旅立

 それから十日後。

 西施の首と荊軻の肝をきょの郊外で丁重に弔った劉備三兄弟は、曹操が設けた鉄の籠から脱し、新たな旅の途上にあった。


 帝を僭称せんしょうする袁術えんじゅつが、兄である袁紹と合流すべく軍を動かしているという。劉備は袁術討伐を曹操に申し出て、許を出発、兵馬を率いて戦に向かったのである。


 袁術を討っても、許に戻る気はもちろん無い。徐州じょしゅうで独立し、曹操の天下に立ち向かうのだ。


「それにしても……。紅昌が目覚める前に旅立ったことだけが心残りだなぁ。華佗先生の手術で元の首と肝に戻すことができたのだから、たぶん心配は無いと思うけど……」


「何だ、翼徳。それほど紅昌が恋しいのなら、彼女を徐州で引き取るか」


「か、からかうなよ、雲長兄貴。そんなつもりで言ったわけじゃ……。第一、俺たちと一緒にいたら、紅昌はまた戦乱に巻き込まれちまう。あの子には平凡な幸せがお似合いなんだ」


 元の人間に戻った紅昌は、貂蝉であった七年間、その首の成長が止まっていたため、外見は十六歳の少女のままである。まだ目を覚まさぬ彼女が覚醒次第、華佗によって関羽の故郷に送り届けられる約束だった。曹操も彼女にはもう関わりたくないようで、それを了承した。


 故郷には、赤子の関羽を拾った寺の和尚がまだ存命しているはずだ。関羽は、華佗に和尚宛ての手紙を託し、「戦の無い世がもしも訪れたら、碁を打ちに帰ります。彼女のことをよろしく」と紅昌の世話を頼んでいた。


「あの絵は紅昌にくれてやったのか」


 軍勢の先頭を行く劉備が振り向き、張飛にたずねた。


「あげたよ。もう二度と会えないだろうから記念に。あの子が可愛がっていた子豚と一緒に華佗先生に預けておいた」


 張飛がうつむいてそう答えると、「そんな泣きそうな顔をするな」と関羽が弟の肩を小突いた。


「人と人の巡り合いは風任せの雲だ。この広い蒼天を旅し、我らは紅昌と偶然出会えた。風の吹き方次第では、乱世を終わらせた我ら兄弟が彼女に会いに行ける運命もきっとあるさ」


「う、うん……」


 関羽は思う。あの少女がくれた笑顔と芍薬の花が、孤独に放浪していた関羽の心のかわきを水で潤してくれた。彼女を救ったと思っていたが、実はあの少女に救われていたのだ。


(彼女の恩に報いるため、私はずっと戦って来たのかも知れぬな。そして、これからも――)


 蒼空そうくうに浮かぶ龍の形をした白雲を仰ぎ、馬上の関羽は微笑んだ。


 鞍の上では、白い花が数輪、揺れていた。






               ― 完 ―

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