第9話

 わたしたちにとって身近な大人といえば、ミハイロワ先生以外に誰もいませんでした。わたしたちセキレイのパイロットが住まう宿舎は、基地のいちばんはずれにあって、やはりフェンスと有刺鉄線に囲まれていました。右手の発信機は、軍に配属されてからも外されることはありませんでした。


 閉じ込められた世界で生きる、わたしたち。兵器の子どもたち。だから最初、そのふたりの男の人を見た時、わたしの目は、ほんの少し見開かれていたはずです。


 フェンスの中、唯一の遊び場であった、片面だけのバスケットコートでした。男の人の片方、細身の白人系のその人は、軽快にボールをドリブルしていました。軍靴の底が、キュッとすべる音。いないはずの相手チームを抜き去り、そのまま走って、ジャンプ、シュート。ボールがリングにぶつかるガコンという音とともに、スポッとネットの中へ入っていくのを、イーサンが食い入るように見つめていました。


 ボールがコートを転がります。そこでようやく、その人はこちらに気づいたように、


「やぁ」


 彼はわたしとイーサンに向かって手を上げました。大人の人の年齢なんて具体的にはよく分からなかったけれど、たぶんミハイロワ先生よりは、若かったと思います。コートの脇、荷箱に座って本を読んでいた、もうひとりの男の人も同い年くらいでした。アジア系で目が細く、その細い目の奥から、わたしたちのことを射抜くように見つめていました。


「君たちは?」


 白人系のその人は、転がったボールを拾いながら言いました。

 何を言っていいか分からないわたしのとなりで、イーサンが、


「俺はイーサン。こっちはアレクサ」

「セキレイのパイロット?」

「はい」


 こともなげにうなずくイーサン。白人系のその人は、目を見開きました。


「へえ……。ほんとうに、いたんだ」


 彼の目はしげしげと、わたしたちふたりのことを見つめました。興味本位だったのは間違いないでしょうが、それでもそこに、嫌な感じのする好奇心は存在していませんでした。


「お兄さんは?」

「俺はリーランド。こっちはグエン」


 白人系の彼、リーランドはそう言いました。彼の紹介に合わせ、アジア系のグエンが顔を上げました。彼はチラッとこちらを見て、またすぐに、文庫本の方へと視線を戻してしまいました。


「リーランドさんたちも、軍の人なの?」

「おう、俺たちはふたりとも、祝火針イワヒバリのパイロットだよ」


 イワヒバリは汎用機である瓦緋和カワラヒワの上位互換機のことです。予算が潤沢だった久我山基地ですら、イワヒバリはたったの九機しかありませんでした。


「階級は?」

「軍曹。お前たちは?」

「伍長待遇」


 イーサンとリーランド軍曹の会話は、とんとん拍子に進んでいきました。わたしはイーサンの顔を横目で見ます。とても彼が自分と同じ、『心』を持たない側の人間だなんて、信じられなかったのです。


「イーサン。お前、今ヒマなのか?」

「はい、ヒマです」


 じゃあ、ちょっと付き合えよ。うん。ふたりは意気投合し、夕暮れのバスケットコートの上で、長い影を描いて踊りはじめました。


 わたしたちが隔離されていたフェンスの内側。そこにある唯一の娯楽である、片面だけのバスケットコート。バスケットボールという競技がどういうルールで行われるものなのか、当時のわたしは知りませんでしたし、おそらく、イーサンも知らなかったはずです。それでもたぶん、あのゴールにボールを投げ入れるということだけは、わたしにも漠然と想像はついていました。


 わたしたちは肉体的な『調整』を受けており、身体的な機能もふつうの人よりははるかに高く製造されていました。それでもそれは、あくまで兵士としてであり、兵器としての身体能力でした。スポーツ、ましてや戦争の役に立たない球技なんて、したことがありませんでした。


 リーランドのパス、イーサンのキャッチ。キャッチしたボールを今度はイーサンが投げます。怪しい方角へと飛んでいったボールを、リーランドは華麗に受け止め、そして彼はあろうことか、そのボールを今度はわたしの方へ投げてきました。


 受け止め方は分かっていました。体も動きました。弧を描いたボールは、わたしの腕の中にすっぽりと収まりました。でも、それだけでした。その後、ボールをキャッチした後、どうすればいいのか。わたしには、分かりませんでした。


「ほら、アレクサ」


 イーサンが言いますが、何が『ほら』なのか。それも分かりませんでした。そんなわたしたちふたりの姿を見て、リーランド軍曹は、


「投げてみな。ボールをこうやって、こう」

「……」


 投げる。

 こうやって、こう。


 軍曹の言うとおり、わたしは見たままにマネをして、バスケットボールを投げました。イーサンが投げた時と同じように、ボールは見当違いの方向に飛んでいきました。それでもリーランド軍曹は走りました。ワンバウンド、ツーバウンド。ラバー張りの片面のバスケットコートの上を、ボールが転がっていきます。


 イーサンのボールをキャッチしたのと同じように、わたしの投げたボールも、リーランド軍曹はつかまえてくれました。ボールをキャッチし、顔を上げた軍曹は笑っていました。なんの屈託もない子どもみたいな笑顔。わたしはそこに、ふつうの人なら誰しも持っているだろう『心』の存在を、たしかに見ました。


 ふつうの人間。

『心』を持った、ふつうの人間。


 もう一度、稚拙なボール遊びをはじめたふたりを見つめながら、わたしは考えました。リーランド軍曹も、ずっと本を読んでいるグエン軍曹も、ふたりともふつうの人間です。『心』を持った大人で、自分で選んで軍属となり、殺戮兵器のパイロットになったひとたちです。


 彼らは、わたしやイーサンとは違います。彼らはヒナタと同じ側の人間なのです。フェンスの向こうのヒナタ。ビーズのネックレスをくれたヒナタ。絵本を読んでくれたヒナタ。


『心』ある人間という存在が、わたしの胸の空洞の中に、スッと入り込んできた気がしました。「投げてみな」と言ったリーランド軍曹。わたしの投げたボールを、走って受け止めてくれた軍曹。


 わたしは、彼の目の中に映った自分の顔を見ていました。

 あれは人間の顔ではなく、ほんものの兵器としての、がらんどうの顔だったと思います。

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