20

狭い道が続く神楽坂に入った。

神楽坂は社長が好きな街でもある。会食の予定が入ると、神楽坂を指定することが多い。

黒塗りの壁が続いて、料亭の門が目に入ると、女将が立って待っていた。店に近づくと、私が電話を入れるのだ。


「いらっしゃいませ、五代様」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ」


艶のある色気たっぷりの女将だ。たしか80才近かかったはずだが、女は色気だと女将を見るたびに思う。

髪は見事なまでのグレイヘアーで、光の加減で銀髪のようにも見える。決して老いに抵抗していないところも素敵である。

歩く後姿は、しなやかな柳の様で、家で真似をしてみたが、マリリンモンローの様になってしまい、笑った覚えがある。

女将を先頭に、いつも使っている部屋へ通される。

小さいが見事な中庭を眺めながら奥へと進む。外の喧騒とはかけ離れ、鳥の鳴く声が微かに聞こえる程度の静けさだ。

個室に通されると、下座に社長は腰を降ろし、上着のボタンを外す。


「社長、帰りのお土産はすでに女将に依頼済みです。会長ご夫妻は、時間通りに到着される予定でございます。それまでお待ちください」

「分かった」


私は社長を見て、身だしなみをチェックする。いつでも身ぎれいにしている社長だが、車などに乗った後は、少し乱れが出てしまう。ネクタイとチーフを少しだけ直す。

いつもと変わらない行為なのに、また社長の視線を感じる。顔も近づけなければならないし、視線を直に感じてしまう。


「やはり私の見間違いではないようだ、顔色が悪い」


沈黙を破ったのは、社長でまた同じことを言った。


「体調が悪いわけではございませんので、御心配には及びません。ありがとうございます。急激な気温の変化が少し苦手でございまして」


秘書として身に付けた、切り替えが出来ている。いい感じ。ぜったいに社長に悟られたくない。体調管理も仕事の内と、言われているのだから。


「ちゃんと食事はしているのか?」

「……はい?」


気遣ってくれるなんて、あの差し入れ以来だ。そんなことを言うなら、有休を許可してくれればいいのに、まだ返事がない。何度もしつこくは聞けないから、我慢しているのに。


「仕事を忙しくさせてしまって申し訳なく思っている。有休だが、申請したい日を提示してくれ。スケジュールをうまく組み替えてみよう」

「社長……」


嬉しくて、涙が出そうだ。休みが許可されただけじゃなく、優しい言葉もある。こんなことはなかった。

社長はずるい。たまに見せる優しさが、諦めようとする心を揺るがすんだから。

ずる休みをしてしまった時だってそうだ。あんなに優しくしてくれたのに、次の日はいつもの冷たい素振り。飴と鞭で、私の心を振り回してばかりだ。

社長がつけた甘い痕は、一週間消えなかった。風呂に入る度に私の身体を包み込み、身体を熱くさせた。


「余計な心配をおかけして申し訳ありません。体調は問題ございませんので」


私は秘書として姿勢を正したまま、礼をして軽く、にこやかに笑みを作る。

まともに社長の顔を見るのは、大変な作業だ。社長からあの夜のことを切り出してくれさえしたら、なかったことにして欲しいと言って、これまで築いてきた関係に戻れるのだが、何も言わずに視線だけを送ってくる社長に、混乱している。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る