第21話
でもわたしはその後一度だけ、グエン曹長の姿を見ました。
たぶんリーランド曹長撃墜の報から、一週間かそこらのことだったと思います。天気の悪い日の夕方で、外はすでに夜みたいに暗くなっていました。その薄暗い廊下で、わたしはミハイロワ先生の部屋の扉を叩きました。
「ミハイロワ先生」
例によってなんで彼女を訪ねたのか、やっぱりわたしはよく覚えていないのです。たぶん、その前の出撃についての報告書か何かを持ってきたのでしょう。先生の部屋、扉の向こうから人の気配がしますが、先生は出てくれません。
「……失礼します」
そしてわたしは扉を開けました。
勝手に先生の部屋に入ろうとしたのは、これが二回目です。一度目、ガブリエルが死ぬほんの少し前、この部屋のベッドの上で、ミハイロワ先生とリーランド曹長、いいえ、軍曹は抱き合っていました。でもそのリーランド・ベイトマン・サカキバラ曹長は、もうこの世にはいないのです。
わたしの手の中で、ドアがキイッ、といやな音を立てました。でも、ドアの隙間から流れてきたその声に、耳障りな音はすべてかき消されました。
泣き声。
わたしはこの時、はじめて『人の泣き声』というものを生で耳にしたと思います。それは調子のはずれたバイオリンに似ていました。爪を立ててセキレイの装甲を引っかいた時の音にも似ていました。
わたしの体は無意識にヒュッと空気を吸い込み、それから息をひそめました。耳を澄ませると、その泣き声はますます金属的な軋みを帯びていくようでした。声の主は推測するまでもなく、ミハイロワ先生でした。
「ねえ、なんで? なんでだったの? どうして、どうして彼は、死ななくちゃならなかったの?」
その声に、冷酷な師であり上官であり母であるカテリーナ・ミハイロワの面影はありませんでした。わたしは『上官であるミハイロワ少尉』に差し出すはずだった報告書を握りつぶしました。クシャッという音がしたはずですが、ミハイロワ先生は気づきもしませんでした。
ミハイロワ先生は声にならない叫びを上げていました。時おりドンドンと何かを叩いているような音が聞こえます。ドンドンという音は、どこか軟質な響きを持ってわたしの耳に触れました。壁や机や、ベッドの金属製のフレームでもなく、まるでそれは、枕かマットレスでも叩いているような、そんな音でした。
そして唐突にしたもうひとりの人物の声に、わたしは顔を上げました。
「……泣くな、カーチャ」
グエン曹長の声でした。
なんともいやらしい話でしたが、当時のわたしにとって、男と女が同じ部屋にいるということは、不本意ながらもあの光景を思い出すきっかけにしかなりませんでした。四年前の夏、ガブリエルが死んだあの夏に、ベッドで折り重なっていた、ミハイロワ先生とリーランド軍曹。まさか今度はグエン曹長が、その役目を代わるというのでしょうか。
わたしはドアの隙間から、それこそ食い入るように、ふたりの姿を見つめました。ミハイロワ先生は、グエン曹長の胸を拳で叩いていました。グエン曹長はびくともせず、自分よりもだいぶ小さなミハイロワ先生を見つめ、そしてしばらくしてから、彼女の体を抱きしめました。グエン曹長の胸に埋まって、ミハイロワ先生の声は小さくくぐもりました。
調子のはずれたバイオリンみたいな泣き声は、少しずつ収まっていきました。わたしは渡しそびれ、くしゃくしゃに握りつぶされた報告書を手にし、そっと部屋を後にしました。
号泣。大声で泣くこと。誰かに慰められること。抱きしめられること。わたしの空っぽの胸の中に、今、見聞きしたさまざまな情報が奔流となってはげしく流れ込んできました。わたしはほとんど破る勢いで、報告書に爪を立てました。
あれがふつうの人間の反応なのです。あれが『死』を前にした人間の、正常な反応なのです。
人間として、ミハイロワ先生は正しい。ああやって誰かに泣きすがって、セキレイの装甲を引っかいた時のような音で泣き叫ぶのが、ふつうの人間の、『心』を持った人間の生き方なのだと、さまざまと考えました。わたしは自分の過去を振り返ります。わたしの身の周りでも、大勢の人間が死んでいたのです。ガブリエルにせよ、わたしとはべつの個体のアレクサも、他の大勢の仲間たちも。でもわたしは、彼ら彼女らの死に際して、一度だってあんな風に泣いたことはないのです。
あの時、あの薄暗い廊下を歩きながら、わたしの胸に渦巻いていた考えはふたつでした。ひとつ目は、『心』というものの存在意義について。どう見ても、ミハイロワ先生の『心』は壊れていました。粉々に砕け散っていました。それはおそらく、グエン曹長だってそうだったのでしょう。自分が持っていないもののことを、わたしは知りようがありません。
『心』というものは、そんなに繊細で壊れやすく、そして脆いものなのでしょうか。
だとしたら、たしかに『心』というものは、兵器には必要ないものなのかもしれません。いいえ、ともすれば邪魔なものでしょう。わたしたちはセキレイのパイロットとして生み出されました。『より完璧な、よりパーフェクトな兵器の一部に』というのが、わたしたちに与えられた謳い文句です。完璧な兵器の一部品であるわたしたちに、やはりそれは、邪魔なものなのでしょう。きっと、わたしたちを開発した人たちは正しかったのです。
そしてふたつ目は、『泣く』ということについて。わたしはあの時、まだ『泣く』ということへの経験値が、圧倒的に不足していました。見聞きすることも当然ですが、わたし自身、『泣く』という行為をまだ経験していませんでした。いったいどうやったら、あんな泣き声を出せるのでしょうか。いったいどうやったら、あの『涙』というものを出せるのか、わたしは知りませんでした。もしかしたら、正しいやり方というものがあるのかもしれません。でもそれを訊ける人間はもういません。ミハイロワ先生はもちろんのこと、グエン曹長にだって、もうそれを訊けるチャンスはありません。何よりリーランド曹長は、文字通り、わたしたちの下を永遠に去ってしまいました。
その後しばらくしてリーランド曹長は『特進』して少尉になったそうです。
彼には妻も子どももなかったことが、唯一の幸いのように思えました。
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