第9話 思い出話

「ただいま~」

「おかえりなさい、美琴みこと


 帰って来たのは泣いてからだったから、午後六時過ぎだった。


 母さんが仕事で着ているスーツ姿でキッチンに立っているのが見える。

 その姿を見るのは久しぶりに見たかもしれない。


 でも、うちが泣いたことには気づいていない。

 わたしは急いでマスクをごみ箱に捨てて、洗面所で手洗いとうがいをしてからキッチンに駆け込んだ。


「母さん、うちは風呂の掃除をするから、ご飯をお願いできる?」

「うん。お願い。風呂掃除が終わったら、冬樹ふゆきさんを呼んできて。時間を教えに行って」


 仕事に没頭して時間を忘れてしまうこともあるから、そのときは分担して家事をこなしたりしている。



 先に浴室の掃除をする前にバスマットに置いて、浴室の掃除をしていく。

 洗剤とスポンジを片手に浴槽と壁、床を掃除してからシャワーで泡を落としていく。


 それから浴槽の栓をして、給湯の電源を入れてお湯はりの設定を始めていく。

 その上から浴槽に蛇口のところ以外にフタを閉じて、浴室の電気を消してから父さんの書斎に向かう。



 暮らしている一軒家に引っ越してきたのはうちが小学校に入学する年の冬で、もう十年以上が経っている。

 ここに暮らす前は近所の2DKのアパートに暮らしていたらしい、記憶がおぼろげになっていることが多かった。


 でも、そのときに撮った写真があるけど、いまはとても楽しいことが起きていることがあったんだ。

 それを聞いたときは一人部屋ができるってことでとても喜んでいたような気がする。



 父さんの書斎は二階の一番奥の広い部屋を使っている。

 この部屋には引っ越してきてからあまり入ったことがない。


 父さんの仕事をあまり覗くのはいけないと考えてたんだ。

 しかも、仕事中の父さんを邪魔するのは怖いし。

 ドアをノックしていたけど、向こう側からの反応がない。





 それからしばらくして声が聞こえてきた。


「入っていいよ」


 父さんの声が聞こえてきた。

 わたしはドアを開けて部屋に入って、父さんが大きく伸びをしてパソコンに向かっていた。


 最近はシリーズ物の新作とときどき短編を入れたものを書いていることが多い。


「美琴、いつ帰ってた?」


 伸びをしてから椅子に座り直した父さんは、目頭を押さえているのが見えたのだ。


「うん、もう三十分くらい前だよ」

「そうなんだ……あれ、美紅みくさんは?」

「帰ってる。いま夕食を作っているよ」


 そう言うと父さんは時計を見てから、ため息をついているのが見えた。


「もう六時か……忘れてた」

「仕事、そろそろ区切りがついたら」

「うん。美琴、そこに座って。ちょっと意見を聞かしてほしい」


 父さんがかなり行き詰っていると、ときどきうちか母さんに息抜きに話をすることが多い。

 わたしは小さな椅子に座ったときに父さんが出してきたのはかなり分厚い紙の束でおそらく小説の原稿だと思っていた。


「これって?」

「これは引っ越す前に書きあげた話、かなり短いからこれから新しく書き足していくところ。美琴が小さかったから覚えてないと思う」


 そのことを聞いてもあまり覚えていない。

 それくらい小さな頃なら、わからなくても当然かもしれない。


「何歳くらいのとき?」

「え、美琴が二、三歳のときかな? 膝に乗せて応募する原稿をいくつか書いてたから」

「そうなんだ」


 わたしの記憶はないけど父さんは覚えていることらしい。

 これからのことが起きていて、たくさんのことがあったんだ。


「見てもいいの?」

「うん。これはあの頃のままだから」


 原稿は二十枚くらいで日付がちゃんと入っている。

 わたしが二歳のときに書いていた頃のもので、青春ものではなくて一人の男性が視点として描かれているのがわかる。


 父さんが書けるあたたかみのある話で、初めて本になる前の原稿を読んだ。



 それを読み進めていくと家族との穏やかない日々で小さな娘と妻の三人暮らしで、全く主人公の名前が出てこないのが不思議で名字は出てくるけどフルネームでは出たことがない。


 たぶんデビュー前の原稿でも違いがあるみたい。

 とても粗削りな感じでいまの父さんとはちょっと違う、デビュー作の小説よりも若々しいイメージがわいてきた。


 もっと読んでみたいなと思ってしまうけど、前後の話とかも欲しいなと思ってしまった。





 わたしは最後の二ページを見てようやく名前が出てきた。


「ここで名前が出てくるんだね」

「うん。意外と早めにばらしても良いかなって思っているんだけど」

「でも、この時系列の前とか後の話とか読みたいなって思った」


 父さんはそれを聞いて驚いたような感じの表情をしていた。


「ありがとう。ようやく話がまとまりそうだ」


 そのままパソコンで設定や何かを書こうとしていたが、先にノートとかにまとめ始めた。

 父さんの表情はとても楽しそうで、その表情を見るのが好きだったんだと思った。


「美琴、ありがとう。また話を聞くかも」

「いいの。キッチンで母さんが夕飯を作ってるよ」

「うん」





 わたしは父さんと共に一階のリビングへと行く。

 父さんは再び大きく伸びをして階段を下りていくのが見えた。かなり長時間座りっぱなしだったみたい。


 キッチンからはとてもいい匂いが漂っている。


 今日はキチン南蛮みたいでとてもうれしくなっていた。

 小さな頃から母さんの作るキチン南蛮が好きで、ときどき作ってほしいと頼んでいたけど作る時間がなかったみたいだ。


 そこで母さんがキッチンで料理に苦戦していて、もともと料理が苦手みたいだった。

 父さんの方を見た母さんは笑顔でこっちに向いている。


「おかえりなさい、美紅さん」

「うん。ただいま、冬樹さん。ちょっと手伝ってくれる?」

「いいよ、美紅さんが料理をしているとき、ひやひやするから」


 そう言いながら父さんが紺のエプロンを身に付けてから、キッチンで母さんの隣に立っているのが見えた。


「先に風呂に入るね」

「うん。わかった」



 わたしは先に風呂に入ることにして、準備のために部屋にまた二階に戻ることにした。

 部屋で夜に着る部屋着を選んでいくのは簡単で、普段の洋服よりはレパートリーが少ないのもある。


 今年の文化祭で着た長袖のクラストレーナーに中学の長ジャージの組み合わせで、これで寒かったら上ジャージを着ることになるのが冬の当たり前になってきてきた。


 最近は上ジャージを寝るまで着て寝るときに脱ぐという感じだ。

 今日は寒いみたいだから上ジャージを着ることにした。



 風呂から上がると両親もそれぞれがお風呂から戻ってきたら、夕飯を食べることになったんだ。


 話は父さんが昔、ファンタジーの物語を書いていたことを教えてくれた。

 わたしがかなり小さな頃だったらしい。


「美琴が小さな頃、アパートで童話を書いたことがあったんだ」

「そうなの? 知らない」

「思い出した、ファンタジーの話でしょ」


 母さんは懐かしそうに話しているから、うちが覚えていないだけかもしれない。


「それを小学生用に出版して、好評だったんだ」

「もしかして、うちが小学生のときに狂ったように読んでたやつかな……『たからものさがし』ってやつ?」


 小学生のときに父さんからもらった小学生向けの小説がとても面白くて、とても何度も読み返して何年も飽きずに読んでいた小説だった。


 話の内容もよく覚えている。

 女の子が異世界から来た魔法使いと一緒にその世界に行って、宝物になるものを探していくという話だったと思う。


「そうだよ。あれが児童文学で唯一の出版になったんだ。あのときは書いているときはとても楽しかったなって」


 父さんは少しノンアルのビールを飲みながら話してくれた。

 それが覚えているなかで一番残っている父さんの記憶に重なった。

 今日は眠くなってきたので珍しく十時前に寝てしまった。

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