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「あ、海」

「クルージングに行こう」

「クルージング!?」


びっくりだ。長瀞のライン下りと、接待で乗った屋形船には乗ったことがあるけど、クルーザーなんてしゃれた船は乗ったことがない。

私の知る限り、ディナーなんか食べられたりするはずだ。


「もう着くよ」

「はい!」


東京湾に近づき、車の窓を開けると海の匂いがしてきた。


「海の匂いがする」


すーっと深呼吸をして空気を吸い込む。


「着いたぞ」

「はーい」


デートらしいデートは初めて。

社長にエスコートされてクルージングの受付を済ませると、私達が乗り込むクルーザーに向かう。

乗船場所には、船長らしき人が立っていて私達を迎えてくれた。

船内に乗り込む頃にはすっかり陽が落ちて夜空には星が出ている。周辺の灯りが波に反射して、海にも星があるようにキラキラと輝いている。


「すごく綺麗……」

「喜んでもらえたか?」

「もちろんです」

「良かった」


デッキに行くと、クルーザーはゆっくりと動き出した。


「乗っていられる時間は?」

「沙耶が好きなだけ」


貸切でしかも時間無制限なんて。


「さむっ……」


ワンピースは素敵だけど、我慢も限界で、海風も本当に気持ちがいいけど、ロマンチックな雰囲気も寒さには勝てない。


「あ……」


社長が私をバックハグしてくれた。なんて温かいのだろう。


「綺麗だな」

「うん」


クルーザーは工場群を横切っていた。無機質な鉄の塊の建物が、夜になるとこんなに幻想的な灯りを放つなんて知らなかった。


「あ、飛行機!」

「空港の近くを通っているんだな」


暗いけど、飛んでいるのは分かる。


「乗りたいなあ」


出張で度々利用するけれど、ビジネスより旅行で乗りたい。


「時間を作って旅行に行こう」

「嬉しい」


社長は私に知らない世界を見せてくれる。恋人になったからじゃなくて秘書のときからそうだった。

恋人になったからよけいにそのことが分かる。

見せてくれただけじゃなくて、気づかせてもくれたのは社長だ。


「いつも私に新しい世界を見せてくれる」

「知らない世界を知ることは重要で、経験はいつか宝になる。無駄だと思うことも挑戦していれば、必ず使える時がくる」

「うん」


好きなだけじゃなくて、尊敬できる社長を恋人に出来るなんて、宝くじで5億円当たるより難しい。


「お食事のご準備が整いました」


クルーが言った。


「ディナーだ」

「はい」


手を繋いで見つめ合いながら船内に入る。

白いテーブルクロスに、キャンドルとフラワーアレンジメント。今日はクリスマスだったかしら?


「どうぞ」

「ありがとう」


社長が椅子を引いて私は腰かける。ボリュームのあるスカートの脇を、少しつまんで優雅に座れば、私は本当のレディだ。

キャンドル越しの社長の顔はますます素敵で、そして紳士。紳士ってなりたくてもなれるものじゃない。現に私の父親は、紳士になれずくたびれた中年になっている。

グラスにワインが注がれ、グラスを持ち上げ乾杯する。


「美味しい」

「飲みすぎるなよ?」

「介抱しれくれる人がいるじゃない」

「記憶をなくすような女の介抱は出来ないが?」

「意地悪ね」


口当たりのいい甘いワインは、今の私たちのよう。

フランス料理のフルコースで、順番に出される料理を、私はぺろりと平らげてしまう。


「美味しい」

「さっきからそれしか言わないな」

「だって美味しいから」


パクパク食べたらはしたないかな、なんて思いながら、美味しい料理の前ではそんなことも考えられない。

ワンピースはぴったりサイズで少しお腹が出始めるけど、ボリュームのあるスカートでごまかせるはず。


「ローストビーフ!!」


何より大好きなローストビーフ。フランス料理じゃないけど、フォアグラのステーキの横に置いてある。


「大好きだろ?」

「はい」

「もしかして特別に?」

「沙耶が好きだからね」

「嬉しい」


出されたローストビーフは私の知っているローストビーフじゃない。厚みがあってレアのステーキのよう。ナイフを入れると、弾力がありながら、ナイフに絡みつくようなねっとりしたレアの肉。肉汁が一気に溢れ出す。まずは何も付けずにいただく。


「う~ん、美味しい」


もう私の食欲は止まらない。薄くカットしたローストビーフもいいけど、これはまた格別。でもどうして私が、ローストビーフを好きなことを知っているのだろう。

一緒に帰るようなデートしか出来ていない私たちは、食事もしていない。社長が作ってくれた料理でも、肉料理は禁じられて食べていなかったのに。


「なんで私がローストビーフを好きだって知っているんですか?」

「ローストビーフ、ローストビーフ、もう食べられない。——寝言で言ってたからな」


社長は笑いを堪えるように言った。


「……いつの寝言?……まさか……?」

「あの夜だ」

「嘘ですよね!!」

「俺は嘘をつかないよ」

「だって、笑ってるじゃないですか」

「思い出し笑いだよ」


告白した記憶もなかったんだから、当たり前だけど、寝言なんかもっと記憶にない。

恥ずかしくて顔が赤くなると、


「おかしくて暫く眠れなかったよ」

「し、しりません!!」


いまも思い出したみたいで、くくくっと笑う。ひどい。


「真剣に! 本当にそんなこと言いました?」

「本当だ。黙ってようと思ったが、一人で抱えておくには、もったいないと思ってな」

「意地悪」


美味しく食べていたのに、そんなことを言うなんて許せない。

私はどこまでまぬけなのだろう。ほとほと自分が嫌になる。弥生が言う私は、私じゃないと思っていたけど、どうやら当たっているようだ。

ぷんぷん怒りながらも、デザートまでぺろりと平らげた。




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