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「……!!」

「元気そうで何よりだ」


びっくりして、縁石に足をとられた私は転びそうになった。すると、社長が腰をぐっと引き寄せて転ぶのを阻止してくれた。いやだ、何て格好がいいのだろう、うっとりしてしまう。社長だったらおねだりしなくても、私がやって欲しいシチュエーションを、スマートにやってくれるに違いない。いや、そんなことを思っている場合じゃない。問題は、どうしてここにいるかということだ。


「しゃ、社長?」

「風邪のわりには、大胆な服装だな」


上下タオル地のセットアップの室内着で上はパーカー、下は太腿を大胆に出したショートパンツだった。隠したくても隠せず、ただもじもじするばかりだ。すぐに帰るからこれくらいで大丈夫だろうと思っていたが、思わぬ遭遇者に恥ずかしくなる。


「あ、まあ……」


社長はスーツのジャケットを脱いで、私のあらわになった太腿を隠すように、腰に巻いて袖を結ぶ。若い男には到底出来ない業だ。一体何人の女にそんなことをして来たのだろう。私は最初で最後の女でありたいけど、そんなキザなことをされたら、更に好きになってしまう。


「すみません……」


化粧もしていない素顔のままで、穴があったら入りたい心境だった。だけど、自宅にまで訪ねて来てくれた社長を、帰ってもらうわけにいかない。社交辞令的だけど、お茶に誘ってみる。


「あの、お茶でも……あ、いや、そのへんのカフェで」


散らかった部屋を思い出して、社長を家に上げられるはずもなく、違う場所を言った。


「そのスタイルでか?」

「えっと、その……ダメですね。すみません!! どうしても顔を見せられなくて、申し訳ありません!!」


私は素直に謝った。明日はマスクでもして、変装をして出社するつもりだったが、まさかの社長登場に謝るしかない。


「その様子だと、風邪もたいしたことが無いようだ。安心したよ」


社長はなんと笑ってそう言った。いつもの営業スマイルじゃない。ほんとうに笑っている顔だ。仮病だと分かって心配している。お金を払ったって見られない笑った顔が、私に向けてタダで見られるなんて、もうどうにかなってしまいそうだ。ほんとうにずるい。


「社長が、その……居眠りした私がいけないのですが、その、起こして下さればこんなことには……」


つい文句を言ってしまった。それなのに社長はすました顔で、


「気持ちよさそうに眠っていたから、そっとしておいたんだ。それまでだが?」


と言った。


「あの……いつから、その……」


秘書デスクの前に座っていたのか聞きたかった。もごもごして聞けない私に、


「コーヒーを飲みたくて、君を何度呼んでも返事がなくてな。どうしたのかと様子を見に行ったら、気持ちよさそうに眠っていたわけだ」

「はぁ……申し訳ありません」

「そこまでの睡眠不足にしてしまった私に責任がある。上司として失格だな、悪かった」

「とんでもないです」


ねえ、私いま社長としゃべってるわよね。仕事以外の話題で話したことないんだけど。いつも妄想の中の社長は、私に甘くておしゃべりな私の話をずっと聞いてくれているけど、今は妄想中じゃなくて、現実。ジャケットを脱いだベストの姿にやられそう。


「可愛い寝顔だった」

「は!?」


今なんと言いました? その言葉にクラクラして卒倒しそうだ。弥生じゃないけど、その言葉だけでいっちゃいそう。


「明日はちゃんと出勤しなさい。いいね」

「は、は、はい!」

「それと、夜に女性がそんな姿で歩くんじゃない。男の目があることを忘れずに」

「すみません……」

「さあ、入りなさい」

「社長こそ、お先に」

「君を残して帰るなんて、出来るわけないだろう?」


沙耶と名前を呼ばれる日を、どれだけ夢見てきたか知れない。でも「君」ってものすごく素敵。「おまえ」と呼ばないところが、社長の品性を物語っているわ。

ヤバイ、社長の目が優しい。私の身長で見上げることが出来るのは、社長だけだ。185cm。それが社長の身長。その社長が私を見下ろして、見つめている。抱きつきたい衝動を必死で抑える。

可愛いなどと言われ、舞い上がっている状態で、私は何をしでかすかわからない。自分のことが一番信用できないので、ここは早く退散した方が得策と考える。


「すみませんでした。明日……」

「分かった」


社長を残す後ろめたさと、いつまでも見ていたいのとで、何度も振り返りながらマンションに入った。

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