普通の学校生活 その四
「さあ、自己紹介も終わりましたから、授業を始めましょうか! 教科書を開いてください」
英語の先生は若い女の先生だ。
先生の声を聞いて、私が教科書を開くと、視界の隅でタクト君が驚いたのが見えた。
「これ……紙……だよね?」
ん? 今なんて?
「う、うん。紙だと思う」
「これも?」
「え、うん、紙だよ」
タクト君が私に見せたのは、さっき先生にもらったノートをコピーした、ノート代わりのプリントだ。
「これで、書くの?」
今度は私が貸してあげたシャーペンを持ちあげる。
「うん、そう」
先生は早速黒板に今日の授業の内容を書き始めている。
「先生の黒板を、書き写したりするんだけど……タクト君の学校では違うの?」
そう聞くと、タクト君はなぜかもごもごと口ごもった。
「た、端末で……」
端末? 端末って、なんだろう。
「コ……コンピューター……?」
タクト君は説明に困っているような感じでそう付け加えた。パソコンで授業をしてるってことかな?
「もしかして通信制の学校とか?」
「通信……あ、そう。うん、そんな感じ」
私が聞くとタクト君はうんうんと頷いた。
なるほど。通信制の学校には入ったことがないから、私もどんな風に授業をしてるのかはわかんない。でも、オンラインの塾なら利用してる子もいる。タブレットで授業したりするって聞いたな。そんな感じ?
そうなると、普段は紙は使わないのかも?
そんなことを私が考えている間に、タクト君はなんと、芯を出さないままのシャーペンでがりがりとプリントを削りだした。
「ちょ、ちょっとちょっと」
タクト君は、ガーンという音が聞こえてきそうなほどショックを受けた顔をして、破けたプリントを見つめた。
「芯出して、芯。こうやって」
カチカチと私が芯を出して見せると、タクト君は信じられないものでも見たような顔になって、自分の手の中のシャーペンをカチカチした。
「で、こうやって書くの」
私が、自分のノートのはしに、ぐるぐると丸を書いて見せると、タクト君も自分のプリントに真似して丸を書こうとして――パキン――と芯を折った。
またしてもタクト君の顔は「ガーン」になった。
「力いれすぎだよ、もっと優しく書いてみて」
恐る恐るもう一度芯を出して、線をひくタクト君だったけど、すぐにまた芯が折れた。出しすぎなのかもしれない。
ふと気付くと、みんながこっちを見ていた。先生が板書きを書き終えて振り向く前に、何とかしなくちゃ!
「今日はこっち使いなよ!」
私は急いでペンケースから鉛筆を取り出して手渡した。
タクト君はまたしても、生まれて初めて鉛筆を見ました~みたいなリアクションをした。
くるくる回して、じーっと見つめて、とがった芯につんつん触れてみたりしたあと、そーっとプリントに線を引いた。当然だけど、ちゃんと書けている。
もう大丈夫かな。
そう判断して、私が黒板の方を見て授業に集中しようとした時だった。
ガタン!
耳元で、派手な音がした。
今度はなんだ!
正直そう思いながら、隣を見ると、タクト君はいなくて、椅子が倒れていた。
あれ?
「な……あれなに?」
ん? タクト君の声が左耳に聞こえた。
振り向くと、私の左肩にタクト君がしがみついている。
「は?」
「あれ」
タクト君が震える指で指さしたのは、倒れた椅子の近くを飛んでいる虫だった。
「あ、虫」
「虫?!」
うちの学校は田んぼと畑と山に囲まれているので、虫はとにかくたくさん出る。みんな慣れているけど、虫が怖い子もいる。私は慣れた。
「タクト君、虫苦手なんだ?」
「だ、だって、危険でしょ?」
タクト君は必死な形相で私に訴えてくる。危険……まあ危険だけど。
あれはカメムシだ。対処に失敗すると、すっごく臭いにおいを放ってくるので、確かに危険ではあるけど。
タクト君のおびえ方は尋常じゃないでしょ。
ていうか、君、その危険から身を守るために私を盾にしてるでしょ。
ほかの皆がタクト君の怯えように、戸惑っていると、先生が困ったように笑った。
「虫はこの学校、たくさんいるんですよ、九内さん。虫が苦手な人にはつらいですよね。先生も虫、嫌いだからわかるわ」
タクト君は教室のみんなが平然としているのが、不思議でならないという顔で、がっしり私の肩をつかんでいた。
うーん。これはよっぽど虫が怖いんだな。
そんなことを考えていると、大きなため息と頼希の声が聞こえた。
「めんどくせえな」
声がした方を見ると、いつの間にか後ろに歩いてきていた頼希が、渋々といった様子で、掃除用具入れからほうきとちりとりを取り出していた。
器用にほうきでちりとりの上にカメムシをのせると、それにほうきでふたをして、廊下に出ていく。開いている廊下の窓から、ちりとりを出してぶんぶんとふると、カメムシが外に飛んで行った。
「ありがとう、頼希さん」
先生がうれしそうな声で言った。
「うっす」
頼希はぶっきらぼうにそう言いながら、ほうきとちりとりを片付けた。
「ありがと」
私もお礼を言うと、ロッカーの戸をバタンと閉めた頼希が、むすっとした顔でこっちを見た。
「あ、ありがとう」
私の左肩で、タクト君もお礼を言った。
「……早く座れよ」
あれ? 頼希ったらイライラしてない? 珍しいな……英語の授業中断するの嫌なのかな?
ともあれ、タクト君も頼希の一言でようやく我に返ったようで、またおっかなびっくり椅子に座った。
「あの、あの虫。よくいるの?」
「うん。そこらじゅうにいるよ。廊下とか階段に死骸も落ちてるし」
「し、死骸? 危険はないの?」
「まあ、死んで転がってるのは、もう臭くないし、掃除の時間に掃除当番が片付けてくれるよ。踏むのはいやだけど」
「ふむ?」
想像してしまったらしいタクトくんが、真っ青な顔でぶるりと震えた。
うん、エグいこと言ってごめん。
さあ、今度こそ授業だ!
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