第10話
リーランド軍曹とグエン軍曹は、一週間のうち、一日か二日、不意に訪ねてきては、わたしたちを構っていきました。
あのふたりがなぜここへ来て、わたしたちを構うのか。わたしには理解できませんでした。当時のわたしの目には『心』がある人間の『大人』なんて、自分たちと真逆の存在だったのです。『心』ある人間のことは、正直言って、意味不明でした。
わたしたちと遊ぶのを楽しんでいるリーランド軍曹はもちろんそうですが、わたしにはグエン軍曹という人がよく分かりませんでした。彼はどう見ても、『心』のなかったわたしが見ても、ここに来るのを喜んでいないのは明らかでした。それでも彼は、かならずリーランド軍曹についてくるのです。ついてきて、バスケットゴールの片隅の、荷箱の上に座って本を読みはじめる。それが彼の行動パターンでした。
「あんまり、この子らと関わるなよ」
前にグエン軍曹が、リーランド軍曹にそう言っていたのを耳にしました。
わたしたちは警戒心のかたまりでしたが、それでもイーサンにだけは、その常識は通用しませんでした。イーサンはたちまちリーランド軍曹に懐き、軍曹は愛弟子にバスケの技術を仕込んでいきました。ドリブル、ガード、パス、シュート。イーサンはメキメキと腕を上げ、半年が経つころには一端のプレイヤーになっていました。
イーサンとリーランドがハイタッチをし、わたしは傾いていく夕日の中で、ふたりの影がコートに沈んでいくのを眺めていました。わたしからずっと離れたところにいるグエン軍曹は、時おりリーランド軍曹の顔をにらむように見つめてから、またすぐに本の方へと戻っていきました。
彼が本を読んでいないのは、明らかでした。
本を読めるほど、久我山の夕闇は明るくはありませんでした。
※
リーランド軍曹もグエン軍曹も、『心』のあるふつうの人間であり、大人であり、男性でした。わたしたちは睡眠学習で基本的な教育を受けていましたが、それは兵器として必要な教育であって、兵士として生きるための教育ではないということを、あの時ほど痛感したことはありませんでした。
あの日、わたしはミハイロワ先生のところへ行きました。何かの用事があったはずなのですが、何の用事だったのかは思い出せません。思い出せないということは、きっと大した用事ではなかったということなのでしょう。
何月だったかなんて、覚えていません。南の島の久我山基地は、一年中夏で、四季というものはほとんど存在していませんでした。ただ、雷が鳴っていました。風が強く吹いていて、海が荒れていたのを覚えています。だからきっと、夏の嵐の日だったのでしょう。
わたしは先生の部屋の扉をノックしました。
「ミハイロワ先生。アレクサです」
コンコン。返事なし。もう一度、ノック。薄暗い廊下を雷が照らし、少し遅れて雷鳴が響きました。海鳴りが基地の片隅まで響いてくるようでした。それでも自分の手が扉をノックする音が聞こえないのは、不思議なことでした。
「ミハイロワ先生? アレクサです」
もう一度、ノック。今度はそこそこ力強く打ちましたが、それでも返事はありません。わたしは『心』がないなりに咎めましたが、それでもひと言断りを入れた後、扉を開けました。
鍵はかかっていませんでした。
かけ忘れたのだろう、と思います。
部屋の中は電気がついていなくて、薄暗い廊下から見ても、完全な闇に落ちていました。不規則的に光る雷が、室内を照らし、その光景をわたしの中に切り取りました。雷の光という頼りない視界の中、ベッドの上にはふたりの人影がありました。
「……」
片方はたぶん、ミハイロワ先生でした。もうひとりはシルエットしか見えませんでしたが、おそらく男性であって、それはわたしの知るリーランド軍曹の体格に似通っていました。
動悸がしました。手足が冷たくなり硬直し、思うように動かなくなりました。雷がまた明滅を繰り返します。白い光と黒い影の芸術。影絵の中で分かったことといえば、ふたりはベッドの上で抱き合っていたということ。ふたりは衣服を身につけていなかったということ。そしてわたしはここに来た用の、すべてを失念したということでした。
走りました。
ふたりが何をしていたのか、当時のわたしには分かりませんでした。でも心臓の鼓動だとか、冷や汗だとか緊張だとかが、わたしの体に警告を鳴らしていました。『あの行為』は、『心』のないわたしには、よく分からない行為でした。『心』のある人間は、ああいうことを当たり前にするのでしょうか? 雷の光が、頭の中でチカチカ点滅します。空っぽの胸の中から、ゾワゾワした感覚が這い上ってきます。
暗闇の中で恍惚とした表情を浮かべていたミハイロワ先生。その顔が、わたしの中でヒナタにすり替わりました。
「……」
ヒナタも大人になったら、あんなことをするのでしょうか?
あれは『心』がある故の行為だということはなんとなく分かりましたが、なんだか当時のわたしには、とても汚らしい何かのように思えてならなかったのです。
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