵だな……。

 と思った瞬間、私はぶんぶん首を振った。

 ――べ……別に、いいのよ。まだ十四歳なのだし、男の方のことを考えるのは、早いんだから。

 そうして想像した男の人の像を振り払うように歩みを速めたとき、びょおうと強風が吹いた。その直後、私は何か視界に黒いものが見えた気がして、思わず足を止めた。

 校庭である芝生の上に、何か黒いものが立っている。そんな気がして。

 そちらに視線を向けてみると、それは気のせいなどではなかった。そこには確かに、黒い服装の人がいた。

 学ランにインバネス、黒い学帽をかぶり、じっと寄宿舎を見上げている。年頃は一高生らしく見えるけれど、何者だろう。

 何者でも構わないが、何事だろう。なぜ、どうやって男子がこの学内に入ってこられたのか。門を守る衛士えじ様は何をしているのだろう。見逃したのだろうか。

 私はそちらのほうに近寄って、ぐっと警戒しながら、声をかけた。

「あの」

 私に声をかけられると、その人はすっとこちらに顔を向けた。切れ長の目が私をとらえる。闇の滴るような黒い瞳だった。

 その視線に、鳥肌が立った。

 私は驚いた。

 私が思い描いた男の人、そっくりではないか?

 柔らかな黒髪で、切れ長の目で、瞳の色も黒、すっとした鼻筋で、ちょっと怜悧な印象。それに、その……美男子と言っても、いい……顔だし……。

 まるで私の頭の中から出てきたかのような人を目の前にして、戸惑うと言うより気圧されそうになった。が、私はそれをこらえて言葉を続けた。

「どちら様ですか。どなたかにご用ですか」

 やや警戒しながらそう言うと、その人は私をじっと見て、ほおう、と声を漏らした。

「僕が見えるか」

 何の話だ。見えるに決まっている。

 じいっと見つめていると、その人は私をじろじろ見て、何か納得したように目を細めた。

「……なるほど。お前か」

 その理由の分からない納得に、私は一気に警戒心を強めた。相手の秀麗な外観に気圧されないように気を張って、肩をいからせ、身構える。

「誰なの、あなた」

「見えるのに僕が何なのか分からないのか」

「分かるわけないでしょう。あなた誰なの」

「誰でも構わん。お前は何だ」

「……葵子きこ

「で?」

「黒川是為これため子爵の娘よ」

「だから?」

 目の前にいるのが華族の娘だという点を意に介さないのは好感が持てたが、態度が失礼すぎる。この人は何なんだろうか。

「あなた、何なの。先生を呼ぶわよ」

「呼べるなら呼べ」

「本当に呼ぶわよ」

「しつこいな。出来るのなら勝手にしろ」

 私はむっとして、そしてふと気付いた。

 ……周りに人の気配がない。

 校内にこんな男子がいるのに、女学生があれこれ言う声が一切しないのだ。

 私は慌てて周囲を見回した。

 歩いていて当然の女学生の姿がない。私とこの人の他に、人影が見えない。足音も、話し声もない。

 まるで、人が消えてしまったかのような――。

 私は言葉を失った。そんな私に、その人はよく通る声で――誰もいないので本当によく通る――こう言った。

「今のお前は独り言をぶつぶつ言っているようにしか見えないぞ。だからお前の今後のために人払いをしてやった。ありがたく思え」

 何をありがたがればいいのかさっぱり分からないが、今自分が置かれている状況というのもさっぱり分からない。

 突然人が消えたところに、正体不明の男子と二人。

 人がいないのが気のせいなのか、この男子が気のせいなのか。

 ……いや、どちらも気のせいとは思えない。現実感が、しっかりある。

 では何が起こったというのか。

 不気味なほどしんとしている。女学生の話し声も聞こえず、先ほどまで吹いていた風もない。無音なのは無風のせいもあるようだ。

「あなた、何をしたの。あなた誰なの」

「僕は神隠しだ」

 その人はさらりと言った。

「かみ? かみかく……?」

「神隠し。お前が声をかけるから、仕方なく僕の中にお前を移したのだ」

「……何を言ってるのよ?」

「お前はバカか?」

「ば、バカって何よ!」

「神隠しだと言っている。聞いたことがないのか」

「あるわよ、神隠しくらい!」

 何だか知らないがとてもバカにされているらしいとは分かる。神隠しだなんて自称する自分を棚に上げて人をバカ呼ばわりするとは、何だか許しがたい。

「何よ神隠しって。からかってるの?」

「からかっているとは失礼だな」

「失礼はどっちよ! 失礼ね!」

「いいか、僕は人間ではない。僕は神隠しで、お前は今神隠しに遭っている。分かるか」

 いや、分からない。

 分からないが、分からないと正直に言うのも業腹ごうはらだ。何だかまたバカにされそうな気がするし。

 私は眉を寄せて口を尖らせると、ややあごを引いた。

「……じゃあ、なによ。あなた、天狗とか、狐とかなの?」

 天狗っぽくは見えないが、狐っぽくなら、見えないこともない。

「お前は本当に分かっているのか?」

「う、うるさいわねっ」

「僕はそんなに具体的なものではない。僕は怪異だ。そういう現象なのだ」

「げんしょう?」

「やはり分かっていないだろう」

「うるさいわねっ」

「確かに天狗や狐も人を隠すことがあるが、僕はそういうものじゃない。消失を起こすことそのものだ。それにそもそも僕は人は喰わん」

 何を言っているんだか分からないが、やっぱりそんなことは素直に口に出来ない。

 私は暫くむーとうなった。

「……じゃあ、なんで、現象が人の形をしているのよ」

「お前が僕をこういう姿として認識したからこうなった。この姿はいわばお前のせいだ」

「……何で私のせいなの?」

「千変万化という言葉を聞いたことがあるか。変化へんげは強い力の証しだ。僕はそういう規模の神隠しだ。変化の力がお前の認識をうつしてこうなったのだ」

 余計に分からない。

 何だかまるで、私がそういう姿を想像したから、そっくり同じ姿になったのだとでも言いたげだ。

 今度は私がじろじろと相手を見た。

 どう見ても、人間にしか見えない。人間の、しかも得体の知れない人だ。千変万化の神隠し……? 神隠しが変化をするなんて聞いたことがないし、素直に鵜呑みにする気にもなれない。

 私が何一つ理解を示さないので、相手は呆れたような息を吐いた。

「僕のことは容易に見えるというのに、何一つ分からんか。勘が悪いな。本当に悪い」

「さっきからなんなのよ、失礼ね!」

 顔は素敵と言ってあげられないこともないのに、性格が大問題ありだ。中身は全然素敵じゃない。

「もう、神隠しでも何でもいいわ! それで、その神隠しが一体ここで何をしているの」

「強い業が邪気を呼んでいる。この気は、引くぞ」

「引く?」今度も何の話だ。

「異形の者を引き寄せるのだ。強い業の持ち主が邪気を呼んでいるから、どんな異形が引かれてくるかそれを見に来た」

「何よ、興味本位で見物に来たの?」

「そんなわけなかろう。喰いに来たのだ」

「人を食べに来たの?」

「人は喰わんと言ったはずだ。僕は異形を喰うのだ」

「神隠しが食事をするの?」

「便宜上喰うと言っているだけだ。隠すだの消すだのと言った方が現実に近いが、それでお前が何かを理解できるとは思えん」

「本当に失礼な人ね!」

「人ではない。本当に理解が悪いな」

「何なのよ、もう!」

「まあいい」

 言うと、その自称神隠しは、すっと私を指さした。

「この邪気の原因は、お前だ」

 凛とした声が、私を刺す。

 私が、何……? ……原因?

「この邪気はお前の背負った業罪ごうざいが呼び寄せているものだ」

「な……何の話なの? 業罪って……」

「自分が負った業に心当たりがないのか? お前、どこまでも勘が悪いな」

「どこまでも失礼ね!」

「まあ、僕はお前の業になど興味はない。引かれてきた異形を喰えればそれでいいのだ。これから何が引かれてくるか、暫く様子を見るとしよう」

 何やらすごく勝手なことを言っているが、私は何だかもう言い返す気分じゃなかった。

 私が業罪を負っているだの、邪気を呼ぶ原因だのと、随分と失礼なことを言ってくれる。仮に本当に神隠しだとしても、神隠しというのはこんなにも不遜(ふそん)な言動をするものなのだろうか。

「とにかくお前はもう戻れ。お前を呼ぶ声がする」

「言われなくても、部屋には戻るわよっ」

「そういう意味じゃない。僕の中から外へ戻れと言っているんだ。ここと外では時の流れが違うぞ。お前は随分と捜されているようだ。今帰してやるからさっさと戻れ」

 神隠しがそう言った途端、びょおう、と強い風が戻ってきた。

 私は急の風に思わず目を閉じ、手のひらで顔を守った。

 そして目を開けて前を見たとき、そこには神隠しはいなかった。

 それどころか、周囲の様子がおかしい。

 暗いのだ。

 世の中は宵闇に覆われ、寄宿舎から光が漏れており、空には星がきらめいている。今の今まで夕刻になったばかりだったはずなのに、完全に夜になっていた。

 びょおうという風も、随分と冷たい。

「……え? な、何なの……?」

 私は戸惑いながら、肌寒さに腕をさすった。

「――きこさま!」

 不意に、寄宿舎のほうから小さな影が走ってくるのが見えた。

 この声は、間違いない。目をこらしてよく見ると、確かに、走ってくるのはちよだった。

 ちよは私の目の前で立ち止まると、幼い胸に手を当てて荒れた呼吸を整えた。

「きこさま、お捜しいたしました」

「え? 私を……?」

「もう、十時でございますよ。お食事の時間にも食堂にいらっしゃいませんし、いつまでもお部屋にもお戻りにもならないので、お捜ししておりました」

 ちよは十歳そこそこなのだけれど、話し方や振る舞い方が随分としっかりしている。もしかしたら私よりもちゃんとしているんじゃないかと思うくらい。

 ちよは丸い目で私を見上げながら、小さな鼻と口でふうふうと息をしていた。相当に捜し回っていたのだろう。でも私は授業を終えて間もないという感覚だった。もう十時だなんて、そんな感じは全くない。

 ――お前は今神隠しに遭っている。

 ――ここと外では時の流れが違うぞ。

 自称神隠しが言っていたことが甦る。

 本当に……本当だった……? 私は本当に、神隠しに遭っていた……?

「きこさま、一体今までどこにいらっしゃったのですか?」

「え? 私は、ずっとここに……」

「ここは何度もお捜し申し上げました。ですが……本当に、いらっしゃったのなら……」

 言うと、ちよは不安そうに眉を寄せた。

「きこさま、もしかして、神隠しに遭われたのではありませんか?」

「か、神隠しに?」

 ちよからずばりと言われて、私は何かがばれてしまったときのような心境になった。それでつい、一瞬おどおどとしてしまった。

「春の風の強い夕刻には、よく神隠しに遭うと申します」

 と、ちよ。

 何だかその言葉には聞き覚えがあった。でもどこでどう聞いたのか、とっさには思い出せない。

「特に、鬼は若い女の方を好んで隠すと申します。きこさま、どうぞお気をつけくださいまし」

「鬼?」

 鬼って?

 さっきまで私が話していたのは、鬼だったのか?

 でも、自分は神隠しという現象だ、と言っていたし、そもそも人は喰わないと言っていたような……。

 ああ、何だか混乱する……。

「さあ、きこさま、お部屋にお戻りくださいませ。よくよくお休みください」

「ええ、そうね。ごめんなさい、ちよ。手間をかけさせてしまって」

「ちよは、きこさまがご無事でいらっしゃれば、それでよいのです」

「ありがとう」

「さあ、きこさま、お足元にお気をつけください。お部屋で温かいお茶をご用意いたします」

「ありがとう、いただくわ」

 神隠し……。

 私は、本当に神隠しに遭ったのだろうか……?

 ――強い業が邪気を呼んでいる。

 ――この気は、引くぞ。

 混乱していると、神隠しが最後に言っていたことが、ぐるぐると頭の中を回った。

 私が、異形を、引く。

 私にどんな業罪があって、なぜそんなものを負っているのか分からないが、それが原因で邪気を呼び、その邪気が異形を引き寄せているというのなら、私は一体……どうしたらいいのだろう?

 私は不安でざわざわしながら、ちよの後ろについて、寄宿舎に戻っていった。

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