第39話

 まだメモリーは余っているようですし、せっかくですから、ミハイロワ先生と会ったことも話しておきましょう。


 軍に復帰してからも、彼女は名目上、わたしの直属の上官であり続けました。任務のことについて話すことはあっても、それ以外のこと、とくにあの『楽園』での日々のことを、わたしは一度も彼女に話すことはありませんでした。


 もちろん、わたしが話さなくとも、ミハイロワ先生はすべてを知っていたはずです。だってわたしは、ヒナタにすべてを話していたのですから。わたしは人間ではなく、あくまでも兵器です。わたしの語ることは兵器の調子であり、わたしの心情や秘密も、すべて兵器を運用する上での貴重な情報なのです。そのことについて、ヒナタを責める気はひとつもありません。だってそれが、ヒナタの仕事なのですから。


 グエン准尉と食事をしてから数週間後のある日、わたしは次の大規模戦闘への出撃を命令されました。敵味方、双方に多大な被害をもたらすだろうことは予測ができましたし、一歩間違えれば、久我山基地も陥落するかもしれません。


 要するに、それは死刑宣告でした。わたしもついに死ぬのかと、ないはずの『心』が安らぐのさえ感じました。やっと終わりが来たのです。こんな地獄みたいな日々がやっと終わろうとしているのです。その日の『調整』を終え、めまいと吐き気と平衡感覚の失調と闘いながら、わたしはそんな『安らぎ』を味わいました。


 そして何の予告もなく唐突に、ミハイロワ先生は訪ねてきたのです。


「……元気?」

「……」


 午後の三時だか四時だったか、それくらいだったと思います。まだ日が暮れるには早く、でも一日の終わりの気配が色濃い空気の中、わたしはベッドに横たわったまま、上官の顔を見上げました。


「辛そうね」

「『調整』の、後ですから」


 ミハイロワ先生は手近な椅子を引き寄せて座りました。わたしは形ばかりの敬礼すらせずに、寝返りを打って背を向けました。ただでさえ気分が悪いのに、彼女が来たことによって、それは悪化しました。ヒナタは何をやっているのでしょうか。わたしの世話役なら、こんな人、追い出してくれればいいのに!


「……悪かったわね」

「……何がですか?」

「あなたの『幸せ』を奪ったこと」


 グエン准尉の謝罪は素直に聞き入れられたのに、どういうわけだか、この人の言葉は聞きたくありませんでした。


「悪かったと思っているわ。ほんとうに」


 カテリーナ・ミハイロワ。


 この人は、わたしにとって教師であり上官であり、そして母でもありました。わたしにとって彼女は怖い人です。彼女の声と叱責のとなりには、いつも電流のお仕置きが待っていたのですから。


 わたしは背を向けたまま、うずくまりました。『楽園』にいた時、ノーラと娘のキンバリーが言い合いをしているのをよく見ました。ノーラが何か口うるさく言うと、キンバリーは怒って投げやりになって、そして家を出て行ってしまうのです。ドロシーも同じでした。


「……許してくれなんて、言わないわ。ただ、あれは軍の命令だった」

「……そうですか」


 だからわたしもそうやって、『怒って』『すねて』いれば、『ふつう』の女性になれる気がしていたのです。


 ミハイロワ先生はため息をつきました。この人のため息なんて、はじめて聞いたと思います。


「あなたが見つからなければいいって、思っていた」


 開け放たれた窓から、殺戮兵器が飛び立つ轟音が聞こえます。カモメの鳴き声、海の音、風の音。まぶたの裏に、どこまでも青い世界が、広がっていました。


「アレクサ」

「……」

「ショーンのことだけどね」


 ショーン。


 その名前を聞いて、わたしはガバッと体を起こしました。薬の影響で、頭がぐらぐらと揺れます。揺れる視界の中、窓から差し込む光に照らされ、ミハイロワ先生は聖母像のように微笑んでいました。


 その微笑みが、グエン准尉が見せた微笑みと同じくらい悲しそうで、

 彼女は、


「これ」


 差し出されたのは、一枚の絵でした。


「これは……?」


 わたしは絵というものを描いたことがほとんどありませんから、その絵が上手いとか下手とか、そんなことは分かりませんでした。画材のことも詳しくありませんが、おそらく子ども向けの塗料で描かれたのだということは、何となく推察できました。青く塗られた一面の紙、その中心に、赤い殺戮兵器が飛んでいました。


「……セキレイ」


 赤い機体でも、それはイワヒバリでも瓦緋和カワラヒワでもありませんでした。それはセキレイでした。見間違えようもありませんでした。子どもの絵で、おまけに赤く塗られていても、それがセキレイだということくらい、一目見て分かりました。


「誰が描いたと思う?」


 茫然自失となったわたしの目の前に、ミハイロワ先生は一枚の写真を渡しました。


「あ……」


 声とともに、目から大量の水分があふれ出て、たちまちに前が見えなくなりました。手が小刻みに震えて、自分の意に反して写真を握りつぶしそうになってしまいます。


 その写真に映る小さな男の子を、わたしはたしかに知っていました。カメラに向かって手を伸ばし、あどけなく笑うその男の子を、わたしは間違いなく、腕に抱いたことがあります。


「ショーン……」


 ずっと死んだと思っていたのです。ずっと軍に、ミハイロワ先生に殺されてしまったのだと、そう疑わなかったのです。


「先生、どうして……」

「黙っていて、ごめんなさい」


 そうして、ミハイロワ先生はショーンのことをぽつぽつと話してくれました。


 わたしに対する人質として生かされていたこと。『心』を持たない兵器から生まれた子ども、つまり貴重なサンプルだということ。今は本土の養護施設で暮らしていること。毎日を笑顔で過ごしていること。


「あなたがかえって辛くなるんじゃないかと思って、……言えなかった」

「……そんな」

「あなたには、恨む相手が必要だった。私がこの子を、あの集落を……。あなたのたいせつなもの、すべてを奪ったと……。あなたが私を憎んで、それで穏やかに生きていけるのであれば、それでいいって、そう思っていた」


 ミハイロワ先生の、唐突な心変わり。わたしは目を伏せました。大規模戦闘、出撃、予想される災禍。そしてたぶん、わたしは死ぬ。生きて帰ってきたとしても、もう兵器としての寿命は限界に達しています。だからこれが、この次の出撃が、わたしの最後の戦いなのです。


「アレクサ」

「はい」

「……嫌なら、逃げてもいいのよ」

「……先生?」

「発信機を破壊することはできないけれど、基地のシステムに侵入すれば、少しくらいは機能を止められる。養護施設の住所もある。あなたは戦いを放り出して、逃げてこの子に会いにだって行ける」


 戦いから逃げる。逃げてショーンに会いに行く。


 それはおそろしく甘美な響きでした。でもそれは、わたしの存在意義、兵器として生み出されたわたしの存在そのものを、真っ向から否定するものに他なりませんでした。


「……わたしは」


 ミハイロワ先生はズルいです。子どもの未来のために戦って死ねと言われて、拒否できる母親が、この世界のどこにいるというのでしょうか。


「逃げません。戦います」


 戦って、この子のための未来を切り拓いて死にます。


 わたしはそう言いました。言ったはずです。でもどこまでが口の端に上って言葉になって、ミハイロワ先生の耳に届いたのか。それは分かりません。


「……強いのね、あなたは」

「……いいえ、そんなこと」


 薄暗い室内の中、窓から差し込んできた日差しが、一筋の帯となって床に落ちました。光の中を舞うほこりの一つひとつがよく見えて、そんな鮮明な世界の中で、ミハイロワ先生はゆっくりとわたしを見ました。


 その目に涙が浮かんでいるのを見て、わたしは目を見開きました。


「アレクサ」

「はい」

「私にはね、子どもはいないわ。結婚もしていない。ずっと空戦部隊のパイロットで、ベッドの上じゃなくて、拝多戈ハイタカに乗っている時に死ぬんだ、って、そう思っていた」


 実際、それを聞いたのははじめてのことでしたが、聞く前から知っている気がしました。


「パイロットを辞めて、教官としての道を選んで……。はじめて教えた生徒が、あなたたちだった」


 わたしは目をつむりました。思い出します。わたしたちが『誕生』した当時、ミハイロワ先生はたしかに若く美しく、そして強く、怖かったのです。


「アレクサ、私はね、セキレイの運用なんて、間違ってると思っていたのよ。わざわざ『心』のない子どもたちを生み出して、『兵器』として使い倒すなんて……。

 だからね、あの当時の私は使命に燃えていた。この子たちは、ほんとうは『心』があるんだって思っていた。……そしてそれは、真実だった」


 ミハイロワ先生。冷徹で鬼みたいで、つねに懲罰の電気ショックとともにあった、ミハイロワ先生。


 でも、こうも思うのです。リーランドさんやグエンさんが、なぜわたしたちの下へと遊びに来ていたのか。ふつうは捨ててしまうはずのパイロットの遺品を――ガブリエルの遺品を、なぜわたしとニコールにくれたのか。宝物を入れるのだと知っていて、なぜ先生はわたしに紙袋をくれたのか。わざわざ『Alexa』と書いてくれて。


 もしかしたらそれらはすべて、ミハイロワ先生の『計らい』だったのでしょうか。軍に許されるか許されないかの狭間で、ミハイロワ先生はわたしたちに『心』があることを信じて、そしてそれを、守ってくれていたのではないでしょうか。


「先生……」

「アレクサ。信じてくれなんて、そんなこと、言わないわ。だって私は、命令とはいえ、あなたの愛した人たちを殺したんですもの。

 ……でもね、これだけは覚えておいて。私はあなたたちを守りたかった。あなただけじゃない。イーサンもニコールもカブリエルもアンドリューもアイゼアも、みんな、自分のほんとうの子どもたちだって、愛しているって、『心』から、そう思っているのよ」


 愛している。


 言葉は知っています。概念も知っています。そしてそれが何なのか、今のわたしはたぶん、経験で知っています。


「ミハイロワ先生」

「何?」

「ショーンのこと、これからもお願いします」

「……ええ」

「直接会えないなら、電話でも……、手紙でも、かまいません。……ショーンに、あの子に、『愛している』と伝えてください」


 愛している。

 ほんとうに『心』の底から。


 愛している。


「アレクサ……」


『心』のないはずのわたしは、いつの間にか『心』から、それを口にしていました。ミハイロワ先生が泣いています。かつて子どものころ、わたしにとってこの人は、ただひたすらに怖い、電気ショックの先生でしかなかったはずなのに。


 それが今はもう、彼女すら『愛おしい』。


「泣かないでください。……お母さん」


 わたしはそっと生身の左手で、ミハイロワ先生の頬を撫でました。


 先生の目には、いたいけで哀れな子どもの『兵器』としてのわたしが映っていて、たくさんの涙とともに、頬を、わたしの指の先を、すべって落ちていきました。

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