夜 (ねこやなぎ会#2夜)

 ──夜が好きだ。




 仕事終わりの夜が好きだ。


 暗い夜道の中、街が寝静まっても煌々と輝くコンビニで、冷えたビールと焼き鳥を買って帰る。疲れた体に注がれる冷たい液体がごくごくと音を立てて流れていき、冷えた喉に暖かい肉を詰め込んでいく、その繰り返し。次第に熱いのか冷たいのかわからなくなって、どうでもいいなという気持ちになる。とにかく今はうまいものを食っているから、僕は幸せだ。その至高の時間はいつだって僕の疲れを吹き飛ばしてくれる。そんな仕事終わりの夜が好きだ。




 夏の夜が好きだ。


 開け放した窓から入ってくる風が、蒸し暑くて汗ばんだ肌を撫でる。氷がカチリと心地よい音を鳴らし、そこに注がれた苦いコーヒーを飲みながら、積み重なった文庫本の山を少しずつ減らしていく。時にはミステリ、時にはファンタジーの作品を読みながら世界に浸る。読み終わってからとっくに氷が溶けて薄くなってしまったコーヒーを飲み干して、汗を流しにシャワーを浴びる。流した後またすぐに暑さで汗ばんでしまうが、なぜかそれも心地いい。そんな夏の夜が好きだ。




 彼女と一緒にいる夜が好きだ。


 彼女の明るい栗色の髪が部屋の明かりに照らされて、少し赤みがかって見えるのが綺麗で、触るとその頬も赤くなる。その仕草が愛おしくて、この夜がいつまでも続けばいいのにって思う。昼間は適当に栄養食で済ましてしまうのを知っている彼女はいつも丁寧に夜ご飯を作ってくれる。夜ご飯はいつも暖かく素朴でおいしくて、どんな高級料理よりもこの味が味わえれば他に何もいらないなと思える。たまに一緒に作ったりもして、僕は餃子を包むのが好きで、それだけは文句を言わずに任せてくれる。そんな彼女と一緒にいる夜が好きだ。




 眠れない日の夜が好きだ。


 あれこれ考えることもある。つまらないことで失敗して、もう何もかもがうまくいかないと思い込んで、今後が不安になったり。そういう時はココアを作ってみたりする。子供のころに眠れなくて泣いていると母がいつも作ってくれたのを思い出すからだ。出来上がったものはきっと違うものだけれど、あたたかいココアを飲んでいると少し気もちが楽になって、ああなんだこんなことでとなったりする。そして知らないうちに眠りに落ちていく。そんな眠れない日の夜が好きだ。





 一日一回必ず訪れる、夜が好きだ。


 どんなに辛いことがあっても、どんなに楽しいことがあっても、誰にでも等しく夜はやってくる。季節によって長さは変わるが、それは誤差の範囲内で、夜が来なくなるということはない。その日一日がすべてだめでも夜が来て、寝ることができれば、新しい気持ちで次の朝を迎えられる。そんな一日一回必ず訪れる、夜が好きだ。









 夜が失われたのは、突然のことだった。




 突如として真っ白な光が視界を覆ったその時から、僕は夜を失った。

 その時は夜だった。帰宅しようとしていた時のことだ。その光が僕を襲い、目が慣れるといつもの帰り道は白みがかった昼の景色になっていて、夢を見ているのかと思った。そして何時間経っても、何日経っても、夜が再び訪れることはなかった。


 夜がなくなった以外にも変わったことはあった。その日を境に僕はものを食べなくてもいい体になった。食べることはできるが、お腹が空くわけでもない。怪我をしてもすぐに治る。痛みはあるが、血は出ない。いわゆる不死というやつだ。まだ何年かしか経っていないだろうから、不老かどうかはわからないが、別段体が衰えているということはなかった。


 そしてもう一つ。僕以外の人間は跡形もなく消え去っていた。


 一緒に暮らしていた彼女も、コンビニで不愛想に接客していた店員も、さっきまでそこにいたようなものを残したまま、誰も彼もが消え去っていた。知っている限りの場所を探したり、建物を覗いてみたりしたが、どこにも誰もいなかった。僕は絶望したが、死なない体では死を選ぶことはできない。悲しみは過ぎ去っていく時間が少しずつ癒し、そのうちもう誰にも会えないのだということを体の芯から理解した。


 光はどこからやってきたのかわからない。夜がなくなったのも僕がいた場所だけなのか、それとも世界中すべてなのかもわからなかった。しかしみんながいなくなった時点でテレビは放送されなくなったし、ネットで情報を得ようにも、誰の発信もなかった。きっと世界中僕以外はいなくなってしまったのだろう。次第に電気も止まり、情報を得る方法は完全に失われてしまった。


 なんでそんなことになったのかもわからない。聞く人間はいないからだ。地球の自転が止まった? 宇宙人? 異世界からの侵略? などと原因を考えたこともあったが、僕は科学者でも宗教の偉い人でも、ましてや魔法使いでも何でもない。そんな男が一人夜のない世界に放り出されて、そうなった理由なんかわかるはずもない。僕は一人で死ななくて、世界には夜が来なくなったという事実だけ知っていた。


 人がいないとわかっているならと図書館に入り込んで本を読んだ。最初はとても楽しかったが誰とも感想を共有できないことに気づいたときにやめてしまった。自転車で行けるところまで行ってみたりもしたが、なんだかんだ体は疲れるし、知らないところまで行って自分の家に戻れなかった時のことを考えるとあまり遠くまではいけなかった。ショッピングセンターに行ってみたこともあった。しかし電気がついていない店はどこか不気味で、夜があった頃の罪悪感でそれ以上そこにいる気にもなれなかった。誰にも迷惑をかけない暇つぶしならと木彫りでもしてみようかとも思ったが道具を集めるところで挫折した。ほかにもいろいろ試してみたが、そのどれもが続けているうちに飽きてしまってたりで今に至る。


 そんな昼の世界で唯一楽しいことがあるとすれば夢を見ることだった。起きていたら会話する相手がいなくても、夢の中なら誰かに会うことだって叶う。僕が見る夢はいつも夜で、夢の中の僕は現実よりずっと自由で、楽しそうで、生き生きとしている。


 いつまでも明るくあり続ける世界はどこか墓場のようで、夢の中にいるみたいだ。もしかしたらこれも夢で、こんな恐ろしい世界も、夜の続きなのかもしれない。







 眠くなると自分の部屋に戻ってきてベッドに横たわる。結構前に時計は止まってしまって時間がわからないので今が本当に昼なのか夜なのかはわからない。しかし光が当たらない日陰に来ると幾分か夜を感じられるのだ。


 最近は眠る時間が長くなっているような気がしている。それも体感でしかないが、もしかしたらそのうち目覚めなくなるのかもしれない。死ぬことができないのなら、せめて楽しい夜の夢の中にずっといたい。早くそうなればいいなと思う。


 カーテンを閉めて暖かい掛け布団をかける。今日見る夢は家族と一緒に夜ご飯を食べている夢がいい、そんなことを考えながら、目をつむった。



そうして今日も僕は、夜を求めて夢を見る──。

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