ぴょんすけ (ねこやなぎ会#4 ウサギ)
寝こけていた僕は、深い眠りの中、誰かの声を聞いていた。
「もー、お兄ちゃんったらいつまで寝てるの!」
よく聞いた声だ。妹の声。しかし、いつもよりもクリアに聞こえる気がする。耳を立てて彼女の位置を探る。
妹は僕のベッドの横にいるようだ……ん、耳を立てる?
そういえばさっきから変な匂いがする。美味しそうで、でも草みたいな匂い。お腹空いた。
「ねーお兄ちゃん、おきないの? もう出かけるからね!」
妹の声が遠ざかっていく。階段を降りていく足音を僕は全身で感じていた。
やっぱり何か変だ。目を開けると、そこは見慣れたベッドの上ではなかった。
僕が寝そべっていたのは敷かれたマットの上で、顔の近くには先ほど美味しそうな匂いを放っていた牧草が置かれている。給水用のペットボトルが取りつけられた堅牢な金網。そしてその奥にはようやく見慣れた僕の部屋が広がっていた。
ま、まさか……。
見づらい。すごく見づらい。視界がいつもと何か違うのだ。体を捻ってようやく確認すると、僕は確信を得た。
茶色いふわふわの毛。大きな後ろ足。きっと頭にも大きな耳がついている。
そう、僕はウサギになってしまったのだ。
僕がウサギになってから数時間経った。
ケージの中というのはつくづく狭い。僕……いや、このウサギの名前はぴょんすけだ。三年前から僕が買っているウサギで、ペットが欲しくて僕に部屋の中でならと許されたのがウサギだったのだ。そういういきさつでこの部屋に住んでいるのだから、ケージももちろん狭い。
ぴょんすけは三年もこんなところに閉じ込められていたのか。今度は僕が……?
いや、怖いことを考えるのはよそう。もしぴょんすけと僕が入れ替わったのなら戻る方法だってあるはず。試し……ってケージの中からじゃ無理か。
あーあ、お腹すいた。干し草食べよ。
ただの草なんだけど、ウサギの味覚だからかやたらおいしいんだ。ずっと食べられる。
誰か二階に上がってきた。僕の部屋の前だな。ノックの音? ベッドの上のぴょ……僕は寝ているのに、誰だろ。
「ゆうたくん? どうしてきてくれなかったの? 具合悪いの?」
聞き覚えのある声だ。だれだっけ。
「開けるよ〜」
えりちゃんだ! えりちゃん、僕だよ! ゆうただよ!
「ゆうたくん、やっぱり具合悪いんだ。……あ、ぴょんすけ。どうしたのそんなに壁にぶつかって」
やった〜! えりちゃんだ!
今日はいつもとなんか違うなー。あ、髪巻いてるんだ。なんか紙袋を持ってるけどなんだろう。
「さいごだし、な……」
えりちゃんの手がケージに近づいてきて、僕は開けられた扉からそのままえりちゃんに飛びつく。
えりちゃんだえりちゃんだ〜! わーい!
「わっぴょんすけ! 今日はいつもより元気だね〜よしよし〜!」
えりちゃんの手が優しく僕の頭を撫でる。えへへへへもっと撫でて〜!
……ハッ! これじゃ完全にただのウサギじゃないか。僕は人間なんだ。おい、おい、起きろ僕!
ベッドの上の僕は動いている様子がない。寝息は聞こえてくるから寝てるんだろうけど。というか寝すぎじゃないか。
えりちゃんの腕からすり抜けてベッドに飛び乗ると、そこには僕が寝ていた。……自分の寝顔ってあんまり見たいものじゃないな。
「ぴょんすけもゆうたくんのことが心配?」
えりちゃんが僕を抱き上げてベッドの端に座ると、彼女は僕に語りかけるように話し始めた。
「私ね、明日引っ越しちゃうの。ゆうたくんには言えなかったんだ。だから今日、約束したの……でもこなくて。何かあったかなって心配になっちゃって。お家を尋ねたら部屋から出てこないっていうでしょ。だから最後にお別れだけでも言いたくてこうやって入れてもらったんだけど……」
ちょっと待って。約束忘れてた? え? えりちゃんが引っ越す? なんで? あれ、さっき最後って言ってたの。そういうこと? え?
昨日まで毎日のように一緒に登校して帰って、宿題をやったり、たまに自転車で出かけたり。僕の毎日にはいつもえりちゃんがいた。幼稚園の頃からだ。中学になった今まで、ずっと。
「言いたかったんだ、最後に。私、ずっとゆうたくんのことが好きだった。ずっと一緒に……でも、こんなんじゃ伝わらないね」
見上げるとえりちゃんの顔は悲しげな色をしていた。呆然としていた僕と目が合うと彼女はにっこり笑って、もう一度クシャクシャと僕を撫でた。
「ぴょんすけ、ゆうたくんのことをよろしくね。ゆうたくんね、宿題をやったのに忘れてきたり、私の荷物持ってあげる! って言ったかと思ったら転んだり……今日だって約束忘れてるでしょ。おっちょこちょいだから心配なの。それじゃ、私もう行くね。さようなら」
えりちゃんの暖かい腕が僕をケージの中に押し込めて、彼女が部屋を出ていく。
待って、待ってえりちゃん! 僕はこっち!! こっちが僕なんだ! 待って!
体当たりするとケージの扉が開いた。そっか、えりちゃんはたまに鍵を閉め忘れるんだっけ。僕はよく怒っていたけど今日は助かった。
ベッドに登った僕は寝ている僕の体の上に乗っかってみる。寝てる場合じゃない! えりちゃんにもう会えなくなっちゃう! ばか、ばか! おきろ!
長い間僕は僕の体の周りを回ったり匂いを嗅いでみたりしていたが、元には戻らない。
だけど不意に思い出した。僕は昨日、山程出た宿題を必死でやっていて、やっとのことで終わらせて寝ようとした時、ふとケージの中のぴょんすけと目があった。そしてこう呟いたのだ。
「いいなぁぴょんすけは。お前になれたら幸せなのに。あーあ、神様。ぴょんすけと僕を入れ替わらせてください〜!」
もちろん冗談。あれがまさか、ほんとに……?
神様、神様どうかお願いです。僕とぴょんすけを元の体に戻してください。あれはちょっとした思いつきだったんだ。ぴょんすけだって目が覚めても人間として生きていけるはずなんかない。それに僕はえりちゃんに伝えなきゃいけないことがある。
──神様!
そのとき、不思議な白い光が僕とぴょんすけを包み込んだ。
ガサガサという音。それと同時に何かがぶつかる感触。
「……っ。あれ? あ、僕……」
声が出る。戻ったんだ!
ぴょんすけは僕のベッドで巣作りでもしようとしているのか、穴を掘ろうとしていた。よかった、元気だ!
茶色の毛玉を抱き寄せてすりすりすると少し抵抗されたが、いつものぴょんすけだった。
「ぴょんすけ〜! ずっと寝てるから心配したよ〜! じゃなくて今はまず、えりちゃんだ!」
えりちゃんに伝えなきゃいけないことがある。"僕も君のことが好きだ"って。僕はぴょんすけをゲージに戻すと、部屋を飛び出して彼女の家へと駆け出したのだった。
「裕太、なににやにやしてるの?」
「え、ああ。ほらこれ、ぴょんすけの写真」
「あ、本当だ懐かしい〜! ぴょんすけ、可愛かったよね」
十五年前のアルバムの中に写る茶色い毛玉。まだ中学生だった僕が抱きかかえて、当時の絵里に撮ってもらったものだ。
「ぴょんすけといえば、少し不思議な事があったんだよね」
「不思議な事?」
「うん。私が引っ越しちゃう前日、裕太約束忘れて眠ってたでしょ。私心配になってお部屋に行ったんだけど、その時のぴょんすけ、私の話がわかってるような感じだった。ウサギというより人間っていうか……」
「そっか。絵里は分かってくれてたんだね」
「え?」
「こっちの話」
どういうこと? と詰めてくる絵里を適当にかわしながら僕はもう一度ぴょんすけの写真を見た。可愛かった茶色い毛玉。かなり昔に天に登ってしまったけれど、もしかしたらぴょんすけが僕と絵里を結びつけてくれたのかもしれないな。
そして絵里に聞こえないように、僕は小さく呟いた。
「ありがとう、ぴょんすけ」
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