祝宴

 建安けんあん三年(一九八)十二月。

 後漢の帝を擁する曹操そうそうは、下邳かひ城を攻め落とし、因縁の敵であった猛将呂布りょふを縛り首にした。


 帝に勝利を奏上すべく、曹軍はきょに帰還した。その凱旋軍の中に、曹操の客将となっていた劉備りゅうびの姿もあった。


 劉備の義弟――関羽、あざな雲長うんちょうが、呂布のめかけだった貂蝉ちょうせんを初めて見たのは、曹操が正月に丞相府じょうしょうふ(曹操の邸宅)で催した祝勝の宴においてである。




「ほほう。あれが、呂布が寵愛していた美女貂蝉か。噂に違わず、妖艶な女子おなごじゃ」


 曹軍の武将の誰かが、呂律の回らぬ声でそう言った。


 上座の曹操は、同じ敷物に劉備を座らせ、上機嫌で戦の手柄話を語っている。寡黙な劉備は、曹操の言葉に一つ一つ丁寧にうなずき、「ははあ」「なるほど」と短く受け答えをしていた。


 武官たちは赤い官服を着乱し、大いに酔っぱらっている。口論を始める者や酒量が過ぎて嘔吐する者までいた。黒い官服の文官たちは、迷惑そうに彼らの乱痴気騒ぎを睨んでいる。


 そんな宴の狂騒の中、一人の女が妖麗に舞っていた。

 華奢な腰を官能的にくねらせ、宴席の人々に流し目を使い、貂蝉は踊っている。風に遊ぶ長い袖は、美しい蝶の羽のようだった。


 皆は、勝利の美酒に酔い、天下一の美女の舞を楽しんでいた。ただ一人をのぞいては――。


「関将軍。面白くなさそうな顔をしているが、何かご不満かな?」


 関羽の様子をチラチラと気にしていた曹操が、杯を置いてそうたずねた。ちょうどその時、貂蝉の演舞が終わり、皆の注目が美髭の偉丈夫に集まった。


 いつからそのような奇相になったのか――関羽の顔は、熟したなつめのごとく赤い。太くたくましい眉は、かいこの形に似ている。切れ長でまなじりの深い両眼は、鳳凰の眼を想起させ、ひと睨みするだけで一万の兵を退ける威風を放っていた。


「何も不満はありませぬ。料理も酒も美味い」


 と、関羽は、豊かな髭を撫でつつ言った。


 すると、その隣の席でへべれけに酔っている劉備三兄弟の末弟、張飛ちょうひが「そうだ、そうだ! 雲長兄貴の言う通り!」とわけも分かっていないのに大声で吠えた。宮廷の美酒をたらふく飲み、上機嫌なのである。


「……ただ、それがしは貂蝉殿が哀れに思えたのです」


「そうだ、そうだ! 貂蝉が可哀想だぁ!」


「正式な妻ではなかったが、彼女は呂布に愛されていた。主人を討たれた女が、敵将たちの前で踊らされている痛々しい姿を見るのは心苦しい。どんな料理や美酒も不味くなります」


「そうだ、そうだ! 料理と酒がまず――あれ? 雲長兄貴。さっき料理も酒も美味いって言っていなかったっけ?」


 張飛がどんぐり眼をパチパチさせ、首を傾げた。


 文武の官たちは、関羽の無礼な発言に驚き、緊張した眼差まなざしで曹操の顔色をうかがっている。そんな中、曹操の隣に座る劉備だけは、素知らぬ顔で宮廷の珍味に舌鼓を打っていた。


 曹操は、武将の才を何よりも愛する男である。かなり以前から、知勇兼備の将軍である関羽に惚れきっていた。だから、義弟が何を言っても、曹操は怒らない。劉備はそのことをよく見抜いていたので、放置しておいても問題無いだろうと思っているのである。


 事実、曹操は、関羽の言葉に激怒するどころか、「さすがは義将関羽」と褒めたたえ、手まで叩いた。

 滅多に心底を見せぬこの小男が実際どう思っているのかは不明だが、貴人のたしなみで白粉を施した生白い顔は微笑んでいる。不快に感じていても、関羽を許す気なのだろう。


「余が間違えていた。漢の丞相たる者、敵将の妾だった女にも憐れみをかけてやるぐらいの度量は見せねばなるまいよ。……ならば貂蝉。そなたをはずかしめてしまった詫びに、何か一つ願いを聞き入れてしんぜよう。さあ、何なりと申せ」


 曹操がにこやかに言うと、身をかがめて畏まっていた貂蝉が、ゆっくりと顔を上げた。


 揺らめく火影ほかげが、女の顔を仄かに照らす。

 年は二十二、三という話だが、もっと熟れた年頃にも見えるし、十代の乙女のようにも思える。傾国の美女と呼ぶに相応しい、謎めいた美貌を持つ女だった。その息遣いすら、妙に艶めかしい。かつて漢朝の政治を牛耳った暴君董卓とうたくが、彼女をめぐって養子の呂布に殺されたという噂は、本当なのだろう。


「あの……私奴わたくしめの願いは……」


 舞い疲れたのだろうか。不自然なほど唐突に彼女の様子が変わった。なぜか呆然と立ち尽くしている。見知らぬ場所に迷い込んでしまった童女のごとく、不安そうな表情だった。華麗な舞を堂々と披露していた先ほどの凛とした彼女とは、まるで別人のように見える。


 あの女、何かがおかしい。関羽は不審に感じた。

 その直後、貂蝉が不意にこちらを向き、二人は初めて目が合った。


 たしかに初めてのはずだったのだが――関羽は、その助けを求めるような眼差しをかつて見たことがあるような気がした。この女とは昔どこかで……。


「貂蝉、どうした。早く何か言え。


 関羽が何かを思い出しそうになった時、地を這うような声が響いた。


 曹操が、貂蝉を睨んでいる。

 すると、彼女はハッと我に返り、その美貌から恐怖の色が消えていった。やがて媚態を尽くした微笑を浮かべ、「曹丞相にお願い申し上げます」と艶めかしい声で言った。


「私は、かねてから、徳の将軍、劉備様をお慕いしておりました。また、義弟である関将軍、張将軍の一騎当千の武勇にも尊敬の念を抱いております。それゆえ、これからは劉備様のお屋敷で奉公をしたいのです。どうか、この願いを聞き届けてくださいませ」


 貂蝉の意外な願い事に、一同は怪訝な顔をした。女は曹操のとりこになったのだ。大の女好きである彼が天下一の美女を手放すはずがないことは、貂蝉本人も分かっているはずだ。


 だが、予想外なことに、曹操はハハハと大笑し、「よかろう」とあっさり許したのである。


 貂蝉に好意を告げられた劉備はというと――ごく親しい人間以外には己の感情を滅多に見せない人のため、どう受け止めているのか分からない。茫洋ぼうようたる眼を貂蝉に向け、口元にわずかな笑みを浮かべていた。


 張飛は、すっかり酔い潰れて、関羽の膝に倒れかかって寝ている。彼の周りには空になった酒樽がごろごろ転がっていた。


 数人の武官が粗相をした吐瀉物が床にまだ残っているのだろうか。先ほどから腐った肉のような臭いが部屋に漂っている。関羽は不快に感じたが、他の者は気にならないのか平然と飲み食いをしていた。


「そなたは……呂布を殺した我ら義兄弟に対し、深い怨みを抱いているはずであろう」


 関羽の問いかけに、貂蝉は「いいえ」と色っぽい声で答え、微笑んだ。


「関将軍は当代随一の英傑。民たちは南海龍王の生まれ変わりだと噂しています。義侠心に溢れ、幼友達が悪徳役人に妹をさらわれた際にはその役人を斬り殺し、故郷を出奔なされたとか……。そんな素晴らしい御方のそばにいられるのなら、これ以上の幸せはありませぬ」


「私が龍王の生まれ変わりなど馬鹿げた噂じゃ。耳障りな佞言ねいげんは聞きとうない。……貂蝉よ。先ほどから我らに媚びへつらってばかりおるが、呂布に対する愛は早や失せたのか。貂蝉、貂蝉と叫びながら刑場に引き立てられていった呂布が哀れだとは思わぬのか」


 切れ長な眼をさらに細め、関羽は貂蝉を睨んだ。憐憫の眼差しは、いつの間にか軽蔑の眼差しに変わっている。


「ホホホホ。あの男は粗暴で、裏切りを常とし、英雄と呼べるような武将ではありませんでした。天の怒りを買って滅びたのは当然です。何の未練もありません」


「……ふん。そうか」


 関羽は不愉快そうに棗色の顔を歪め、それ以上は何も言わなかった。


 曹操は、関羽が押し黙ったのを見ると、「玄徳げんとく殿」と劉備を字で呼んだ。


「明日にも貂蝉を貴殿の屋敷に遣わそう。それで良いかな」


 劉備が無言で微笑んでいると、曹操はそれをだくと解釈したようだ。「よし、決まった」と笑いながら言った。


 かくして、貂蝉は劉備三兄弟の元に身を寄せることになったのである。

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