第22話

 その数日後、わたしとイーサンは久しぶりに非番の日が重なりました。どちらが誘ったわけでもなく、自然に例のバスケットコートに足を運びました。


「最近、どう?」

「べつに、何もない」


 静かな午後でした。まるで彼とわたし以外、世界中のすべての人が消えてしまったみたいに、誰もいませんでした。誰かが片づけなかったボールが、カンカン照りのコートに影を作って転がっていて、オレンジ色のザラザラした表面の感触が、手に取るように想像できました。


 わたしたちはいつもの定位置ではなく、コートの反対側の、よく日が当たるところに腰を下ろしました。イーサンがオレンジジュースを買ってきてくれて、ふたり並んで飲みました。


「リーランド曹長、死んじゃったね」


 わたしが言うと、イーサンは、


「うん」


 ほんの少し汗をかいたびんが、手の中ですべりそうになったので、シャツの袖口でびんを拭いました。どこまでも濃い夏の空に、オレンジジュースの鮮やかな黄色が、まぶしく目に映りました。


「ミハイロワ先生、泣いてたんだ」

「へえ」

「グエン曹長が、慰めてた」


 わたしは先日見た光景を、イーサンに聞かせました。イーサンはその都度、「へえ」とか「それで?」とか言うのですが、深い関心があるようには見えませんでした。まったく彼らしくないことです。彼は世界中の、自分以外のありとあらゆることに関心があるような少年だったのに。


 話が終わり、またわたしたちは並んで空を見上げました。セキレイが編隊を組んで飛んで行きました。ニコールが乗った四番機、アンドリューが乗った五番機。そしてアイゼアの一番機が、空の向こうに消えていきました。きっとイーサンは「アイゼアが一番機を壊さなければいい」と思っていたに違いありません。――イーサンとアイゼア、それともうひとり、名前は覚えていませんが、わたしたちより一個上の女の子が、交代で同じ一番機に乗っていたのです。


「なあ、アレクサ」

「ん?」

「『心』って、難しいな」


 まったくもって理解できることであり、同時に理解できないことでした。わたしたちにとって、『心』というものはおしなべて難しいものなのです。でもイーサンが理解できないのであれば、たぶんわたしにも、それはおそらく理解できないものなのです。


「イーサンが難しいなら、わたしには、もっと分からない」

「俺だって、よく分からない」


 こんな弱気なイーサンを見たのは、後にも先にもこの時一度きりです。


「わたしは、あなたは『心』があるんだと思ってた」

「俺はただ、したいことをしてきただけだよ」


 したいこと。

 そんなもの、わたしにはほとんどありませんでした。


 わたしはイーサンとの日々を思い出しました。やってみたいと思ったから、カエルのお尻にストローを突っ込んで息を吹いた。向こうに何があるのか知りたかったから、黄金色のトンネルを抜けた。ガブリエルに生きていて欲しいと思ったから、リーランド軍曹に頭を下げた。ミハイロワ先生に褒めて欲しいから、仮想戦闘訓練で勝った。出撃の時だって、ヒナタが守ってくれると信じているから、わたしのミサンガを外して、代わりにヒナタのお守りを持っていくのでしょう。


 イーサンはセキレイの編隊が飛び去った空を見つめています。

 したいことをしてきただけ。


 それは、


「したいことがあるってことは、『心』があるんじゃないの?」


 わたしは目を落としました。びんの中のオレンジ色はちっとも減らず、わたしの手の中で、いつの間にかずいぶんぬるくなっていました。


 イーサンは言いました。


「分からない」


 わたしは下を向いていたので、彼がどんな顔をしていたのかは分かりません。でもきっと、明るい笑顔ではないはずなのです。こういう時は、悲しい顔をするべきなのです。具体的に誰かに習ったわけではないけれど、経験則からして、こういう場合は、悲しそうな顔をするべきでした。


「リーランド曹長のこと見ているとさ、いくら笑ったり怒ったりしてみても、俺はやっぱり空っぽなんだって、そう思った」

「そんなこと」


『ない』なんて、そう簡単には言えませんでした。


 子どもたちの中で、イーサンは誰よりもリーランド曹長に懐いていました。たぶん彼こそが、いちばん曹長の死を悲しんでいるはずでした。


「グエン曹長と先生のこと聞いて、なおさらそう思った」


 イーサンは泣いてはいません。わたしも泣きませんでした。『心』ある人間たちがふつうに行う『泣く』という行為を、感情豊かなイーサンでさえ、行うことはできなかったのです。


「アレクサ。俺さ……。ヒナタのこと、好きだったと思う」


 好きだった。


 自分の見開いた目の意味を、あの時のわたしはまだ理解できなくて、


「俺、リーランド曹長に話したことあるんだ。俺にとって、ヒナタは他の女の子と違うって……。そしたらさ、それは『好き』ってやつなんだって。ふつうの人間はね、そうやって誰かを『好き』になるんだって」


 好き、好き、好き。


 好きという概念は、もちろん知っています。わたしはオレンジジュースが好き。『調整』が嫌い。でもこの時のイーサンの『好き』は、思い返すたびに、何度も何度も、わたしの頭をぶん殴っていくのです。


「でもさ。俺の『好き』が、ふつうの人の――リーランド曹長が言う『好き』と、同じかどうかは分からないんだ。だって俺には、いいや、俺たちには、ほんとうは『心』がないはずだから」


 わたしはようやく、イーサンの横顔を見つめました。雲ひとつない青空を見つめる彼の瞳は、一点の曇りもなく、その青さを忠実に映していました。口元はほんの少しだけ笑っていますが、それは楽しい笑顔ではありませんでした。


『心』というものは複雑きわまりなくて、でもその時のイーサンは、それを完璧に模倣していたように感じます。彼の微笑みは、『悲しい時』の微笑みでした。たぶんそれは、『女に振られた』と言って、わたしに指輪をくれた時のグエン曹長と、同じ種類の表情でした。


 イーサンは、立ち上がりました。


「悪いな、いろいろ話して」


 彼にはこの後『調整』が待っています。わたしは彼を見上げました。ここ一、二年の間で、彼はずいぶん痩せました。痩せただけではありません。顔色は悪くなり、目の下には、ほとんど毎日、青黒いクマが浮いていました。


「ううん、べつに」


 わたしは首を振りました。その時、わたしの空っぽの胸の中に、何か嫌なものが、ざあっと湧き上がってくるのを感じました。青空の中にまっすぐに立つイーサン。あの時のわたしはなぜか、予感めいたものを感じていたのです。


「どうしたの?」

「……イーサンは、どこにも行かないよね?」


 イーサンが、どこか遠くに行ってしまうような、そんな嫌な予感。奇しくもそれは的中してしまうのですが、その時のわたしは当然、そんな未来のことを知る由はありませんでした。


「行かないよ。大丈夫、俺は死なない。……ああ、でも」


 彼はまた、遙かなる青い空を見上げました。


「強いて言うなら、ヒナタのところに行きたい」

「ヒナタ……」


 彼女と別れてから、もう六年になります。ふつうの人間の加齢速度は分かりませんが、彼女は十五歳になっているはずです。一般社会において、十五歳という年齢はどの程度のものなのでしょうか。彼女はまだ子どもなのでしょうか。それとももう、大人なのでしょうか。


「アレクサは、どうしたい?」


 どうしたい?


「……わたしは」


 わたしも空を見上げました。雲ひとつない、どこまでも高くて深い青空。わたしとイーサンは、同じ空を見上げていました。もしかしたらヒナタも、今この瞬間、同じ空を見上げているのかもしれません。


 そうであればいいな、と思いました。


 わたしはヒナタのことを思い出しました。かつて彼女にも問われました。「アレクサは、どうしたい?」と。わたしは答えました。自分の、自分だけのセキレイを赤く塗ってもらって、イーサンとヒナタを乗せて、どこまでも飛んで行きたいと。


 そしてその想いはまだ、変わってはいません。


「空、きれいだな」

「うん」


 空っぽのはずの、わたしたちの胸。でもこの『きれい』という感覚は、疑いもなく体の中へと落ちていきました。


 このきれいな空。どこまでも飛んでいった先に、もしかしたら、ガブリエルもリーランド曹長も、そこにいるかもしれません。


 いてくれたらいいな、と、そう思うのです。

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