第2話
「ねぇ、奥さん」
七生がアイスクリームと幽霊の為の五十音カード濁点シール付きを2個買い終え、帰宅している最中のことだった。
「この通りを真っ直ぐ行ったところに、安くてボロボロのアパートあるじゃない、あそこで今ボヤ騒ぎが起きてるんですって」
「え、あのアパートって確か数年前にも302号室で火事が起きなかったかしら。6歳の女の子が火事で亡くなった…」
「ええ、だから今回のボヤは、もしかしたらその女の子が引き起こしたんじゃないかって話しよ」
「えー、まさかー」
二人の主婦の会話を聞いて、七生な走り出した。
不安と焦燥。
ありもしないデタラメを、あいつを知らない世俗共の妄想話を、七生は決して信じているわけではない。しかし、彼は恐れていた。
もし本当に、あの幽霊が悪霊だったとするなら、今までの思い出が、あの少女との思い出が全て、忌まわしく思えてしまうから。
だから彼は願いながら走った。何かの間違いであれ、自分の部屋でのボヤじゃないでいてくれ、と。
しかし、実際に煙が上がっていたのは、302号室。
七生の家だった。
「なんだよ、あいつ、やっぱ悪霊なのかよ」
七生は急いで階段を駆け上がり、そして自分が住んでいる、幽霊が待っている302号室へと辿り着いた。
幸いにも、ドアノブはまだ熱くなっておらず、扉を開けるのは簡単だった。
室内に入ると煙が充満していた。しかし、七生は口元を押さえることをせず、否、しなかったのではなく、そんな行為を忘れていた。
腕に通していたカップアイスの入っているレジ袋を投げて、急いでリビングへ向かうと、そこでは大量の新聞紙が扇風機から出ている火を消そうとしているのか、火に覆い被さろうとしていた。
「おいバカ!それじゃ消えねぇ!」
しかし、言うのが遅かった。
既に大きくなっていた火は大量の新聞紙に触れてしまい、そしてさらに大きな炎と化した。
しかし七生は、だからと言って諦めることはしなかった。
七生は急いで着ていた服を脱ぎ、キッチンの水道でビショビショに濡らし、絞ることをせずに、そのまま扇風機から出ている炎に覆い被せた。
そして、扇風機のプラグをコンセントから抜き取り、鎮火は完了した。
「なぁ、お前、乾いた新聞紙じゃ火は大きくなるばっかりだ、せめて濡らしてから使えよ」
乱れた呼吸を整えながら、七生は、七生一人しかいない部屋でそう言った。
勿論そんな部屋では返答など来る筈もないうえ、部屋にあった新聞紙は全て燃えてしまい、燃えてないにしろ黒く焦げてしまってほとんど読めない状態で、いつもみたく切り抜きが飛んでくることもなかった。
「なぁ、お前、6歳だったんだな」
しかしそれでも七生は語りかけた。
七生は、見えない少女に、ポケットに仕舞っていた五十音カードを二つと濁点シールを渡した。まるでそこにいるのが分かっているかのように、的確に、少女の位置へと差し出した。
すると五十音カードはバラバラになり、そしてゆっくりと言葉が出来上がる。
『うん』
黒く焦げた床の上で、二人は会話をする。
「いいか、今度から火は、水で消すんだ。火は水で消せるからな」
『また かしこくなつた』
「なんだよ、呑気なヤツだな。もう少しでこの家失くなるところだったんだぜ」
『そりや たまげた』
「……あの、疑って悪かったな」
『なに』
「一瞬お前のことを、悪霊なんじゃないかって、思って…ごめん」
『いいよ』
「軽いなぁ。怒ってもいいとこだぜ?」
『ななうみは やさしいから いいよ』
「お前…。なぁ、お前さ、名前何ていうんだよ。いつまでもお前じゃ、お前だって嫌だろ?」
『うん』
「教えてくれよ、名前を」
『いちのせ ひとは』
「お、ひとははようやく《ち》と《さ》の違いを覚えたのか」
『ばかにするな』
「アハハハハハハハ。なぁ、アイス食うか?」
『うん』
ひとはの返事を待ってから、七生は玄関に投げていた袋を拾い、扇風機の前に持ってきて、袋からカップアイスを取り出し、ひとはの前に置いれあげて蓋を開けた。
「あちゃー、溶けてるな」
残念なことに、七生のアイスも同様に溶けていた。
火の手から離れた玄関に置いていたので安全だと思っていたのだが、七生の想像よりも熱波は遠くに届いてたようだった。
「どうしよ。うち、冷凍庫ないしなー」
しかし、そうして七生が溶けたアイスの前で悩んでいると、もう一つの、ひとはの前に置いたカップアイスが浮き始め、そして容器からこぼれ落ちてしまった。
否、こぼれはしたが、落ちはしなかった。
『つめたくて おいしい ななうみ ありがと』
「冷たくて、か。ホントごめんな、ひとは。熱かったろ」
『うん』
「怖かったろ」
『うん』
「もう絶対、一人にしないからな」
『うん』
ひとはが並べたその2文字のカードには、温かく透明な雫がこぼれ落ちていた。
七生と幽霊 ナガイエイト @eight__1210
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