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「本日のスケジュールです」


今日も同じようにスケジュールを社長に伝える。今日も朝から夜までぎっしりと予定が詰まっていたが、そんな中でも、今日はいい気分転換になりそうな会食の予定が入っていた。社内に居るより外に出た方が、気分が変わっていい。


「サクラ物産会長ご夫妻との会食ですが、予定の変更はございません」

「分かった」


サクラ物産の会長ご夫妻は、前社長、つまり会長の友人だ。会長の息子である五代真弥を可愛がり、プライベートでこのように食事をしている。子供扱いされる社長を見られるのは、サクラ物産会長ご夫妻と一緒の時だけだ。


「では、外に出てまいります」

「いってらっしゃい」


秘書課に報告をして、社長室に戻る。会食は神楽坂の清野 (きよの)で懐石料理を食べるのだが、何よりそれが楽しみで、まともなご飯にありつけることも、嬉しい。

社長室に行くと、社長は支度を済ませて、ソファに座っていた。


「お待たせいたしました。お車の用意が出来ております」

「分かった」


立ち上がった社長を見ると、ブルーのネクタイをしていた。それを見て私は、


「奥様は赤がお好きでございます。ネクタイを交換なさってください」


ネクタイは、どんなことにも対応出来るように、数本準備をしてある。私は、書棚の下にある引き出しを開けて、ネクタイを選ぶ。相手先の好みを熟知して伝えるのも、秘書の大事な仕事だ。私の手帳には、そういった好みがびっしりと書き込まれていて、秘書としての私の財産だ。


「分かった」

「失礼します」


社長がネクタイを取り、私は社長の前に立つ。ネクタイを首に掛けるとき、私がかけやすいようにと少し屈んでくれる。小さな気遣いだけど、涎が出そうなほど嬉しい。少しジャンプして、抱きつきたい衝動を堪えるのが大変。いけない、最近変態の度合いが増していると、弥生に言われたばかりだった。

ネクタイを首にかけ、素早くネクタイを結ぶ。


(めったにないネクタイ結び。堪らなくいい)


悶絶するほどやりたかったネクタイを結んでいたが、やっぱりあの夜のことがあってからは、調子が狂う。感じる視線が熱い。何も言わないのが社長の思いやりなのか、全く何も言わないし、態度にも出さない。私と違って、ゆきずりの行為と割り切っているのだ。そうとしか思えない。

ネクタイの結び目を軽く押さえ、顔を少し上に向ける。いつもは合わない社長と視線がぶつかる。最近、社長の視線を感じることが多い。


「やはり顔色が悪い」


私の顎をくいっと上げた。一瞬キスをされるのかと思った。びっくりしたのは言うまでもない。

秘書課でも言われていて、自分でも自覚している具合の悪さ。だけど、倒れるほどの具合の悪さじゃない。ただ、胃が痛むだけ。


「体調は悪くございません。ご心配いただき恐縮です」


鼓動が激しく打って、胃よりも心臓に良くない。

返してくれる言葉はなく、ただじっと見られる。やめて、気絶しそうだから。


「お、お時間です」


なんとか、社長の魔の手を払いのける。

向けられる視線が熱くて、とろけてしまいそう。

玄関に横付けされている、黒塗りの社長車の前に、斎藤さんが立って待っていた。


「お待たせしました」


斎藤さんがドアを開け社長が乗り込むと、私は助手席に乗って車は走り出した。

車の中でもやることはある。神楽坂までは約30分。ゲストよりも先に行っていなくてはならない。


「奥様は最近、膝を悪くなさったようですので、いつもの和室をダイニングテーブル使用にしていただきたいと、お願いしてあります」

「分かった」

「それから、お薬をお飲みになっていらっしゃいますので、乾杯はお水になるかと思います」

「分かった」

「お昼の会食が終わりましたら、その足で先日個展を開かれた光和産業、元会長の個展を銀座のギャラリーにて拝見しにまいります。ご進物は、お好きなチョコレートをご用意しております」

「分かった」


一通り伝えると、手帳を見て、再度確認をする。タブレットやスマートフォンも使いこなしているが、すぐにメモを取る時にはやはり手帳が便利だ。

秘書になりたての頃は、下を向いて文字を読んでいると車酔いをしたものだが、今ではまったく酔うこともなくて、人間の身体は適応するように出来ていると、感心したものだ。

手帳をバッグしまう時に、そっと薬を出す。

今の社長は、私の体調に過敏に反応してしまう。社長に分からないように、口に錠剤を入れると舐めて溶かした。苦さが口の中に広がり、顔が歪む。

胃の痛みは増すばかりで、最近では下痢も続いていて、電車に乗るのが怖いくらいの状態が続いていた。薬を必要以上に飲んでしまっているが、痛みを出さないためには仕方がない。

自己診断だけど、きっと過敏性の胃腸炎だろうと勝手に思っている。



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