16
「あ、海」
「クルージングに行こう」
「クルージング!?」
びっくりだ。長瀞のライン下りと、接待で乗った屋形船には乗ったことがあるけど、クルーザーなんてしゃれた船は乗ったことがない。
私の知る限り、ディナーなんか食べられたりするはずだ。
「もう着くよ」
「はい!」
東京湾に近づき、車の窓を開けると海の匂いがしてきた。
「海の匂いがする」
すーっと深呼吸をして空気を吸い込む。
「着いたぞ」
「はーい」
デートらしいデートは初めて。
社長にエスコートされてクルージングの受付を済ませると、私達が乗り込むクルーザーに向かう。
乗船場所には、船長らしき人が立っていて私達を迎えてくれた。
船内に乗り込む頃にはすっかり陽が落ちて夜空には星が出ている。周辺の灯りが波に反射して、海にも星があるようにキラキラと輝いている。
「すごく綺麗……」
「喜んでもらえたか?」
「もちろんです」
「良かった」
デッキに行くと、クルーザーはゆっくりと動き出した。
「乗っていられる時間は?」
「沙耶が好きなだけ」
貸切でしかも時間無制限なんて。
「さむっ……」
ワンピースは素敵だけど、我慢も限界で、海風も本当に気持ちがいいけど、ロマンチックな雰囲気も寒さには勝てない。
「あ……」
社長が私をバックハグしてくれた。なんて温かいのだろう。
「綺麗だな」
「うん」
クルーザーは工場群を横切っていた。無機質な鉄の塊の建物が、夜になるとこんなに幻想的な灯りを放つなんて知らなかった。
「あ、飛行機!」
「空港の近くを通っているんだな」
暗いけど、飛んでいるのは分かる。
「乗りたいなあ」
出張で度々利用するけれど、ビジネスより旅行で乗りたい。
「時間を作って旅行に行こう」
「嬉しい」
社長は私に知らない世界を見せてくれる。恋人になったからじゃなくて秘書のときからそうだった。
恋人になったからよけいにそのことが分かる。
見せてくれただけじゃなくて、気づかせてもくれたのは社長だ。
「いつも私に新しい世界を見せてくれる」
「知らない世界を知ることは重要で、経験はいつか宝になる。無駄だと思うことも挑戦していれば、必ず使える時がくる」
「うん」
好きなだけじゃなくて、尊敬できる社長を恋人に出来るなんて、宝くじで5億円当たるより難しい。
「お食事のご準備が整いました」
クルーが言った。
「ディナーだ」
「はい」
手を繋いで見つめ合いながら船内に入る。
白いテーブルクロスに、キャンドルとフラワーアレンジメント。今日はクリスマスだったかしら?
「どうぞ」
「ありがとう」
社長が椅子を引いて私は腰かける。ボリュームのあるスカートの脇を、少しつまんで優雅に座れば、私は本当のレディだ。
キャンドル越しの社長の顔はますます素敵で、そして紳士。紳士ってなりたくてもなれるものじゃない。現に私の父親は、紳士になれずくたびれた中年になっている。
グラスにワインが注がれ、グラスを持ち上げ乾杯する。
「美味しい」
「飲みすぎるなよ?」
「介抱しれくれる人がいるじゃない」
「記憶をなくすような女の介抱は出来ないが?」
「意地悪ね」
口当たりのいい甘いワインは、今の私たちのよう。
フランス料理のフルコースで、順番に出される料理を、私はぺろりと平らげてしまう。
「美味しい」
「さっきからそれしか言わないな」
「だって美味しいから」
パクパク食べたらはしたないかな、なんて思いながら、美味しい料理の前ではそんなことも考えられない。
ワンピースはぴったりサイズで少しお腹が出始めるけど、ボリュームのあるスカートでごまかせるはず。
「ローストビーフ!!」
何より大好きなローストビーフ。フランス料理じゃないけど、フォアグラのステーキの横に置いてある。
「大好きだろ?」
「はい」
「もしかして特別に?」
「沙耶が好きだからね」
「嬉しい」
出されたローストビーフは私の知っているローストビーフじゃない。厚みがあってレアのステーキのよう。ナイフを入れると、弾力がありながら、ナイフに絡みつくようなねっとりしたレアの肉。肉汁が一気に溢れ出す。まずは何も付けずにいただく。
「う~ん、美味しい」
もう私の食欲は止まらない。薄くカットしたローストビーフもいいけど、これはまた格別。でもどうして私が、ローストビーフを好きなことを知っているのだろう。
一緒に帰るようなデートしか出来ていない私たちは、食事もしていない。社長が作ってくれた料理でも、肉料理は禁じられて食べていなかったのに。
「なんで私がローストビーフを好きだって知っているんですか?」
「ローストビーフ、ローストビーフ、もう食べられない。——寝言で言ってたからな」
社長は笑いを堪えるように言った。
「……いつの寝言?……まさか……?」
「あの夜だ」
「嘘ですよね!!」
「俺は嘘をつかないよ」
「だって、笑ってるじゃないですか」
「思い出し笑いだよ」
告白した記憶もなかったんだから、当たり前だけど、寝言なんかもっと記憶にない。
恥ずかしくて顔が赤くなると、
「おかしくて暫く眠れなかったよ」
「し、しりません!!」
いまも思い出したみたいで、くくくっと笑う。ひどい。
「真剣に! 本当にそんなこと言いました?」
「本当だ。黙ってようと思ったが、一人で抱えておくには、もったいないと思ってな」
「意地悪」
美味しく食べていたのに、そんなことを言うなんて許せない。
私はどこまでまぬけなのだろう。ほとほと自分が嫌になる。弥生が言う私は、私じゃないと思っていたけど、どうやら当たっているようだ。
ぷんぷん怒りながらも、デザートまでぺろりと平らげた。
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