6

弥生は何かと気にかけてくれて、何度か様子を聞いてきていたが、全く変化がないまま、日々だけが過ぎていった。

変わらずの激務で、あの時の事を考えることは少なくなったが、今度は苛立ちが占める割合が多くなっていた。

何も聞いてこない、言ってもこない社長に、男らしくないと怒っていた。私のうぬぼれかもしれないけれど、視線を感じたり、私に対して接触が多くなった気がする。でもそんなことを深く考える暇もないほど、仕事に追われていた。

記念の贈り物、お祝い、海外の取引先との食事会に渡す手土産など、怒涛の如く押し寄せている。


「お腹が空いた……」


昼も時間がなく、カフェでパンを一つ食べただけで、それ以降何も食べていない。

寝不足が重なって、コーヒーばかりが増えていた。その寝不足も社長のせいだ。瞼を閉じると、社長が上から熱い視線で見つめる顔が浮かび、はっきりしない出来事を再び思い起こさせるからだ。


「ダメだ、寝ちゃう」


パソコンのキーを打つ手が止まり、目が閉じてしまう。こんなことは今までになくて、どうしても眠気を追い出せない。一体、どうしたというのだろう。生理の時だって食欲は増すけど、眠気はない。ミントのタブレットを食べて氷水を飲んでも、眠気が覚めるのは一瞬で、すぐに瞼が閉じ始める。


「やばい、本当にやばい」


一旦、席から立って誰もいなくなった役員フロアを歩く。

少しして席に戻り、書類に目を通していたが、何度も意識を飛ばしてしまった。

しかし散歩くらいでは、眠気は退治出来なかった。


「い……た……」


寝違えでもしたように首が痛い。首を起こそうにも腕がしびれて、どうにもならない。


「いたたた……」


痺れの原因だった首を少し持ち上げ、腕の回復をフリーズして待っていると、目を閉じたままの私に、恋しいような、懐かしいような香りが鼻をかすめた。

どこかで嗅いだことがある香り。そうか、社長がつけている香水と同じだ。とうとう夢に匂いまで、感じるようになってしまったらしい。特殊な能力まで備わってしまって、ますます嫁にいけなくなるじゃないか。

ああ、でも社長に抱かれているみたいで、なんていい気分なの?

背中全体に感じる温かなもの。一体なに? 動けるようになった身体を起こして、背中にかかっているものを掴むと、手触りのいいジャケット。ジャケット?


「……ん?」


はっきりしない頭で判断できず、暫く眺めていた。


「起きたか?」


一瞬で状況が分かった。怖い、恐怖映画の様だ。声のする方を見たら呪われるかもしれない。ばか、そんなことを言っている場合じゃない。


「おはよう」

「申し訳ございません!!」


勢いよく立ち上がり、何度も頭を下げる。起きがけにぶんぶんと頭を振ったせいで立ちくらみを起こす。


「あ……」

「大丈夫か?」


ふらりと倒れそうになった私の身体を、支えてくれる社長。


「急に立ち上がるからだ」


頭は真っ白、何も言えない。


「コーヒーでも飲むか?」

「……滅相もございません……」


消え入りそうな声で答える。言い訳は出来ない。さて、どうしよう。冷静沈着な仕事ぶりを売りにする私は、社長のジャケットを抱きしめて立ち尽くす。

ここは社長室前の秘書デスクで、社長はデスクの前に座っていた。どういうこと? 

予備の椅子などあるわけもなく、何処から持って来たのだろう。ふと見ると、会議室にあった椅子と似ているが、まさかと思うけど、わざわざ持って来たのだろうか。


「ずっと残業続きで寝不足だったのだろう? 申し訳なかったな」

「……勿体ないお言葉……」


大人になって泣きたくなったのは初めてだ。自分の馬鹿さ加減に、頭に来ている。こつんと自分の頭を叩いた。




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