月明かりの魔女 (ねこやなぎ会#3月)

 その人は月の出る夜にだけ現れた。


 こんこん、とノックの音が鳴る。

 その音を聞いて僕は作業をしていた手を止めて音の方へと目を向ける。

 部屋の扉ではなく窓へと向かった僕は、空を見上げて佇む後ろ姿を見つけて微笑んだ。

 窓を片方、ゆっくりと開けると夜のしっとりとした空気が部屋の中に広がってゆく。

「こんばんは」

 僕の声に応えるように彼女は振り返る。

 体のラインにあった触り心地の良さそうな黒衣、それと同じ色の手袋と編み上げられた靴、頭にかぶった大きなとんがり帽子、そしてまたがった箒が彼女が何者なのかを物語っていた。

 二階にある部屋の窓の前に浮いた彼女はいつものように窓枠に足をかけ僕は彼女の手を取って部屋の中へを招き入れる。

「魔女様は空を飛べて便利だね」

「……月明かりの魔女。さすがにおぼえてよね」

「はいはい、月明かりの魔女様。こんばんは」

「むぅ、こんばんは」

 少し拗ねた声を出した彼女は窓枠に座って足をパタパタさせている。

 彼女の瞳はその言葉のとおり月と同じ金色で、そしてその髪色も同じ色で綿菓子のように柔らかい。

 彼女が月明かりの魔女と僕に呼ばせているのは自称だが、僕はその呼び方に違和感を覚えたことはなかった。

 まだ拗ねている彼女をなだめるように帽子を撫でると、彼女は一層深く帽子を被りなおす。

「ごめんごめん。ちゃんと覚えてるよ。それで今日も、本が目的かい?」

「ほんとに? 怪しい……。あたらしい本、ある?」

「新しいのは増えていないかな」

「そう……じゃあ、今日はあれがいいわ」

 そう言って彼女が指さしたのは本棚の二段目の左から三番目に入っている新しめの小説だ。

『天使が舞い降りた日』という題名のそれは絵本を題材にした児童文学で、不幸な身の上でありながら神を信じて懸命に働く主人公の少女が絶望の淵に立たされた時、神の使いである天使が助けてくれるというよくある内容のものだ。

 なぜそんな話が好きなのかはよくわからないが、この本は彼女のお気に入りだった。

「もう何回も読んでるけど、これでいいのかい?」

「これがいいの」

 頑固な彼女に頷いて僕は本を手に取ると彼女の隣に座って初めのページを開く。

「昔々、あるところに……」

 そうやって月明かりの差す夜、彼女が訪ねる度に僕は小説を読み聞かせた。




 ある時期、雨が何週間も続くことがあった。

 その日の夜にも月が出ることはなく、月明かりの魔女が僕の部屋の窓をノックすることはない。

「今日もひとりか……」

 作業を進める手を妨げられない分仕事は進むが、それによって心が癒されることはない。

 執筆の手を止めて、僕は窓の外を眺める。

 空は暗い闇に落ち月ばかりか星すらすべて灰色の雲に覆われていた。

 彼女が今日来ないことはわかっているのに、どこかに金色の髪を靡かせた魔女の姿が見えないか探してしまう自分にうんざりして、茶を淹れに一階へと降りて行った。

 まだ夏前だからか、雨が降る日は少し肌寒い。お湯を沸かしている間、茶葉を棚から取り出そうとしたとき、棚の上に置いていたものを落としてしまった。

「……こんなの置いてたっけ」

 派手な音を立てて割れてしまったそれは小さな写真立てで、中には何の写真も入っていなかった。

「寝ぼけて飾ったりでもしたのかな」

 首をかしげながら割れたガラスを拾っていくうちにお湯が沸けた音がキッチンに響き渡る。

「いたっ……」

 火を止めないとと思った瞬間不注意で指を切ってしまった。傷から血が滲む。

 まったく今日は散々だ。怪我を増やさないように立ち上がって火を止めるともうお茶を淹れる気もなくなってしまった。

「今日はもう寝るか……」

 キッチンを片付けてベッドに入るとふと、彼女がなんで月の出る夜にしか現れないのかが気になってしまった。

 そういえば今まで理由を聞いたことがなかった。今度会ったときに聞いてみよう。

 僕はゆっくりと夢の世界に落ちていった。




 次の日の夜、久しぶりに晴れた空には満月が浮かんでいた。

「それで? そのあと女の子はどうなったの?」

「お父さんと幸せに暮らしたんだよ」

「よかったあ~」

 この前の本の続きを聞き終えた彼女は必ずこの質問をするが、僕の答えも決まっていた。

 物語の最後は病気の父親が元気になって主人公の少女と再会するところで終わっていてそのあとは描かれていないが、僕はそうなっていればいいなと思って彼女に話しているのだ。

 毎回変わらずに少女のことを心配する彼女の純粋さが愛らしくて、僕は微笑む。

「ふふ、月明かりの魔女様は優しいね」

「あたしは優しくないわ。この本を作ったひとが優しいの。それにあたし、もう一人優しいひとを知ってる」

「へえ、どんな人?」

「こんな人」

 彼女は僕に顔を近づけると、人差し指を僕の鼻につんと触れた。

 驚いて顔を引くと眼鏡がずれてしまって視界がぼやける。

 彼女の鈴のような笑い声が聞こえてくる。僕はどうやらかなり間抜けな格好になってしまったようだ。

 眼鏡を直して姿勢を正しても彼女はくすくすと笑い続けている。本当に楽しそうだ。

「まったく。大人をからかうものじゃないよ」

 髪をぐしゃぐしゃと撫でると彼女は少し恥ずかしそうに帽子を抱きしめる。

 こうしていると魔女ではなく年相応の少女のようだ。僕は目を細めると本を戻すために立ち上がった。

「そういえば、君はどうして月のある夜にだけ現れるの?」

 本棚に向かう僕に、その答えは返ってこない。

 不思議に思って振り向くと彼女は悲しそうな顔をして僕を見つめていた。

「どうし……」

「やっぱり、思い出せないのね」

 そう小さく呟いた彼女は月のように微笑んで、消えた。




 何が起こったのかわからなかった。でも確かにさっきまでそこにいた月明かりの魔女は忽然と姿を消していて、僕は部屋の中に一人きりだった。

 部屋の外に彼女の金色の髪が見えた気がして、僕は家を飛び出した。

 焦って本をもったまま走り出してしまったが、そんなことはもうどうでもよかった。

 なんで彼女があんなことを言ったのかわからない。けれどもう二度と会うことができないような気がして、後先を考えずに走る。

 彼女の姿が見えた場所の近くまで来ると、整地された場所に出た。

 一番奥に彼女の姿が見えた気がして追いかけたが、そこには文字が彫られた大きな石が置いてあるのみだった。

 石にかかった葉を避けると隠れた文字が露になった。

「リュンヌ……」

 その名前を僕は知っていた。忘れたくなかった、忘れてはいけなかった僕の最愛の娘の名。

「思い出したのね」

 顔を上げると、月明かりの魔女—―リュンヌがそこに立っていた。

「……僕は、僕が君を失ったときから、僕の時は止まっていたんだ」

 あの日、彼女を失ったあの日はハロウィンの夜だった。魔女の姿で友達のもとへと向かった彼女は、その道中事故で命を落としたのだ。

 考えてみれば彼女が夜にしか現れないのは当然のことだった。その日が美しい月が出ていた夜だったこともよく覚えている。

 唯一の家族だった彼女を失ってしまった僕はしばらく立ち直れなかった。小説を書く仕事も滞って、次第に生活も苦しくなっていった。

 写真立てに入った彼女の笑顔を見ると苦しくなるから写真だけ抜いて棚の上に置いておいたのも僕だ。

 そのころからだった、彼女が月明かりの魔女と言って現れたのは。

「僕、僕は……」

「お父さん、もう忘れていいんだよ。あたしは十分、あなたから優しさをもらったわ。あたし、ずっとお別れが言えなかったのが心残りだった。お父さんと一緒にいるのが楽しくて遅くなっちゃったけど。でもようやく言える。」

「嫌だ、僕は」

「さようならお父さん。幸せになってね」

 彼女が見せたその笑顔は空に輝く満月のように美しかった。

 僕の頬には熱いものが流れ、墓石にぽたぽたとシミを作った。

 ふいに手に持っていた本のことを思い出す。

 彼女にいつも話していたこの本の後日談は、僕が望んでいたことそのままだったんだ。

「そうか、あの話を読みたかったのは、僕のほうだったんだね」

 彼女の人生は終わってしまったが、僕の人生はまだ続いていく。心配してお別れをしに来てくれた彼女のために、僕はこれからどうやって生きればいいだろうか。


 空には美しい満月があたりを照らすように輝いていた。

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