第20話
前ぶれは何もなく、その日も空は鮮やかで、雲は白く北の空を覆っていました。バスケットコートでボールをドリブルするアンドリューを見ながら、わたしはもはや定位置となった荷箱のとなりで、ぼんやりと座り込んでいました。あの時は、ミサンガも編んでなければ本も読んでいませんでした。
ただぼんやりと座って、いつまでも減らないオレンジジュースをちびちび飲んでいたからこそ、わたしはすぐに気づいたのです。陽炎の中から、とつぜん湧き出したように現れたグエン曹長のことも、彼がいつになく暗い顔をしていたことも。髪はボサボサでヒゲもボーボーで、そして何より、となりにはリーランド曹長がいませんでした。
「グエン曹長」
真っ先に声を上げたのは、ニコールでした。
「どうしたんですか? 曹長」
まったくこの時のニコールと言ったら! 『心』がないなんてわけがない!
「……」
心配そうに見つめるニコールに対し、グエン曹長はぼんやりと視線を上げただけで答え、いつもの荷箱――つまりわたしの定位置のすぐとなりに、腰を下ろしました。
下ろしたというより、崩れました。
そしてとなりには、いつもいるはずのリーランド曹長がいません。
「……」
グエン曹長は、何も言いませんでした。
それでもわたしは、あの時、すべてを察しました。
リーランド曹長の、戦死。
「……そんな」
その事実は、わたしの空っぽの胸を、ガツンとぶん殴っていきました。わたしは顔を伏せました。戦死とは名誉なことだと、わたしたちはみんな、ミハイロワ先生から習っていました。でもそれは、わたしたち
アンドリューがドリブルをやめました。建物の陰から、二、三人、まだ新入りの子たちがこちらをのぞいています。そのうちのひとりが、興味深そうに曹長の方へとやってきました。
「どうしたんですか?」
彼のたしか名前は、ヴィクトルだったと思います。だいたいヴィクトルなんて名前は、セキレイのパイロットにはもっとも多い名前と言ってもいいでしょう。でもわたしにとって、ヴィクトルと言えば彼のことでした。
今にも泣きそうな顔のニコール、バスケットボールを持ったまま突っ立っているアンドリューと、事情が分かってなさそうなヴィクトル。そして定位置にすっぽり収まった、わたし。
「……リーランドが、死んだんだ」
そのひと言を皮切りに、グエン曹長はぽつぽつ、話しはじめました。
近しい友人の死。それを語るグエン曹長の声は、涙に濡れていました。それでも言葉は淀みなく簡潔で、今思えば、彼も多大な無理をしていたのでしょう。彼がうつむくと、日陰にポタポタと雫が垂れました。彼が話している間に三回の轟音が聞こえ、雲がものすごいスピードで東に流れていきました。
バスケットコートの日向と、建物の陰の間に、沈黙が落ちていました。わたしはかつてあの時ほど、この場にイーサンがいて欲しいと、そう思ったことはありませんでした。
ややあってから、誰かが口を開きました。
ぼんやりしていた、ヴィクトルでした。
「よかったですね」
彼の声は『心』がないくせにすごく明るくて、くっきりした青空の下に、どこか場違いに響きました。
「……え?」
グエン曹長は、そう呻いて顔を上げました。その目は、驚きでまん丸に見開かれていました。
ヴィクトルは、
「死ぬことは名誉なことだと、ミハイロワ先生が言っていました。兵士として死ぬことは誇りなんでしょう?」
それはわたしたち、セキレイのパイロットにかぎった話でした。わたしたちは『心』がない兵器のパーツだから。基本的人権すら認められていないから。月に百ドルの給付金と、毎月一回の通販と、それから自販機のジュース。それだけが許されているわたしたちだけが、死ぬことを名誉だと教えられていました。少なくともふつうの『心』ある人間が、そんな言葉を受け入れられるわけがないのです。
ヴィクトルは両手を広げました。彼の腕の中に、赤道近くの太陽の光が降り注いで、
「僕たち兵士は、世界のために死ぬんです。それはすばらしいことなんだって、ミハイロワ先生が教えてくれました。だから、リーランド曹長はすごいです。僕もリーランド曹長みたいに、勇敢に戦って死んで」
それから先、ヴィクトルの言葉は途切れました。
荷箱から立ち上がったグエン曹長が、ヴィクトルの頬を張り飛ばしたのです。
ヴィクトルは倒れたまま、目を白黒させていました。やがて目が潤んで、彼はポロポロ泣き出しました。ふつうの子どもなら、こういう時は大声で泣くそうです。たぶんヴィクトルが泣いたのは、怒りでも悲しみでもなく、ただ単に痛かったからなのでしょう。
ニコールもアンドリューも、それからわたしも、グエン曹長にかける言葉を持っていませんでした。あの時、イーサンならなんて言っただろうかと、わたしは今になっても、そのことをよく考えるのです。わたしは曹長の怒り、悲しみを、理解しているつもりでした。でもほんとうに分かっていたかどうかは、きわめて怪しいものでした。やっぱりわたしには、『心』と呼べるものがなかったのでしょう。彼の怒りや悲しみを理解できたとしても、それを自分の身に置き換えることが、うまくできませんでした。
少なくとも、ガブリエルが死んだ時、わたしは泣きませんでした。
その日を最後に、グエン曹長がここに来ることはなくなりました。
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