第5話

5、6年前の夜だったと記憶している。20歳になるかならないかのある日、王宮の裏口が半開きになっているのを見た。

本来、そんなことはあってはならない。国王ヴァンスの結界があり外からの侵入は難しいとはいえ、だ。当然アレストはそこを閉めようとした。

だが、その扉の向こうは……夜のシャフマは……

外を知らない彼にとっては、酷く魅力的に映った。

(変装したら王子だとバレないかもしれない)

王宮から出られない王子の顔を知っている平民なんてほとんどいないだろう。アレストは自室にあった綺麗な布を適当に体と頭に巻きつけ、裏口を出た。

「いてっ」

長い布に慣れず、躓いて転んでしまう。前のめりに倒れたため、砂が口の中に入った。

「おっ」

新品だった布は砂で良い感じに汚れた。いかにも遊び人の平民だ。

「お金……」

あまり持っていない。「万が一自分が王宮が襲われ、あなただけが走って逃げないといけないとき用のお金です」とリヒターに渡された少しの小銭か。アレストは自分で金を使ったことがない。必要なものは全部リヒターが用意してくれたから。

「欲しいものを買いに行こう」

生まれた時から砂時計を割らないように大切に育てられた王子は、初めて1人で外に出たのだ。

その日のことはよく覚えていない。酒場に行って酒に初挑戦したら一瞬で酔っ払ってしまい千鳥足で賭博場に入って金をスったということは分かった。次の朝、自分の部屋に戻っていた自分の隣にあった財布の中を見て。

それからは、元気な夜は裏口から抜け出すようになった。酒も賭博も女遊びもそこで覚えた。

酒飲みたさに夜の街で労働もした。ほとんどが肉体労働だった。そこで仲間もできた。良い女を教えてもらったり、美味しい酒の名前を聞いたりした。

一国の王子であるアレストにとって、そこは非日常だったが、普段真っ白な綺麗な服を着て高級な料理を不味いと思いながら食べる自分より夜の街で酔っ払って笑っている汚い布を纏った自分の方が好きだった。

26歳になった今も、リヒターの目を盗んでたまに遊びに行っていた。

(今夜は従者サンが早く寝たな)

こっそりと支度をする。髪を下ろし、ターバンを巻き、丸めて隠してあった薄汚れた布を体に巻く。中には下着だけで良い。肌が見えていた方が平民らしいからだ。

「久々に行こうか……」

裏口の扉を開ける。遠くに見える街の明かりが、アレストの紫の瞳に反射する。ターバンは重いが心は軽い。



〜夜 王宮近郊の街 酒場〜


「お!黒髪の兄ちゃんじゃねぇか。久しぶりだな!」

酒場の客がアレストに声をかける。

「どうした?仕事が忙しかったか?それともついに女を孕ませたか?」

「ふふふ……仕事の方さ。最近、新しい女が入ってきてねェ……」

「おっ。口説いたのか!」

「いや、そういう関係じゃないさ。店員サン、この酒を持ってきてくれ」

アレストが男たちの座っているテーブルの空いている椅子に腰を下ろす。

「まぁ今日は盛大に飲め、そうすりゃ本音が聞けておもしれぇ」

「くくくっ、俺も自分の本音が聞きたいぜ」

店員が持ってきた酒に口をつけて笑う。

飲もうとしたときだった。見た事のあるポニーテールの女性が酒場の扉を開けて入ってきたのだ。

「なっ……!?」

思わず飲みかけた酒を客の顔に噴く。

「うおっ!?!?おい!汚ぇな!?」

(や、ヤバい。あれは軍師サンだ。しまった。王宮関係者が来ることはあったが、普段至近距離で話している仲間と鉢合わせることは初めてだ……!)

バレたらまずい。もう二度と酒を飲めなくなるかもしれない。アレストは息を潜めて目を泳がせる。

「おいおい、どうしたんだ?あの姉ちゃんがどうかしたのか?あ、もしかして……」

「……」

「さっき言ってた新しい女か?ははは!」

「……し、静かにしてくれ……バレたらヤバ……」

「えっ、あ、アレスト?」

「!!!」

「アレストよね?なんでこんなところにいるのよ?」

「あ……」

顔を上げてしまう。真っ赤な瞳。やはりルイスだ。

「……ええと、人違いだと思うぜ?」

誤魔化すことにした。

「いや、絶対アレストよ。あんた、王宮から出られないんじゃ……」

「アレスト?そんなやつは知らないぜ?俺に似ているのか?」

「……あぁ、名前を忘れちゃったのね。あんたはアレストよ。シャフマ王国の王子」

ルイスがアレストの前に立って言う。

「……王子?ギャハハ!!ギャハハ!!!」

アレストが腕を広げて破顔する。

「王子がこんなところにいるわけがないじゃないか!それにあんたの言う王子ってのはこんな顔なのか?」

アレストが自分のつり上がった目元をなぞる。

「……こんな体、なのか?」

大きな胸を下からすくい上げて口角を上げる。

「ふふふ、下品すぎるだろう」

「……」

冗談のトーンで言おうとしたのに、声に影が入ってしまった。

「あんた、酔っ払っているんじゃないか?名前の知らない剣士サン……この酒場は酒臭いからねェ……ふふふ」

ルイスは何か言いたげに口を動かすが、言葉が出てこなかったように俯いてため息をついた。

「……そう、みたいね。酔っ払っているんだわ、私」

「くくっくくく……そりゃあこんな平民を王子と間違えるんだ。酔っ払っているに決まっているさ。ほら、どうせ酔っているのならこっちに来て一緒に飲もうぜ」

「あ……」

アレストの手がルイスの手首を掴む。アレストはその柔らかさにドキリとした。

「わ、悪いね。痛かったか?」

「別に……」

(う……)

本当は、言いたい。

ここでルイスにだけ正体を明かして、夜遊びをしている自分を受け入れてもらいたい。

だが……。

(そんなこと、言えるかよ)

「ごめん。私、遊びに来たわけじゃないの」

「お尋ね者の盗賊の討伐の依頼を受けていて」

「この酒場にも情報収集のために寄っただけなのよ」

「さっき扉の前で店主さんに聞いたから用は済んだのよ」

「だから、手を離してくれるかしら」

ルイスの力強い声に、アレストの手の力が緩んだ。

「そ、そうか……」

アレストが俯く。

「人違いして悪かったわ」

「いや、いいんだ。実は、よく間違えられる」

嘘だ。こんな夜中の酒場に王子の顔を知っている客など来ない。

「名前も、ええと……アレスって言うし。あんたの言っていた王子と似ているんだろう」

適当に言う。

「そう。じゃあ、私はもう行くわね」

「あぁ……」

アレス、はルイスの手を離した。遠ざかって行く背中を見つめることしか出来ない。

「……」

(俺は、どうしたらいいんだ)

(正体を明かす勇気も、引き止める勇気もない)

(俺は、弱い人間だ)

涙が込み上げてくる。

ーピシッ……

「ん?」

ポツリ……砂漠の乾いた砂の上に空から水が降る。

「雨?珍しいな」

客の声にハッとする。

(ヤバい!!)

慌てて涙を拭き、さっき自分が口をつけたコップの酒を飲み干す。

カーッと熱くなり、涙が生理的なものに変わる。

「あ、なんだ。雲が晴れていく」

「雨じゃなかったのか」


「っうう……はあっ……」

アレストはコップを持ったままその場に倒れてしまった。

「だ、大丈夫か!兄ちゃん!!」

周りにいた客がアレストを抱えて静かな場所に寝かせたが、酒を一気飲みして逆上せてしまったと分かるとゲラゲラ笑いだした。

「全く、人騒がせな!!」

「……ふふふ」

朧気な意識の中で男たちの笑い声を聞いたアレストは楽しそうに口角を上げた。

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