第3話

「なあ、アレクサ。今日は向こうに行ってみようぜ」

「向こうって……。向こうには、何もないじゃない」


 生き生きしてそう言うイーサンは、わたしの手をぐいぐい引っぱって、外へ行こうとします。


 イーサンの指す『向こう』とは、森の中でした。いろいろなところを散策したわたしたちですが、宿舎の向こうの森には、ほとんど入ったことがなかったのです。


「何もないって、お前、行ったことあるのかよ?」

「ないけど」

「じゃあ、行ってみようぜ。いいだろ?」


 もう、こうなったイーサンを止められた人間は、あの当時、誰もいなかったのではないかと思います。


 山奥の養育機関、早く訪れた秋の、早い夕方の時間でした。もう少しで三回目の食事の時間で、子どもたちのほとんどは、戦闘シミュレーターの前で、モニターの向こうの『敵』を凝視していました。


「練習、しなくていいの?」


 仮想戦闘訓練の成績ですが、わたしは二位でした。一位が誰なのかは分かりませんでしたが、たぶんイーサンなのだろうということは、なんとなく予測がつきました。


「いいんだよ。俺は戦闘、上手だもん」


 実際ほんとうに、イーサンはパイロットとしてはとても優秀でした。原因不明の暴走事故を起こし、わたしに撃墜されるその日まで、彼は間違いなく、歴代でいちばん優秀なセキレイのパイロットだったはずなのです。

 わたしに『抵抗』だの『反抗』だのという『意思』はなく、結局はイーサンに引きずられるがままに、『向こう』へと行きました。


「わぁ……」


 心がないはずのわたしが、なぜあの時、嘆息をもらしたのか。今でもよく分かりません。


 秋が早く訪れた森。赤い夕日の中に、黄金色の葉っぱが煌々と燃えていました。枝から落ちてひらひらと舞う葉に、見えないはずの風の動きが見えました。

 イーサンもまた、目を見開いていたのだと思います。彼の温かい手は、わたしの手を引っぱり続けました。厚く降り積もった葉っぱが足裏にふかふかと触れました。聞こえてきた鳥の鳴き声に顔を上げ、暗くなりはじめた空に一番星を見つけ、簡素なスリッポンに土がつくのも構わずに、わたしたちは森を奥深くへと進みました。


 気づいたら、イーサンはわたしの手を引くのをやめていました。

 いつの間にか、わたしが彼よりも前に出て、黄金色のトンネルを駆け抜けていました。

 そして黄金の世界は唐突に、ぱたんと終わりを告げたのでした。


 フェンス。


 ところどころ茶色いサビが浮いた、銀色のフェンスが森を横切っていました。フェンスに途切れ目はなく、わたしの視界の端から端までを覆っていました。よじ登れなくもない高さでしたが、いちばん上には有刺鉄線がぐるぐる巻きついていて、まるで『登るな』と警告されているようでした。


「ちぇっ、終わりかよ」


 たぶんイーサンは、この森はどこかに続いていて、まっすぐ歩き続けたら、その『どこか』にたどり着くと信じていたのでしょう。ここではない、『どこか』。まだ子どもだったわたしたちの世界はあの養育機関のみで、あまりに狭く、無機質で、冷たく、乾燥していました。


「……」


 秋の早い夕暮れは、刻一刻と東の空を群青色に塗りつぶしています。イーサンはフェンスに手をかけ、足をかけ、まるで壁を這うクモか何かのように、フェンスをよじ登りはじめました。彼の右手が、フェンスの上辺をつかみます。彼の目前には有刺鉄線が迫っていて、彼は今度、左手でどこをつかむべきなのか、考えあぐねているようでした。


「イーサン、止めようよ」


 わたしは自分自身の言葉でようやく、当たり前になっていたその存在を、生まれてはじめて意識しました。

 右手の手首に巻きついたコード。皮膚にピッタリと張りついていて、切れ目はなく、どうやったら外せるのか、当時のわたしには見当もつきませんでした。


 発信機。


 わたしたちが研究所から遠ざかると、それは警告音を発するのだと、ミハイロワ先生が言っていました。

 わたしたちは逃げられない。一年間の睡眠学習と条件づけによって、その観念はわたしの心に深く根を下ろしていました。イーサンの手が有刺鉄線をつかみます。彼の皮膚に棘が食い込む音を、わたしは聞いた気がしました。


 イーサンがフェンスをよじ登るにつれて、わたしの体には変化が起きていました。脈拍数が急に上がり、手足は冷たくなりました。足が震えました。イーサン、越えてはいけない。そのフェンスの向こうに行ってはいけない!


「アレクサ?」


 フェンスにしがみついた格好のまま、イーサンは顔だけ振り返りました。きっとイーサンの目には、黄金色の落ち葉の中で、震えているわたしの姿が見えたのでしょう。


 わたしには、『心』がないのに。

 なのにあの時どうしても、わたしはイーサンを止めなければ、と思ったのです。


「……アレクサ」

「……」

「アレクサは、どうしたい?」


 このフェンスの向こうに、行ってみたくはない?


 あの時、わたしが具体的に何を考えたのか、よく覚えていません。ただ、あのフェンスの向こうに閉じ込められたくはないな、と考えていたのではないかと思います。


 閉じ込められたくない! なんておもしろい発想なんでしょう! 閉じ込められていたのは、他でもないわたしたちでした。あの当時のわたしたちにとって、養育機関とフェンスで囲まれた敷地は、世界のすべてでした。あのフェンスの向こうに外の世界が広がっているなんて、当時のわたしには、『心』のなかったわたしには、想像すらできませんでした。


「アレクサ」

「……」


 返事のできなかったわたしを見つめて、イーサンはフェンスから飛び降りました。彼が黄金色の落ち葉の上に着地した時、もうわたしの体の変化は、胸の動悸や手足の冷たさは、いつの間にか消失していました。


「アレクサは、どうしたい?」


 その言葉はイーサンだけでなく、後々、いろんな人にも同じことを問われました。どうしたいのかと、どうするべきかは違うのだと、それすらも、あの時のわたしには分かっていませんでした。だからとうぜん、この時、わたしがどうしたかったのか、今となってはもう、よく分かりません。ただあの時のわたしの中には、たしかに『恐怖』にも似た何かがありました。フェンスの向こう、そのものへの恐怖。フェンスを越えたら自分たちはどうなるのか。体に電流を流される懲罰。ミハイロワ先生の、冷たい視線。


 わたしには『心』がありませんでした。でもたしかに、わたしの体は『恐怖』の兆候を見せました。


 暗くなった黄金色のトンネルを通って、わたしたちは養育機関へと戻りました。有刺鉄線で傷つけた手を舐めながら、その晩の仮想戦闘訓練でも、やっぱりイーサンは一位を取りました。

 そしてもちろん、わたしは二位でした。


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