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社長のマンションを出てタクシーをつかまえる。朝っぱらから血相を変えて、髪を振り乱した女が乗ってくれば、運転手はさぞ驚いたことだろう。まるで貞子だ。
座席に座って、化粧ポーチから鏡を取り出して見てると、悲惨な顔が鏡に写っていた。ティッシュで顔を押さえて、ぼさぼさの髪を手櫛で整えゴムで縛る。
こんな状態の女をよく乗せた物だと、ちらりと運転手を見た。
おつりも受け取らずにマンションについて、一目散に家に入ると、服を投げ捨てシャワーを浴びる。風呂に入りながら歯を磨き、素っ裸で風呂から出ると、ベッドの上に脱ぎ散らかしていたパジャマをとりあえず着る。
乾かすのに時間のかかる、長い髪をドライヤーで乾かしながら、スケジュールを手帳とスマホをチェックした。
「今は考えるのはよそう。失敗しそうだから」
昨夜何があったのか、私はまったく記憶にない。
なぜ何かあったと確実に分かるのか、身体に残った痕が教えてくれた。点々と数か所、赤い痕が残されている。風呂に入ると丸わかりで、恥ずかしさで一杯。
テレビを点けて時間を確認しながら、朝のニュースを見る。だが、頭になど入ってくるわけもなく、社長の顔が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。
「もう、無理」
家を出る時間のタイムリミットだ。いつもまとめている髪は、乾かしてブローをするのが精一杯。クローゼットからスーツを出して着替えると、バッグをひったくるようにして持った。
「遅刻しそう」
自宅から駅まで走り、駅から会社まで走った。
幸いにして遅刻を免れたが、駆け込むようにして秘書課に出勤。その時はすでに余裕のあるいつもの私じゃなかった。ドアを開けると、秘書課の同僚が一斉に私を見た。
「お、おはようございます」
おどおどとしてしまうのは、後ろめたいことがあったからだ。
『お、おはようございます』
私の顔が必死そうに見えたのか、秘書課の面々は戸惑いの色を隠せない。いつも澄まして出来る女を演じている私が、必死そうでどう対応したらいいか分からないのだろう。平常心、平常心と言い聞かせたが、慌てているのは目に見えている。乱れた髪をなでつつ、澄ました顔を作る。
「水越さんが駆け込み出勤なんて珍しいですね、と言うか、初めてじゃないですか?」
「そ、そうかな?」
「はい……」
「ごめん、新聞をいつものようにしてくれるかな?」
頼れる神原さんに頼む。
「はい」
お願いしなくちゃどうにもこうにも間に合わない。スケジュールボードに、今日の予定を書きこみ確認。その側では、神原さんが新聞を整えてホチキス止めをしてくれている。自分がとんでもないことをしたのに、同僚はちゃんと仕事を分担してくれるなんて、ありがたくて涙がでちゃう。
「水越さん出来ました」
「ありがとう、助かったわ」
キレイに止められた新聞を、半分に畳んでまとめて持ち物チェックをしていると、神原さんがドキリとするようなことを言った。
「髪を下ろしているの初めてじゃないですか? 私、初めて見たような気がします」
神原さんは目ざとい。いや、毎日アップスタイルにしていれば分るか。
「そ、そうかな? 寝坊しちゃって」
髪を乾かすのが精一杯で、まとめている時間がなかった。一週間のスーツをコーディネートしてクローゼットにかけておいて良かった。着て行く服まで考えていたら、完全に遅刻だった。
顔前に降りてくる髪を耳にかけ、髪を撫でつける。シチュエーションが違えば長い髪はとってもいい武器になるけど、業務には邪魔だ。しかしまとめている時間が今はない。
「水越さんが寝坊? 雨でも降るんじゃないですか?」
「え? 雨?」
「冗談ですよぅ、やだぁ水越さん」
おもわず外を見てしまうが、外は晴天で雨が降る気配すらない。すでに冗談も通じない程、私はテンパっているようだ。
「ずっと、寝不足だったからかな?」
「そうですよねえ、社長の秘書は水越さんじゃないと務まらないです」
私が社長の秘書になってから、残業が多くなったと部長は言った。仕事が出来れば社長に負担をかけることもなく、早く帰ることが出来る。仕事だけじゃなくマナーや作法を学び、社長に恥をかかせない秘書になろうと、一生懸命だった。
たまに褒められれば嬉しくて更に頑張った。そして、気が付いたら社長を心から追い出させない程好きになっていた。
だけど、こんなことになるとは想像もしていなかった。社長と顔を合わせるのが恥ずかしい。
しかし、そうは言ってられない。社長が待っている。
「社長室に行ってまいります」
「お願いします」
階段を上がって役員室があるフロアに行く。役員しかいないフロアは、まるで休日に出勤しているような静けさだ。
「よし」
デスクにバッグを置いて呼吸を整え、ドアをノックする前にもう一度、深呼吸をする。
「平常心、平常心」
何かあったのは確実だ。それは身体が証明している。社長はどんな反応をするのか気になる。でも、自分から「昨日の夜、セックスしましたか?」 なんて聞けるはずもなく、何を言われても驚かない。そう決めてドアをノックした。
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