【9】

第27話

 そろそろ退屈された方もいるでしょう。退屈されたなら、読むのをやめてくださってもかまいません。正直、わたしもしゃべるのに疲れてきましたが、でもやめるわけにはいかないのです。これはわたしの遺書。わたしが短い生涯の中でただの唯一、自分のことを書き記した文章のなのです。わたしというひとりの人間がどのように生きてきたのか。『心』を持たない兵器としての人間の生き方について、ひとりでも多くの人に知ってもらい、覚えておいてもらいたい。だからもう少しだけ、あとちょっとでいいから、付き合ってください。




 話を戻しましょう。


 熱帯のジャングルの中、倒れて泥水に沈んだわたしは、腹の底から死を覚悟しました。恐ろしくはありませんでした。ただその前に感じていた動悸だとか手足の震えだとか、そんなものはとうに消失していて、残ったのはただひたすらの寒さでした。寒い、水が冷たい。熱帯のジャングルの生ぬるい泥水でさえも、あの瞬間、わたしには氷水のように感じられたのです。


 だから次に目覚めた時、わたしはついに『ああ、死んだんだな』と思いました。温かな布団も、着心地のよい寝巻きも、優しい匂いのする室内も、穏やかな空気も、ぜんぶ自分の脳みそが生み出した、都合のいい幻なのだと信じていました。


「ここ、は……」


 目を動かしました。耳をそばだてました。手を握って開いて、足を動かして、四肢の感触をたしかめました。切断した右腕には丁寧な治療が施されていて、遭難用のバックパックは、枕元の椅子に置かれていました。


 こんな状況においても、わたしが真っ先に気になったのは、バックパックの中、宝物の紙袋の安否でした。あの袋に入った宝物は、わたしのすべてでした。盗まれては困ります。今なら「誰もあんなものを盗ったりはしない」と言えますが、あの時のわたしはそんなことばかり考えてしまいました。


 ベッドから起き上がりました。

 そして、部屋の扉が開きました。


「あら……」


 その女性は水差しとコップの乗ったお盆を手にして、戸口に立ち尽くしていました。年はミハイロワ先生より上で、でも体積はミハイロワ先生の三倍くらいはあったと思います。ふくよかな女性でした。あんなに太った人は、軍の内部にはほとんどいません。


「目が覚めたの?」


 その人の英語はきれいで、きれいな発音をするたびに、のどの肉がたぷんたぷんと揺れました。あんな体で績隷セキレイのコックピットに入ったら、座席にお尻がはまって抜け出せなくなってしまうでしょう。


「しゃべれる?」

「……」


 わたしは黙っていました。黙って目を合わせず、うつむきました。


「名前は?」

「……」

「どこから来たの?」

「……」

「ここがどこだか、分かる?」

「……」


 ほんとうにしゃべれなかったのではありません。ただ、記憶の混乱があったのは間違いありません。わたしは自分が死んだのだと思っていました。でも現実はそうじゃない。わたしは生きていたのです。イーサンもガブリエルもリーランド曹長も死んだのに、それでもわたしはまだ、生きていたのです。


「……何も、分からない?」


 女性の柔らかな手が、わたしの手を包み込むように握りました。たぶんその感触は、寮の布団よりも柔らかかったと思います。


『母親』という単語は知っています。概念も知っています。彼女はわたしの持っている『母親』という概念に、きわめて似ているような気がしました。


 わたしはなるべく『悲しそうな』顔をしながら、うなずきました。そうしておいた方がいいと、本能が警告していました。下手にウソをつくくらいなら、すべてを黙っていた方がいい。そして実際、その警告は、ある日までは正しかったのです。


「ジョシュアがあなたを連れて帰ってきてくれたの。……ああ、私はノーラ。あなたは?」


 アレクサ。答えたのは、胸の中でだけでした。


「あっ、ごめんね。いやだね、私ったら。おんなじことばっかり訊いて」


 この人は、このノーラなる女性は、わたしの名前は知りませんでした。そしてわたしはようやく、残った左手で胸のあたりをまさぐりました。久我山くがやま基地に配属されてからの六年間、片時も離さなかったドッグタグが、ありませんでした。たぶん、何かの拍子で鎖がちぎれたのでしょう。ドッグタグ自体は紛失してもかまいませんでした。だって『アレクサ』は死んだから。でもドッグタグと一緒にしてあった、グエン曹長からもらった指輪をなくしてしまったのは、失態でした。


「まあいいさ。この部屋は空いているし、好きなだけいるといいさ」


 わたしが彼女の世話になったことは、わたしの人生において、数少ない幸福のひとつだったように思います。ノーラはふくよかでおおらかで陽気で、温かな女性でした。


 ずっと彼女の世話になれたらよかったのに。

 彼女だって、わたしを拾わなければ、あんな目に遭わなくて済んだのでしょうに。

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