第2話 聖母の微笑み

 ジャックは顔を洗った。鏡の中で、短く整えた顎髭に貯まる雫が落ちるのを見届けた。髪同様に白いものが混じった髭をジョリジョリと触ってもう一度タオルで拭き取った。


 みんなとは遅れて食堂へ向かうと、いい匂いが漂ってくる。廊下まで香るふんわりと甘い匂いに食欲をそそられる。


 おっと、この匂いはシチューか?


 シスターの料理は本当に美味いんだ。見た目は……うん。まあ、アレだけど。


 食堂の木扉を開けると、みんなはすでに食べ始めていた。


「父さん、先に食べてるよ! 今日の夕飯は僕も仕込みだけ手伝ったんだ! これおいしいよ! とくにこの……顔洗った?」


 カインは思い出したように嫌そうな顔をした。


「洗ったよ。ゴリゴリにな。目玉が取れるかと思ったよ」


 ジャックはカインの隣りの席に座った。ジャックの席は楕円形に伸びる食卓テーブルの上座だ。


 そこからは年齢別に下座へと並んでいる。ミカエルは別だ。離乳食は食べさせてるのだが、食後のミルクは欠かさないのだ。


 ジャックの隣で、シスターの豊満な乳に埋もれて哺乳瓶からミルクを飲んでいる。そろそろミルク離れさせなきゃな。


 ……でも、心底うらやましいね。ジャックは心の中で呟く。


 ジャックはテーブルに用意されたシチューの白さの中に浮かぶ緑色の四角い物体をつついた。見た目はスライムだが、子供たちはなんの抵抗もなく食べている。ジャックは不思議に思う。今回のこれはなんだ? 恐る恐るフォークに突き刺して口へ運んだ。


 こ、この味は……ジ、ジャガイモだ。調理の過程で、ジャガイモが緑色になることなどあるだろうか? 自然界では有り得ないが、シスター・リースの料理ではたまにあるのだ。


「ワーッハッハッハ! この肉はぁ! おれ様のぉものだー!」


 赤い髪がウニのようにピンと立っている男の子が、フォークに肉を突き刺したままテーブルに片足を乗せて高らかに宣言する。


 未だ脳裏の中で、ぶっ飛んだ海賊ごっこのキャプテンにでもなりきっているだろうことは明らかだ。


「ちょっとぉ! テーブルに足なんか乗せないでよっ! バカルディ!」


 ルディの正面に座っているニーナはテーブルを叩いて立ち上がり言った。


 分厚い眼鏡をクイッと上げて、黒い髪を二つのお団子にしているシャオ・ハンも続く。


「そうですよ! 汚いです! みんなで使うものなのですよ!」


 子供たちのやり取りを見ていたジャックはため息をついた。


「ル……」


「ルディ・リン。テーブルに足を乗せてはいけませんよ」


 シスター・リースが凛とした口調で言うとその場の空気が凍った。シスター・リースの笑顔がいつもと違う。桃色の瞳も暗く静かな威圧感を放っている。


 フルネームで名前を呼ぶ時のシスター・リースには誰も逆らえない。誰一人だ。ジャックでさえも。


 ルディは青い顔で、絆創膏を真一文字に貼った鼻をカリカリかきながら大人しく席に座った。


 ジャックは“ル”で止まった口に、まるで彫刻のような無骨な形に切り刻まれたニンジンを放り込んだ。〈あ、うまい〉



 食事が終わると同時に、ルディの相棒でトレードマークの青い帽子を反対に被ったビリーは、一目散に食堂から逃げていった。


「あーっ! こらっ! 待ちなさいよっ!」


 ニーナは食器を持ったまま言った。その様子を見ていたシャオがやれやれと肩を上げて言った。


「まんまと逃げられましたね」


「まったくっ! アイツらったらぁっ!」


 シスター・リースは何も言わず、微笑みながらルディとビリーのそのままになっている食器を重ねて、古いキッチンへと向かった。その後にみんながゾロゾロと続いていく。


 片付けを一通り手伝ったニーナとシャオが庭に出た頃には、ルディとビリーは木彫りの舟を池に浮かべて、その側で海賊ごっこをして遊んでいた。二人は木の棒を剣に見立てて打ち合っている。


「ちょっとっ! あんたたちっ! 私たちも入れなさいよっ!」


 ニーナとシャオは木の棒を手に取ると、走っていった。


 その様子を書斎の窓越しに微笑ましく見ているジャックとシスター・リース。あの四人はみんな八歳で、いつも一緒に遊んでいる。よほど気が合うのだろう。


「このまま……子供たちが大人になるまで見届けられるといいですね」


 シスター・リースは食後の紅茶を二人分入れて、ジャックに差し出した。


 ジャックは受け取ると、顎をさすり、しみじみ言った。


「ああ、ありがとう。ここを作ったのは俗世から切り離すためじゃないからな。だが……いや、うん……いつかは子供たちは巣立っていくんだろうな」


 シスター・リースは後ろ手に組んで、少しだけ意地悪そうに覗き込んで言った。


「お父さん役はどうですか?」


「うん……正直、未だに戸惑うことばかりだよ。元々、子供は苦手だからな。でも……うーん、いい奴らなんだよな」


 頭をかきながら照れくさそうにジャックは言うと、シスター・リースは嬉しそうにクスリと笑い答える。


「ええ、そうですね」


 ジャックはその一瞬を記憶することにした。テーマは“聖母の微笑み”だ。これに勝る絵なんて他にあるだろうか? 〈いや、ないね。断言する〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る