祝宴
後漢の帝を擁する
帝に勝利を奏上すべく、曹軍は
劉備の義弟――関羽、
「ほほう。あれが、呂布が寵愛していた美女貂蝉か。噂に違わず、妖艶な
曹軍の武将の誰かが、呂律の回らぬ声でそう言った。
上座の曹操は、同じ敷物に劉備を座らせ、上機嫌で戦の手柄話を語っている。寡黙な劉備は、曹操の言葉に一つ一つ丁寧に
武官たちは赤い官服を着乱し、大いに酔っぱらっている。口論を始める者や酒量が過ぎて嘔吐する者までいた。黒い官服の文官たちは、迷惑そうに彼らの乱痴気騒ぎを睨んでいる。
そんな宴の狂騒の中、一人の女が妖麗に舞っていた。
華奢な腰を官能的にくねらせ、宴席の人々に流し目を使い、貂蝉は踊っている。風に遊ぶ長い袖は、美しい蝶の羽のようだった。
皆は、勝利の美酒に酔い、天下一の美女の舞を楽しんでいた。ただ一人をのぞいては――。
「関将軍。面白くなさそうな顔をしているが、何かご不満かな?」
関羽の様子をチラチラと気にしていた曹操が、杯を置いてそうたずねた。ちょうどその時、貂蝉の演舞が終わり、皆の注目が美髭の偉丈夫に集まった。
いつからそのような奇相になったのか――関羽の顔は、熟した
「何も不満はありませぬ。料理も酒も美味い」
と、関羽は、豊かな髭を撫でつつ言った。
すると、その隣の席でへべれけに酔っている劉備三兄弟の末弟、
「……ただ、
「そうだ、そうだ! 貂蝉が可哀想だぁ!」
「正式な妻ではなかったが、彼女は呂布に愛されていた。主人を討たれた女が、敵将たちの前で踊らされている痛々しい姿を見るのは心苦しい。どんな料理や美酒も不味くなります」
「そうだ、そうだ! 料理と酒がまず――あれ? 雲長兄貴。さっき料理も酒も美味いって言っていなかったっけ?」
張飛がどんぐり眼をパチパチさせ、首を傾げた。
文武の官たちは、関羽の無礼な発言に驚き、緊張した
曹操は、武将の才を何よりも愛する男である。かなり以前から、知勇兼備の将軍である関羽に惚れきっていた。だから、義弟が何を言っても、曹操は怒らない。劉備はそのことをよく見抜いていたので、放置しておいても問題無いだろうと思っているのである。
事実、曹操は、関羽の言葉に激怒するどころか、「さすがは義将関羽」と褒めたたえ、手まで叩いた。
滅多に心底を見せぬこの小男が実際どう思っているのかは不明だが、貴人の
「余が間違えていた。漢の丞相たる者、敵将の妾だった女にも憐れみをかけてやるぐらいの度量は見せねばなるまいよ。……ならば貂蝉。そなたを
曹操がにこやかに言うと、身をかがめて畏まっていた貂蝉が、ゆっくりと顔を上げた。
揺らめく
年は二十二、三という話だが、もっと熟れた年頃にも見えるし、十代の乙女のようにも思える。傾国の美女と呼ぶに相応しい、謎めいた美貌を持つ女だった。その息遣いすら、妙に艶めかしい。かつて漢朝の政治を牛耳った暴君
「あの……
舞い疲れたのだろうか。不自然なほど唐突に彼女の様子が変わった。なぜか呆然と立ち尽くしている。見知らぬ場所に迷い込んでしまった童女のごとく、不安そうな表情だった。華麗な舞を堂々と披露していた先ほどの凛とした彼女とは、まるで別人のように見える。
あの女、何かがおかしい。関羽は不審に感じた。
その直後、貂蝉が不意にこちらを向き、二人は初めて目が合った。
たしかに初めてのはずだったのだが――関羽は、その助けを求めるような眼差しをかつて見たことがあるような気がした。この女とは昔どこかで……。
「貂蝉、どうした。早く何か言え。そなたは貂蝉じゃな」
関羽が何かを思い出しそうになった時、地を這うような声が響いた。
曹操が、貂蝉を睨んでいる。
すると、彼女はハッと我に返り、その美貌から恐怖の色が消えていった。やがて媚態を尽くした微笑を浮かべ、「曹丞相にお願い申し上げます」と艶めかしい声で言った。
「私は、かねてから、徳の将軍、劉備様をお慕いしておりました。また、義弟である関将軍、張将軍の一騎当千の武勇にも尊敬の念を抱いております。それゆえ、これからは劉備様のお屋敷で奉公をしたいのです。どうか、この願いを聞き届けてくださいませ」
貂蝉の意外な願い事に、一同は怪訝な顔をした。女は曹操の
だが、予想外なことに、曹操はハハハと大笑し、「よかろう」とあっさり許したのである。
貂蝉に好意を告げられた劉備はというと――ごく親しい人間以外には己の感情を滅多に見せない人のため、どう受け止めているのか分からない。
張飛は、すっかり酔い潰れて、関羽の膝に倒れかかって寝ている。彼の周りには空になった酒樽がごろごろ転がっていた。
数人の武官が粗相をした吐瀉物が床にまだ残っているのだろうか。先ほどから腐った肉のような臭いが部屋に漂っている。関羽は不快に感じたが、他の者は気にならないのか平然と飲み食いをしていた。
「そなたは……呂布を殺した我ら義兄弟に対し、深い怨みを抱いているはずであろう」
関羽の問いかけに、貂蝉は「いいえ」と色っぽい声で答え、微笑んだ。
「関将軍は当代随一の英傑。民たちは南海龍王の生まれ変わりだと噂しています。義侠心に溢れ、幼友達が悪徳役人に妹を
「私が龍王の生まれ変わりなど馬鹿げた噂じゃ。耳障りな
切れ長な眼をさらに細め、関羽は貂蝉を睨んだ。憐憫の眼差しは、いつの間にか軽蔑の眼差しに変わっている。
「ホホホホ。あの男は粗暴で、裏切りを常とし、英雄と呼べるような武将ではありませんでした。天の怒りを買って滅びたのは当然です。何の未練もありません」
「……ふん。そうか」
関羽は不愉快そうに棗色の顔を歪め、それ以上は何も言わなかった。
曹操は、関羽が押し黙ったのを見ると、「
「明日にも貂蝉を貴殿の屋敷に遣わそう。それで良いかな」
劉備が無言で微笑んでいると、曹操はそれを
かくして、貂蝉は劉備三兄弟の元に身を寄せることになったのである。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます