最高司祭

 グラトル闘技場アレーヌ・ド・グラトルの観客席は、身分によって座る階層が変わる。

 試合が見やすい一階は皇族や貴族、二階には騎士階級や聖職者、三階には一般市民、四階には属州民や奴隷という具合である。


 だが、聖職者でも例外はある。

 ヴェルサイユ共和国の国教である聖導教会の頂点に君臨する“最高司祭さいこうしさい”には一階に専用席が設けられていた。


 最高司祭の名はパトリアルケータ。

 雪のように白く綺麗な肌に、床まで付くくらい長く豊かな金髪。

 黄金色に輝く瞳はまるで神のような雰囲気を醸し出している。


 黄金に輝く髪と同化しているかのように輝く豪華な装飾を施した黄金の冠を頭に被り、身体には白い衣を身に纏って、右手に黄金に輝く杖が握られている。


 一見、十代半ばの少女にしか見えないが、実際には五百年の時を生きていると言われる。

 かつてはヴェルサイユ王国の建国にも尽力したと伝わる、現人神あらひとがみであり、文字通りヴェルサイユの国母だった。


 パトリアルケータの黄金の瞳は、静かにアリーナの上で死地に向かおうとしている少年達、特にローランとオリヴィエの二人に向けられている。


「……」


 彼女は何も言わずに右手に握る杖を少し上へと上げて床を二度突いた。

身体強化エンハンス・フィジカル


 その時だった。

 ローランとオリヴィエの二人の身体は青白い光に包まれる。

 それと同時に二人は身体から重さが消えたかのように軽くなるのを感じた。


「な、何だ?」


「これは?」


 二人は何が起きたのか理解できなかったが、呑み込みは早かった。

 感覚は鋭くなり、視覚は銀狼フェンリルの挙動一つ一つを見逃さず、聴覚は銀狼フェンリルの発する息遣いや足元の全てを聞き逃さない。


 一体何が起きたのかは分からないが、それでも二人のやる事は変わらない。


「これなら! ……俺が奴の注意を引く! その隙にオリヴィエが後ろへ回り込んでくれ!」


「分かった!」


 ローランは正面から銀狼フェンリルへと突っ込み、オリヴィエは大回りをして銀郎フェンリルの背後へと回り込もうとする。


 銀狼フェンリルは間合いを詰めると地を蹴って空中へと飛び上がり、ローランの首元を狙ってその大きな口を開ける。

 常人であれば、とても対応し切れない速度のはず。しかし、ローランの目には銀狼フェンリルの動きが手に取るように見えていた。


 ローランは静かに身体を横へとずらす。

 そして銀狼フェンリルの牙が何もない虚を切り裂き、銀狼フェンリルが着地をしようとしたその時。


 ローランの小さな手から繰り出された拳が銀狼フェンリルの横顔に炸裂した。

 激しい衝撃に襲われた銀狼フェンリルは悲鳴のような声を上げて吹き飛ぶ。


 しかし、銀狼フェンリルは空中で態勢を立て直して、優雅に地面へと着地する。


「今だ!」

 ローランが声を上げる。


「でやあああ!」

 オリヴィエが銀狼フェンリルの背中へと飛び移った。

 そして銀狼フェンリルの首に嵌められている首輪の鎖を掴む。


 銀狼フェンリルが突如、背中に現れたオリヴィエを振り落とそうと暴れ回るも、オリヴィエはしっかりと銀狼フェンリルの体毛と鎖を掴んで離さない。


 銀狼フェンリルの注意がオリヴィエに向いている隙に、ローランは銀狼フェンリルの右後ろ足に嵌められている枷の鎖を手に取った。


「よしッ! 掴んだ!」


 ローランが叫んだ瞬間、オリヴィエは鎖を掴んだまま銀狼フェンリルの背から飛び降りる。

 そして二人は鎖を限界まで引っ張り、鎖がピンッと張ったところで銀狼フェンリルを中心にグルグル回転を始めた。


 すると鎖は銀狼フェンリルの身体に巻き付いて足を縛り、その自由を奪った。

 やがて身動きが取れなくなると、その場に倒れ込んでしばらくは暴れるも、次第に大人しくなる。


 こうして、猛獣の餌やりだったこの試合はまったく逆の展開で幕を閉じた。


 そしてこの大番狂わせの展開に、血を求めて集まった観客達は熱狂的な歓声を上げるのだった。


「やったな、オリヴィエ!」

 ローランはニコッと笑いながら、オリヴィエの手を半ば強引に取って固い握手を交わす。


「まさか、本当に生き残れるなんて。それにしても、あの力は一体……」

 オリヴィエは難しい表情を浮かべる。

 火事場の馬鹿力、とは明らかに違う何らかの力の助けを得た事を敏感に感じたオリヴィエは、その正体を思案せずにはいられない。


「まあ、良いじゃねえか! お互い助かったんだからよ!」

 ローランは兎にも角にも生き延びただけで充分だと、特に考えもしなかった。



 ◆◇◆◇◆



 その様を最高司祭専用席から眺めているパトリアルケータは、小さく笑みを浮かべてまるで我が子を慈しむ母親のような顔を浮かべていた。


「なぜ、彼等をお助けになったのですか、最高司祭猊下?」

 そう問うのは、小柄で小太りの老人だった。

 彼の名はランス祭司長。長年に渡って最高司祭パトリアルケータの側近を務めている人物だ。



「……なぜかしらね。私にもよく分からないわ」

 透き通るような綺麗な声。ただし、どこか無機質な雰囲気に満ちている。


「俗世の事にはあまり積極に関わろうとされない猊下が珍しい事をなさる」


「そうね。自分でも驚いているわ。ふふふ」

 パトリアルケータは見た目相応の少女のように楽しそうな笑みを浮かべた。

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