【2】
第4話
それからわたしとイーサンは、ほとんど毎日、そのフェンスの前を訪れました。
秋がすっかり深まって、黄金色のトンネルは次第に葉を落としていきました。日が暮れるのはどんどん早くなり、しとしとと降る長雨は最後、雪に変わっていきました。カエルもアリもザリガニも、姿を見せなくなりました。わたしたちの周りからも、先生たちから『不適格』だと認められた子どもたちが少しずついなくなっていたのですが、あの時のわたしは、それに気がつきませんでした。
「アレクサ」
イーサンはやっぱり手を引いて、わたしをフェンスの前に連れて行きます。彼は毎日フェンスを上までよじ登り、外の世界を見つめています。両手が有刺鉄線で傷つくのにも頓着せずに。わたしにはなんで、彼があそこまでフェンスの向こうにこだわるのか、皆目見当がつきません。
だから、そんな毎日を繰り返していたあの日、フェンスの向こうにいた女の子の姿を見た時、イーサンの横顔は『喜び』にあふれていました。
「ねえ、君!」
イーサンが叫ぶと、女の子がビクッと肩を震わせます。
「君はさ、外の人なの?」
イーサンとわたしは、フェンスの向こうの女の子の顔を、しかと見ました。
かわいい女の子でした。柔らかな栗毛もキラキラとかがやく瞳も、そして装飾に凝った服も、赤い靴も。当時、わたしの中に『かわいい』なんて概念は存在しませんでしたが、それでもわたしは間違いなく、彼女の姿に目を奪われました。
「あ……、えっと」
女の子は口を動かします。
「俺、イーサン。こっちはアレクサ。君は?」
彼女の具体的な年齢がいくつだったのか、わたしには分かりませんでした。背はわたしよりもだいぶ低かったはずですが、でも、それだけでは年齢を判別する材料にはなりませんでした。わたしたちは人為的な処置を経て生み出されました。自分たちの体と思考。それが実年齢にそぐわないことくらい、わたしたちはとうぜん、教わっていました。
女の子は顔を上げ、緊張した目でわたしたちを見ました。
「……ヒナタ」
「ヒナタ?」
「うん。ヒナタ・カワムラ」
彼女、ヒナタの名前を聞いた時、衝撃を感じたことはただひとつだけでした。彼女が苗字、すなわちラストネームを持っているということ。わたしたちには、苗字がありません。兵器であるわたしたちに、本来、名前などは必要ないからです。
ヒナタ・カワムラという少女は、兵器ではない。
兵器ではない子どもがいるということ。その事実は、ないはずのわたしの心を、強くつかんで揺さぶりました。
黙っているわたしをよそに、イーサンはヒナタに話しかけます。
「君、どこの子? この辺の子?」
イーサンの問いに彼女がどう答えたのか、わたしはきちんと聞いてはいませんでした。ただ彼女がこの近くに疎開してきたばかりで、彼女の父親が『グンノシレイ』であること、そして彼女は『シレイノムスメ』であることが、耳の上をひとり歩きしていきました。『グンノシレイ』は『軍の司令』で、『シレイノムスメ』が『司令の娘』であることを理解したのは、それからずっと後のことでした。
イーサンはそうやって、しばらくヒナタを質問攻めにしていました。でも養育機関以外の世界を知らないわたしたちに、質問するような話題がそういくつもあるわけではありませんでした。
やがて、イーサンの話題は枯渇しました。その時、ヒナタはようやくはじめて、わたしのことを見つめました。
太陽にかざしたガラス玉みたいな、キラキラかがやく瞳でした。
その瞳の中に、わたしは死んだ魚のような目をした自分の顔を認めました。
「あなたたちは、兵器なの?」
イエス。
「あなたたちは、『心』がないの?」
……イエス。
ヒナタはどうやら誰かから、わたしたちの素性を聞いていたのでしょう。フェンスの向こうにいる子どもたちは、『心』のない兵器。もしかしたら彼女はそれを確かめたくて、ここまでやってきたのかもしれません。
自分と同じ年ごろに見える子どもたちが、『心』を持たない兵器として育てられている。
その事実は、銀色のフェンスの向こうで、ヒナタの頬を張り倒しました。
あの当時のわたしには、『心』というものがありませんでした。だからその後、彼女の目から大粒の涙がこぼれ落ちたのを見た時、わたしの脳みそはぐるぐると不可解に回りました。
涙というものが、悲しい時に流れることは知っています。ではなんで彼女は今、涙を流しているのでしょうか。わたしとイーサンに『心』がないということを、どうして彼女は悲しんでいるのでしょうか。
ヒナタはイーサンとまたここで会う約束をして、フェンスの向こうの森へと消えて行きました。
帰る道すがら、わたしはヒナタの『心』について考察しましたが、答えはついぞ、出ませんでした。
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