第28話
「ハリエット」
「おはよう、ハリエット」
「ハリエット! 遊ぼう!!」
わたしがたどり着いたその集落は、セキレイを自爆させた河口よりもずっと上流沿いの、とある小さな集落でした。ほんの十数世帯が自給自足をしながらより集まって暮らしていて、外部との交流はほとんどないようでした。二台の車と十数頭の牛と馬、それから鶏と三台のラジオ。そして人びとの慈悲深い心と愛。それがこの集落の、財産のすべてでした。
ノーラはそんな集落の一世帯で、三台あるラジオのうちの一台は、彼女の家が保有していました。ノーラと夫を中心にした家族は実に賑やかなもので、ノーラの老父母と、それからノーラの娘がひとり、ひとつ屋根の下で暮らしていました。長女は近所の農家へと嫁いでいましたが、日に一度は実家を訪ねてきました。
明るいノーラの一家でしたが、そこにある種の影のようなものがあることに、わたしは早々に気がつきました。わたしは名前が分からないふりを続け、ほんとうに『アレクサ』を捨てました。そしてノーラから新しく、『ハリエット』という名前をもらいました。
ハリエット。
それがこの家に住む『影』の正体でした。
ノーラはその名前について、多くのことを語りはしませんでした。ただ会話の端々から、この家の娘は三人いて、ひとりは嫁ぎ、ひとりはまだ幼く、そして次女は死んだということだけは理解できました。
拾った小娘に、次女の名前をくれてやったノーラ。彼女がどんな思いで、わたしに『ハリエット』をくれたのか、わたしには分かりません。ただわたしは人形のように、その名前を受け入れました。徐々に、徐々に、ほんの少しずつ、家族の会話に加わりました。けっしてボロを出さないように、『心』のない兵器であることがバレないように、わたしは細心の注意を払い続けました。
ノーラの老父母も、末娘のドロシーも、わたしが家にやってきたのをとても喜んでくれました。ドロシーはわたしのことを『ハリエットの生まれ変わりだ』と言いました。聞けばハリエットは、三年前に死んだそうです。わたしが生まれたのは八年前です。だからわたしはハリエットの生まれ変わりではありません。
でもドロシーは、あの時たしかに『喜んで』くれていました。『喜ぶ』という感情にあまり触れた経験のないわたしにとって、あの子との関わりはとても難しいものでした。でも同時にわたしも『喜ぶ』をしていたのだと思います。
もちろん、わたしが『ハリエット』を名乗っていることを、快く思わない人たちもいました。近所の農家に嫁いだ長女のキンバリーと、それからハリエットの婚約者、ジョシュア。このふたりはわたしが『ハリエット』になったことに対し、複雑な感情を抱いていたのは、間違いないことです。
それはそうに決まっているでしょう。ふたりにとって『ハリエット』とは、わたしではなく、ノーラの次女に他ならないのです。それが急に現れた得体のしれない女が、その名前を受け継いで、まるで元からいたかのように生活しているのです。そんなの『心』を持った人なら誰だって嫌でしょう。
ほんとうは、ノーラもドロシーもそう思っていたのかもしれません。でもそんなことを感じさせないくらい、あの一家は優しかった。あの一家だけでなく、集落の他の家族も、それこそキンバリーの嫁ぎ先の農家だって、みんなわたしに親切にしてくれました。
ジョシュアの話をしましょう。彼について語るのは、軍を脱走した以後のわたしの人生を、そのまま語るのに等しいものです。彼の話をするのは、正直言って、辛いのです。でもジョシュアのことを語らなければ、たぶんわたしはこの遺書を終わらせられないし、おそらくきっと、一歩も前に進むことはできないでしょう。
ジョシュアは集落に居着いた流れ者でした。泥みたいな川の中で沈んでいたわたしを保護してくれたのです。もちろんその時のことを、わたしは覚えていません。なんで彼は、わたしのことを助けてくれたのでしょうか。もしもわたしが『ハリエット』になることを――要するに、ジョシュアの元婚約者のいたところに収まることを――分かっていたならば、彼はわたしを助けてくれたでしょうか。
彼は多くを語りませんでしたが、葛藤があったことは、たぶん間違いないことだと思います。
わたしが彼とはじめて会話した時のことを、話しておきましょうか。
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