第38話
再会したのはヒナタだけではありませんでした。ミハイロワ先生はもちろんのことですが、グエン曹長、いいえ、グエン准尉のことにも触れておきましょう。
ヒナタがわたしの世話役に配属されてからほんの数ヶ月後、わたしは彼と作戦行動をともにすることがありました。彼は
わたしがセキレイから降りた先、埃っぽい格納庫の一角で、彼は待っていました。
「この後、ヒマか?」
「ええ……」
厳密に言えば、ヒナタがわたしのことを待っているでしょう。
「……少し、付き合ってくれないか?」
そう言うグエン准尉の口はものすごく硬くて重く、傾聴しなくとも、緊張しているのは明らかでした。
わたしはうなずいて、彼の背中を追いかけました。この人が、『楽園』を襲撃したのです。わたしの『ハリエット』としてのすべてを破壊したのです。でも不思議と、嫌悪感はありませんでした。『怒り』も『悲しみ』も、残りカスがたくさんこびりついていたはずなのに、そのどれもが口に上ってくる前に崩れていきました。
グエン准尉は、わたしを食堂に連れていきました。
「ご馳走するよ。何がいい?」
「何でもいいのですか?」
「あんまり高いやつはナシで」
かつてのわたしは『選ぶ』という行為をとても負担に感じていました。年月が経っても、人間というものはそう簡単には変わらないものです。コーラ、ジンジャエール、それからオレンジジュースという三択すら選べなかったわたしの前に、その食堂の膨大なメニューは、果てしない世界のように広がっていました。
「……決まった?」
「決まりません。グエン准尉は?」
「俺はいつも同じのにしているんだ。迷う時間が、もったいないから」
彼はそう言って、迷わずに食券を買いました。フォーというのがベトナムの麺料理だということくらい、わたしも知っています。
「では、わたしもそれを」
「パクチーはいる?」
パクチーを枕元で栽培しているという彼の話を思い出して、わたしは自然、ほんの少しだけ笑ってしまいました。
「ええ。たくさん」
生まれてはじめて食べたパクチーは、建物の裏の日陰みたいな味がしました。
たぶん、その辺の雑草の方がよほど美味だったのではないでしょうか。思わず顔をしかめたわたしを見て、グエン准尉は笑いました。物静かな笑い。大声で笑いたいのを我慢するような笑い方は、わたしの知っている過去のグエン曹長と、何も変わってはいません。
そうして向かい合って、ふたりで黙々とフォーをすすりました。わたしが左手で箸を扱いあぐねているのを見かねて、グエン准尉はフォークを取ってきてくれました。
グエン准尉はとっくに麺を食べ終えていました。わたしは残りの麺の上で、くし切りにしたレモンをつぶしました。
「アレクサ」
「はい」
「……その、悪かった」
何のことだか分からなくて、一瞬、動きが止まりました。レモンの汁がはじけて、日陰の雑草みたいなパクチーの臭いが鼻を刺激して、わたしはようやく、現実に返りました。
「……あの集落のこと、ずっと、謝罪しなければいけないと思っていた」
「……そんなこと」
気にしていない、なんて、言えるでしょうか。
あの襲撃がなければ、わたしの『楽園』での『幸せ』な日々は、たぶん今でも続いていたでしょう。ショーンはもっと大きくなって、もっといろいろな言葉を話して、もっとたくさんの遊びを覚えられたことでしょう。ジョシュアの弦楽器の音色の中で、わたしは死ぬまで永遠に、夢の中を生きていられたのかもしれないのに。
わたしはフォークを置きました。
残り少ない麺が、透き通ったスープの中でふやけていくのを見て、
「……仕方なかったんですよ」
「アレクサ……」
「軍の、命令だったのでしょう? だったら、仕方ありませんよ」
軍人にとって、軍の命令は逆らってはいけないものなのです。上官の命令こそがすべてなのです。そんな世界に生きてきたグエン准尉やミハイロワ中尉にとって、あの『楽園』の襲撃を拒否することは、彼ら自身の死を意味することでした。
「それだけ、わたしが必要だったのでしょう?」
「でも……」
「わたしは、兵器ですから……。だから、こうなるより、仕方なかったんです」
あの当時の戦線はボロボロでした。久我山基地もめちゃくちゃでした。そんな中で、有能なセキレイのパイロットが生きていたことが知れたなら。
セキレイのパイロットの奪還。再洗脳、再利用。それで戦線が持ち直すのであれば、安すぎる犠牲です。わたしが司令官の立場だったとしても、同じ決断をするでしょう。だってセキレイのパイロットには、『心』がないのですから。
兵器として生み出され、基本的人権も与えられていないのですから。『幸せ』に生きる権利なんて、どこを探してもないのですから。
グエン准尉の顔が、悲しそうにゆがみました。ジョシュアもノーラも、それからヒナタも、わたしが自分自身のことを語って聞かせる時、みんな同じような顔をするのです。そういう目で見られるのを、わたしは慣れています。
「……イーサンのこと、残念だったな」
「はい」
残念。
わたしたちは死を誇るべきなのだと、昔、誰かにそう習いました。
「でも君は、ほんとうによくやったと思う」
グエン准尉はそう言って、ふたり分の食器をまとめはじめました。
「わたし、片づけます」
「いいから」
「でも……」
グエン准尉は、自分とわたし、ふたり分の食器を返却口に押し込みました。そして食券機に札を突っ込み、二枚の券と引き換えに、びんを二本、持って帰ってきました。
「アレクサ? どうした?」
「あ、いえ」
そのたくましい背中と肩のラインに、わたしは一瞬、ほんの一瞬だけですが、ジョシュアの面影を見つけました。
ジョシュア。最愛のジョシュア。男と女の『愛』なんて、かつてのわたしはぜんぜん分からなかったけど。
だけど。
「グエン准尉」
「ん?」
「……これ、お返しします」
わたしはドッグタグの鎖から、指輪を引き抜きました。とある女性への告白が失敗したあの時、まだ軍曹だったグエン氏は、わたしにこの指輪をくれました。
「……そんなの、まだ持ってたのか」
「残っている『宝物』はこれだけなんです。……他のものはぜんぶ、置いてきてしまったので」
ミハイロワ先生からもらった紙袋。『Alexa』とマジックペンで書かれた袋。小さなクマのぬいぐるみ、短くなった色鉛筆、キラキラ光るネックレス。ガブリエルが残したブレスレットも、イーサンのために編んだミサンガの残りも、ヒナタから借りっぱなしにしていたシンデレラの絵本も。あの袋の中身がわたしのすべてだったはずで、そしてそれはもう、ひとつも残ってはいません。
「君が持っていていいのに」
「いいえ、お返しします。だって」
「だって」
だっていつまでもグエン准尉からもらった指輪を持っていたら、ニコールに『嫉妬』されてしまうでしょう。
「……いいえ、何でもありません」
でもそれは、わたしとニコールだけの秘密なのです。
グエン准尉はわたしの前に、びんとコップを置きました。彼はコップの中に、並々とオレンジジュースを注いでくれました。作りものみたいな鮮やかな色が、殺風景な食堂の中に、太陽のような存在感を持って、わたしの目の中に飛び込んできます。
それを見て、わたしは唐突に、
「ミハイロワ先生に、愛は伝えられましたか?」
グエン准尉は固まりました。でもすぐに、短い硬直が解けて、
「いいや、できてないよ」
「まだですか?」
「うん、情けないだろう?」
その指輪は、ミハイロワ先生に贈るはずだったのでしょう。でもミハイロワ先生は、リーランド曹長と愛し合っていました。あのふたりの間にある感情が、果たしてほんとうに『愛情』だったのかは分かりません。分かりませんけれど、少なくとも、ただの『肉体関係』だけではないことを、わたしは信じていたいのです。
「グエン准尉は、気づいていたんですか?」
あのふたりの関係を。
「まあ、薄々はな」
「今もまだ、ミハイロワ先生を愛されていますか?」
「……ああ」
「なら、なぜもう一度、愛をお伝えにはならないのですか?」
だって、愛する相手はまだ生きているのに。今すぐ手の届くところにいるのですから。いったい何を、二の足を踏む理由があるというのでしょうか。
「……アレクサ」
「はい」
「変わったな」
「はい」
「君にも、愛する人がいたんだな」
グエン准尉の顔が、今度こそほんとうに泣き出しそうになりました。たとえ軍の命令だったとしても、わたしの愛するジョシュアを殺したのは、この人とミハイロワ中尉です。でも今はもうなぜか、それを責める気分には、なりませんでした。
「君も、たいせつな過去を持つことができたんだな」
たいせつな過去。イーサンと黄金のイチョウ並木を通った日々も、フェンスの向こうのヒナタと遊んだ日々も。ジョシュアとの『楽園』での日々も、みんなわたしの、たいせつな過去であり、思い出です。
その日の別れ際、わたしはグエン准尉に約束を取りつけました。
今度こそほんとうに、ミハイロワ先生に愛を伝えてくださいと、わたしはそう、彼に無理やり約束させました。
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