越境
標的の男は俺の真正面で猿轡を咬まされ、縄で柱に縛られて呻いている。
「そんなに緊張しないで……?」
女は震える俺を背後から抱き締め、耳元で囁いた。
「初めてだもの、怖いわよね。……けれど、たった一瞬のことよ?」
言いながら彼女は、重い金属の塊を握る俺の手に自身の手を重ねる。
白く細いその手は一見たおやかながら硬く分厚い皮膚に覆われている。ーー武器を扱う手、殺し屋の手だ。
「これは必要な犠牲なの。食べる為に鳥や豚を殺すのと同じ。ーーあなたは命を繋ぐ為に手を汚す必要があるの。自分の意志で。」
愛を語るような優しい口調で彼女は選択を迫る。
標的を殺して生きるか、標的を生かして殺されるか。
この銃の引鉄を引けば俺は彼女と同じ裏側の世界の住民となり、二度と元いた場所には戻れない。
謀略と抗争に満ちた自分以外誰も信用できない暗闇の中で一生過ごす事になるのだ。
そう思った時、彼女が俺の手を一際強く握り締めた。
「引鉄を引いて5秒以内に! お願いよ……」
すぐ側で命じる声が震えている事に驚く。どんな強力な相手も薄ら笑いを浮かべたまま屠る女のくせに。
ーーどうせ演技だろう。そう思って彼女の方をちらりと振り返り、思わず息を飲んだ。
彼女は泣いていた。
涙の溜まった大きな美しい瞳にはこれ以上ないほどに真剣な光が浮かんでいる。
「あなたが撃たないなら私が撃つ……あなたにも死んで貰う。ここにはね、表側の人間がいてはいけないの」
俺は生唾を飲み、覚悟を決めて銃口を正面の標的の胸に向ける。
標的が必死の形相で一際激しくもがいた。
「そう、撃つのよ。……あなたは罪に汚れて、裏側の人間として生まれ変わるの。そうして、」
私と同じ場所まで堕ちて。
銃声と共に、標的の左胸に赤い花が咲く。
標的の首がガックリと項垂れる。
俺は銃を取り落とし、荒い息を吐いた。何度も何度も。
女が俺の体をきつく抱き締める。柔らかく温かい感触に、ああ俺は生きていると実感する。
俺の息と動悸が静まるまで、彼女は俺を抱き締め続けてくれた。
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