巻狩
月日が、流れた。季節は初夏に移りつつある。
劉備主従は、丞相府からほど近い場所に大きな屋敷を与えられ、曹操の配慮で何不自由の無い暮らしを送っていた。
帝からは左将軍の位を授かった。宮廷でも「
気に食わぬことが二つある。
一つは、主君劉備が曹操に飼い殺しにされていること。
もう一つは、三兄弟の間に貂蝉という異物が入り込んできたということだ。
あの女は曹操の間諜ではあるまいか――という疑惑が、関羽の胸中で日々増していた。
寡黙な劉備は特に何も言わないが、曹操の贈り物である彼女を警戒はしているようで、貂蝉の柔肌に今のところ触れていない。夜は、
「星の数ほど女で失敗している好色家の曹操が、貂蝉を自分の
ある夜のこと。
関羽は周囲を警戒しながら、義兄にそうたずねた。
劉備は肩まで垂れ下がった大きな福耳を指で
この大耳の将軍は、人の才や性質がひと目で分かってしまう「眼」を天性備えている。だから、他者のことは、語り合わなくても理解できる。言葉というものに頼らず生きている劉備は、よほど親しい相手か、教えを乞いたいと思う賢者にしか自分というものを多く語らない。彼の本音を言語で最大限引き出せるのは、一心同体の仲である関羽と張飛ぐらいだった。
「先月催された
曹操は、大敵である
あるうららかな
曹操は帝を誘い、大規模な狩猟を許田にて行った。劉備・関羽・張飛も揃いの鎧を着込み、天子の狩りに従った。
「劉皇叔。
まだ少年の面影を残す若い帝が、漢王室の末裔と自称する劉備を頼もしげに見つめてそう言うと、劉備は「ハッ」と短く答え、おもむろに遠くの草むらめがけて矢を放った。
あのぼんやり将軍は何も無いところになぜ矢を射たのだ、と曹軍の武将たちは怪訝な顔をした。しかし、皆でそこまで馬を走らせてみたところ、「おおっ」という声が複数上がった。草むらの陰に隠れていた子兎が、矢に射貫かれて
「劉皇叔、素晴らしいぞ。よく子兎がいると分かったな。朕には見えなかった」
「私は昔から、眼が良いのです」
「……よぉし。次は朕が獲物を仕留めるぞ」
帝ははしゃぎながらそう言い、野を駆ける一頭の大鹿に狙いを定めた。
しかし、三矢放ってもなかなか当たらない。
じれったくなった帝は、「曹丞相、あれを射てくれ」と叫び、手に持っていた弓と矢を曹操に渡した。
曹操はすぐさま弓を引き、鹿を易々と仕留めた。
朝廷の諸官は、鹿の背中に黄金の
そんな彼らの前に立ちはだかったのが、矢を射た当の本人、曹操である。
「貴殿らは眼が悪いのか。先ほど矢を射たのは余だぞ。褒めるのなら、余を褒めてくれ」
馬上から、おどけた口調で曹操は言った。
白粉を塗りたくったその顔は柔和に微笑んではいるが、眼光は
「曹丞相万歳、万歳」という声が春の野に響く。曹軍の武将と兵たちが曹操のために歓声を上げているのだ。帝は、気弱そうな笑みを浮かべ、その光景をただ黙って見ていた。
「天子を公然と
関羽は、
「雲長、堪えろ。
劉備が関羽の衣の袂をつかみ、馬を寄せて義弟の耳にそう囁いた。
ハッと気づいた関羽が周囲の気配を密かに探ると、なるほど、四方の草むらや木々の陰から殺気を感じる。この視線の質は、獲物を狙う狙撃兵のそれであろう。曹操が、弓兵を忍ばせているのだ。
(あの奸物め、わざと天子に無礼を働いたな。自分に反感を持つ者を怒らせ、斬りかかって来るように誘導したのだ)
関羽は、髪の毛が逆立つほどの憤りを感じた。
曹操は乱世の
ましてや、敵将の妾だった女を間諜にすることなど――。
「……兄者。私は、あの貂蝉が、我ら兄弟の絆を壊す元凶にならないか不安でなりません」
許田でのあの事件を思い出しつつ、関羽は義兄にそう言った。
劉備は、心配するな、と即答する。
「我が重大事は、この世でただ二つ。義兄弟と生死を共にすると約した桃園結義、天下を安んじて民を救う志――。美女を愛でることなど、二の次、三の次だ。惑わされるものか」
「いえ、それは分かっています。むしろ心配なのは張飛のほうで……。あいつ、すっかり貂蝉にまいってしまっているようなのです。どうすれば良いでしょうか」
そう言うと、関羽は困り果てた顔で、弟に遅く訪れた初恋について語りだすのだった。
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