普通の学校生活 その三
彼が私たちの前に現れたのは、三時間目が始まった時。
みんなもう、ガスマスク君のことを忘れ始めたころだった。
「失礼します。ごめんなさいね」
ニコニコと言いながら、校長先生が教室に入ってきた。
クラスの全員が、ハッとして顔を上げる。
「今日これから、みなさんと一緒に授業を受けてくれる、体験入学のお友達を紹介しに来ました」
校長先生は、小学校の一年生にでも話しているような口調だ。
不思議とバカにされてる気分にはならないのが、校長先生のすごいところだ。
「さあ、どうぞ。入ってください」
校長先生は楽しそうにドアの向こうに声をかけた。
ドアの向こうから、おずおずと入室してきたのは、すらりとのびた長身に、ミルクティー色の重そうな前髪、茶色の瞳で。
銀竜中学校の体操着である、白い半袖シャツと、くすんだ水色のジャージと、スリッパをはいたガスマスク君だった。
ガスマスクは、してないけど。
王子の服は多分、湖に落ちてぬれたり汚れたりしてたから、着替えさせられたんだな。予備のジャージは保健室にたくさんあるのだ。
「さあさ、自己紹介はできますか?」
校長先生は自分の孫を自慢するおばあちゃんみたいな顔で、そっとガスマスク君の背中を押した。
「……
くないたくと。
それが、彼の名前。
校長先生が、黒板に「九内タクト」とチョークで書いた。
ガスマスク君ことタクト君は、チョークの音で驚いたように振り向いて、校長先生を見た。校長先生がにっこりと笑って頷くと、ちょっと困ったように、恥ずかしそうにこちらに向き直って、目を泳がせながらぺこりと頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
弱々しい声の挨拶のあと、クラスのみんなが拍手した。
銀竜中学校と銀竜小学校は『
私と
それにしても、タクト君は体験入学に来た子だったってわけだ。多分、あの迷子っぷりからしても他県の子なんだろうけど。
学校に連れてってと言ったのは、本当に学校に用事があったからってことになるのか。置き去りにして悪かったな……でも、行動が不審者すぎたんだから、お互い様だよね?
「それじゃあ、たつ姫さんの隣に、九内さんの席の用意をお願いしてもいいですか?」
にっこりと校長先生がそう言うと、最前列の子たちが自主的に動いて、廊下においてある予備の机と椅子を、私の隣に運んできた。頼希が机を持ってきて、ちらりと私を見た。
何だろう? どういう意味の視線かな?
頼希が私を見た意味が解らないと思ってるうちに、頼希は自分の席に戻って行った。
「さ、九内さん。あそこにどうぞ」
校長先生はタクト君に席に着くよう促すと、教室から出て廊下で待機していた英語の先生に「お待たせしました」と声をかけて、自分はみんなにぺこりと頭を下げて、教室を出て行った。
タクト君は、おっかなびっくり教室の真ん中を通り抜けて、私の隣に立った。
「あ、あの」
タクト君が声をかけてきた。
「なに?」
「朝は、その、ごめんなさい」
私のすぐ横に立って、しょんぼりとした声を出したタクト君の顔は、何だか捨てられた子犬みたいに頼りなかった。私、めちゃくちゃ怖い人みたいじゃない?
「こちらこそ、突き飛ばしてごめんね」
私も立ち上がって謝った。
タクト君は驚いて目をまん丸にした。
謝っといて何を驚いているのだ。許さないと言われるとでも思ってたのかな?
そんな怖い子じゃないもん私!
「ほら、早く座って!」
自分も座って、タクトくんの椅子を指さす。
タクト君は恐る恐る椅子を引いて、ちょこんと座った。
身長に合わせて調節されていない予備の椅子と机は、タクト君には小さくてきゅうくつそうだった。
私はガタガタと机を動かして、タクトくんの机と自分の机をくっつけた。
タクト君はギョッとして身を引いた。
……失礼な。
「教科書ないでしょ? 一緒に見るしかないじゃん」
「きょう……かしょ……?」
私が机と机の間にばさりと置いた、英語の教科書を見て、タクト君は目を見開いた。
考えてなかったのかな? 体験入学なんだから、授業も普通にするのに。よく見れば完全に手ぶらだし、体験入学
――何か深い事情があるのかもしれない。
私は自分の弟、
小学一年生で不登校になった麻也は、半年間の完全不登校で家にひきこもった末、銀竜小学校に転校した。東京から、一家でこの
麻也は、一年生で不登校になったせいもあって、学校生活ってものが何にも解らなかった。きっと、今のタクト君みたいに、みんなにとって当たり前のことが、全く解らなくて不安だったに違いない。
「……はい」
「?」
私は、自分のペンケースから予備のシャーペンを出してタクト君に渡した。消しゴムは兼用するしかないので、二人の間に置く。
「筆記用具も持ってないみたいだし。貸すよ」
「あ……ありが……とう」
タクト君は戸惑いながら手の中のシャーペンを見つめている。まるでシャーペンを生まれて初めて見たような目をして、手の中でひっくり返したり回したり、まじまじと観察している。
……もしかして鉛筆派だったかな?
そんなことを思っているうちに、英語の先生が、英語のノートのページをコピーしたようなプリントを数枚、タクト君に持ってきてくれた。このプリントは、普段、ノートを忘れた子のために用意されてるものだ。
「さ、授業を始める前に、九内さんのために、自己紹介しましょうか」
タクト君にプリントを渡した先生がそう言った。みんなその辺も慣れているので、廊下側一番前の頼希が、自然に立ち上がった。
「
相変わらずのぶっきらぼうだ。
頼希が座ると後ろの子が立って、自己紹介する。どんどんスムーズに進んでいく。
タクト君はキョトンとしたまま、戸惑った様子で一人ひとりの顔を必死に目で追いかけている。
あっという間に真ん中の松乃ちゃんの番だ。
「はい!
うん。最後の一言はまちがいなく、タクト君も同じマンガのファンなのかを探るためだ。興味津々なのを、隠すどころか前面に押し出した顔をしてる。
ただ、松乃ちゃんの期待とは裏腹に、タクト君の表情は特に変わらなかった。
自己紹介はどんどん進んで、すぐに最後の私の番になった。
私は席を立って、すぐ横のタクト君の顔を見た。タクト君は、まっすぐに、重そうな前髪のすき間からこっちを見上げている。
「
「たつき?」
席に座ると、タクト君が呆然とそう呟いた。
「そう、たつき。よろしくね。タクト君って呼んでいい?」
私が答えると、タクト君は目をパチクリさせて、私から目をそらしてこくりと頷いた。
「私のことも、たつ姫でいいからね」
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