第26話

 痛む頭を抱えながらわたしがしたことは、まずハッチを開放し、コックピットから這い出ることでした。


 計画の第一段階は、とりあえず終了と言って差し支えありませんでした。それでも安心してはいられません。わたしの発信機も、セキレイのシグナルも、まだ軍は受信し続けているでしょう。


 わたしはバックパックと紙袋を手に取って、コックピットから出ました。


「……」


 森でした。森を流れる川の中に、わたしのセキレイ四番機は仰向けに倒れていました。仰向けに倒れて、半分くらい沈んでいました。


 ここにはわたしを閉じ込めるフェンスはありませんでした。わたしはこの時になってようやく、フェンスの『外』というものを見ました。


 圧倒的な自然が、目の前に広がっていました。奇妙にねじれた木が、川の中に根を張って茂っています。その川も清流の流れではなく、ほとんど泥水と同じような色をしていました。よく目を凝らすと、濁流の中をたくさんの魚が泳いでいました。


 耳を澄ませなくとも、幾重にも混ざった鳥の鳴き声が響いてきました。サルだかチンパンジーだかの声、小型の肉食獣が草の上を走る、カサカサという音。蛇が地面をすべる音。濃密な草花の匂い。湿度の高い、分厚いガラスのような空気。太陽。


 そんな圧倒的な自然が、目の前に延々と広がっていました。


 はじめての光景を前にしても、不思議と恐怖はありませんでした。わたしはセキレイの自爆シークエンスを開始し、コックピットを飛び降りました。深い川を渡りました。腰まで水に浸かって、ザブザブと流れを横切り、泥の中で行き場を失った流木の上に腰かけました。


 それから約二十秒後、わたしのセキレイ四番機は、閃光とともに水柱を噴き上げました。


「……」


 鳥が鳴き声とともに飛び、野生動物が茂みの中から威嚇の声を上げ、水柱が収まった後、空には虹がかかりました。わたしはほんの少しだけ、一分か二分か三分か、ぼんやりとその虹を見上げていました。


 そうやってわたしは、六年も乗っていたセキレイ四番機を失いました。

 さようなら、セキレイ。さようなら、わたしとニコールとガブリエルの、セキレイ四番機。


 虹が消えてようやく、わたしの脱走計画は第二段階へと移行しました。流木の上で、バッグパックの中を漁りました。携帯用の保存食や防寒シートとともに、一本の棒のようなものが、転がり落ちてきました。


 パシャンと泥水の中に落ちたそれを、わたしは左手で拾い上げました。スイッチを入れると、ブゥンという低い振動とともに、紫色の刃の光が、棒の先端から飛び出てきました。


「これが……」


 レーザーナイフ。


 わたしはバックパックの布地で左手を拭き、レーザーナイフを握りました。『恐怖』は感じませんでした。ただ心臓がやたらとバクバク脈打っていて、力を入れれば入れるほど、手は小刻みに震えました。手だけでなく、足も小さく震えていたと思います。怖くはなかったのです。でも痛いのは、何となく気が進みませんでした。


『敵』の体を切るように。たった一閃、そのナイフを振るえばいい。


 刃の焼けつく感覚が皮膚に食い込んで、肉の焦げる嫌な臭いが、鼻を突きました。わたしが感じていたのはこれだけですが、たぶんあの時、わたしののどは絶叫していたのだと、今では思います。




 わたしの切断した右腕が水に落ちるのを、わたしは他人事みたいに見つめていました。左腕で、握手するみたいにそれを拾い上げると、発信機が完全に消失したことを確認し、わたしは右手をセキレイに向かって投げました。


 ほとんど水没しかけたコックピットの瓦礫の中に、わたしの右手は落ちました。


「……さようなら、アレクサ」


 戦うことしか知らず、『心』を持たないわたしにとって、外の世界で生きるということはほとんど困難に近しいものでした。でもあの時はそんなこと、もう、どうでもよかったのです。わたしはイーサンの死の中に、自分自身の『死』を見ました。兵器のパーツとして生まれ、そして兵器のパーツとして死んでいく。月百ドルという給付金で宝物を買い集め、過酷な訓練と『調整』によって完璧な兵器としての存在を維持する。


 もうわたしはたくさんだったのです。『心』がないなりに、こんな生活はもう、嫌だったのです。


 わたしは浅瀬に足をつけ、上流に向かって歩き出しました。途中何度も、泥沼や木の根に足を取られ、その都度何度も転びそうになりました。それでもわたしは立ち止まりませんでした。


 行く当てなんてありません。何かを求めていたわけではありません。それでもわたしは歩いたのです。軍というものから、戦うという現実から、兵器としての自分の運命から、すべてから逃げるために、わたしは歩きました。


 歩きながら、わたしはありとあらゆることを考え続けました。どれだけ思考の中身が、種類が、時間が飛躍し続けても、最後はかならずイーサンの下へとたどり着きました。


 イーサン。わたしと認識番号が連番の、ただそれだけのイーサン。カエルのお尻にストローを突っ込んで膨らませたイーサン。フェンスの向こうに思いを馳せていたイーサン。リーランド曹長とともに、バスケットコートの中を走っていたイーサン。ガブリエルを助けてと言ったイーサン。わたしの手の中で死んでいったイーサン。

 青空を見上げ、自分に『心』がないことを嘆いていたイーサン。


 わたしの胸の中に、暗い炎が燃え上がっていました。それは『怒り』であったり『悲しみ』であったり、はたまた『憎しみ』であったり『恨み』でもあったのでしょうが、その時のわたしにはそれが、よく分かりませんでした。ただの頭痛や吐き気や動悸や冷や汗に取って代わられました。でもその中でも、いちばん大きく燃えていたのはたぶん『嫉妬』でした。わたしの胸の中で、いちばん広い面積を占めていたのはイーサンでした。でもイーサンの胸の中で、いちばん大きな存在はおそらく、ヒナタだったでしょう。


 フェンスの向こうのヒナタ。イーサンのとなりにいるわたしのことを『うらやましい』と言ったヒナタ。軍に入って戦いたいと言ったヒナタ。絵本を読んでくれたヒナタ。ネックレスをくれたヒナタ。わたしのぼんやりした頭の中で、いつもと同じ明るい笑顔を浮かべたヒナタが、「おいで」と手招きしていました。


 足元がふらつきました。いくら踏ん張っても、力が入りませんでした。肩で息をしたまま、空を仰ぎました。いつか赤く塗ってもらったセキレイで、ヒナタとイーサンと三人で、どこまでも飛んでいこうと言った青空が、ひどく目にまぶしく感じました。


 まぶしい視界の中で、わたしの足はついに限界を迎えました。


 泥水の中に倒れ込んでも、わたしはまだ青空の夢を見ていました。わたしとヒナタとイーサンと、赤いセキレイに乗って、どこまでも飛んでいく夢を、わたしは見続けました。

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