第3話

私は小説家だった。


些細なことを、当たり前を、幸福に思ってほしいという願いを込めてほのぼのとした日常を書いていた。


売れたと言えば思ったより売れた。しかし、人気はあるかと言えば疑問であった。本来小説とは日常では体験できない非日常を描くものであって、日常を書いたところで読まれるはずもないことはわかっていた。


伸び悩んでいた。私は、毎日が、いつもどおりがとても気に入っていた。その日も、悩んだときの考え場所である喫茶店のいつもの席に座ろうとした。


知らない男がいた。上田瑞樹がいた。


「日常の中に突然非日常を描くことで、日常の幸せを強調しては?」


よく覚えていない。どうして相談などしたのか。誰かが座っていればいつもは帰るのに、どうして帰らなかったのか。


ただこの言葉から、私たちはよく話すようになった。


「私に非日常はわからない。体験したことじゃないと書けないから。」


「わかることだけでいい。」


「わからないと困る。実際悩んでる。」


「病は気から。」


続けて水樹は自己紹介をしてきた。意味が分からなかったが、私はただただ聞いた。水樹は大手企業の社員だった。自慢をしてきたとは思ったが、想像よりも有名で私が驚くと、水樹は意地悪そうに笑った。


「もっと驚かせてやろう。」


そういって、水樹はその場で電話をかけて会社を辞めてしまった。私は目を見開くのみで、何も言葉にできなかった。


「非日常なんて簡単に作れる。」


それから、無職になった水樹は嫌がる私を強引に連れまわした。水樹の言葉、考え方、行動、全てが私にとって非日常であった。


「そんなに小説書いているのに、どうして年に1冊しか出さないの?」


私は他の小説家よりも多くの小説を書くことができた。内容はともかく、量に関しては一番だと思う。話の構成を決めてから、最後まで書き連ねることが瞬時にできた。しかしたくさんの小説を書いておきながら、年に1冊のみしか編集には見せなかった。


「なんとなくかな?」


本当は売れないのが怖かったからだ。自分の書いた中で最も面白いと思った、売れると確信して出した小説しか出さないと決めていた。しかし現実はひどいもので、私の渾身の作品だろうと、駄作だろうと、結果は同じだった。


回数を重ねるごとに、私は切羽詰まっていた。


そんな矢先だった。水樹が現れたのは。


水樹とともに描いた作品は、自分の作品ではないようで浮かれていたのだろう。これは売れると幸せだったから油断したのだろう。


足を滑らせて骨折した。


水樹と山登りをしていた時だった。


どうということはない。利き手の肘を軽く骨折しただけだ。水樹が支えてくれなければ、今頃どうなっていたことやら。水樹は泣きそうな顔で何度も謝ってきた。その顔を見たからだろう。


いや、今なら違うと言える。小説を書かなくていい。その状況になったから。


どうしようもなく、ほっと、安心してしまった。


それから骨折が治っていざ小説を書こうとすると、右手が震えてそれどころではなくなった。後遺症が残ってしまったようだった。


病院に言ったところ、体の状態はいたって健康だという。


「症状はどういったときに?」


「字を書くときです。」


「名前を。」


ペンを渡されたが、書けないと言ったはずだ。どういうつもりだと思った。


「読めなくてもいいです。本人とわかるサインをこの書類に。」


嫌がらせだと思ったが、言われた通りサインをする。手は震えなかった。続いて、医者はパソコンの前に座らせてきた。私は状況が理解できず、いうことを聞くことしかできなかった。


「ここに書いてください。」


パソコンで文字を書くことなどできるに決まっていた。瞬時に自分の中で構成を決めて、小説を書き始める。しかし、打ち始めた瞬間、関係のない左手まで震えだした。


「少し特殊ですが書痙です。精神病の一種ですね。小説を書くことがトラウマになってしまっているのかもしれません。」


トラウマ?そんなはずはなかった。非日常を利用した日常を書き、今までにない作品が完成するところだったのだ。今から売れるはずだったのだ。書けなくなった理由がわからなかった。


瑞樹はそれを聞いても、今まで通りだった。突然就職したと思ったら、探偵まがいのことをしていたり、海外に行ったと思ったら、近場の公園で酒を飲もうと言い出したり。自由な人だった。


ある時、私には見せないように注意を払っていたであろう原稿用紙を、水樹自ら持ってきた。私は特に何も思わなかったが、水樹がそんなことをするはずはないと、何か理由があることを察した。


瑞樹は拙い字で小説を書いていた。内容は…まあ最初から同じだった。水樹が私を慰めるために書いてくれたものだとわかったので、私はその気持ちを嬉しく感じて面白いと何度も言った。調子に乗って、年に一回の編集へ送る小説をそれにすることにした。


このままでは送れないと、その場で修正を施す。無理だとわかっていたので、水樹に頼もうと考えていた。驚いたことに、小説の更正は手が震えなかった。


編集はこの時から芽衣だった。芽衣は私のほのぼのとした作品も需要があると、毎年無理を言って出版してくれていたが、今回の内容の変わりように連絡をしてきた。


お世話になったため、芽衣には本当のことを伝えて、今回の水樹の作品を最後に引退することを話した。


芽衣もそれならしょうがないと言っていた。


そうはならなかった。水樹の作品が今までにないほど売れてしまったのだ。私も嬉しく思い、来年も書くように話した。


「更正してあげるから。」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


いつからだろうか。彼との距離が開いたのは。彼の顔を最後に見たのはいつだろうか。死んでしまっては、空いた距離を縮めることすらできないではないか。


彼が自殺してから半年が経っていた。


私は引きこもり、ずっと家にいた。前と変わったことは、ゲームをしなくなったことだ。一日中横になっている。何もしないと思ったよりお腹が空かないし、お腹が空いても我慢できた。


彼の葬式にはいかなかった。彼が死んでいる姿を見たら、彼が本当に死んでしまうのではないかと思ったからだ。


私は彼と連絡を取っていなかった。年に一回、私の名前で出す小説の更正を頼まれることでしか存在を知ることができない。


2月。4月まであと二カ月。


あと二カ月したら、何もなかったように小説が送られてくるのだ。だってそうだろう?あなたの作品はいつだってむせ返るほどのハッピーエンドだったではないか。


正解だと言いたげに突然チャイムが鳴った。


「…。」


「警察です。お話伺いたいのでご協力お願いします。」


警察?私はいやいやながら立ち上がる。これ、協力しなかったら公務執行妨害で逮捕されたりするのかな…?


「あ、こんにちは。坂口葉月さんでしょうか?」


葉月。私の下の名前を呼ぶのは彼と親だけだった。


「はい。」


「上田瑞樹さんの件お悔やみ申し上げます。それでですね、現在、上田瑞樹さんについて聞き込みをしていまして…。」


私と彼。なんの関係があるんだ。接点などないぞ。


「はい。私に答えられることなら。」


「現在、水樹さんの他殺の線で捜査を行っておりまして、容疑者が」


「他殺?自殺じゃないの?」


「はい。水樹さんは毒を服用して死亡していたのですが、遺書が発見されておらず…」


毒?芽衣が殺したのか!


「それで芽衣さんは今どうしているの?殺人犯として私も疑われているの?」


「いえ、疑っておりません。彼女は今身柄を拘束していまして、遺書を持っている可能性がある人物として坂口さんを挙げました。」


なるほど。


「芽衣さんは殺していないと断言します。遺書は持っていませんが、見つけ次第連絡をします。…失礼します。」


「あ、待ってください。これ…あと、大家さんから、郵便物の管理をするようにと…」


私が家の中へ入ろうとすると、慌ててメモ用紙に何かを書きなぐって渡してきた。電話番号?捨てるのも気が引けるが、財布に入れるつもりもないのでとりあえずポケットに入れて見せる。その後、警官がお辞儀したのを確認してから、扉の後に音を立てて鍵を閉めた。


突然のことにため息が出る。


彼女が殺すわけなかろう。疑いようのない善人だ。死んだという報告を聞いて、あんなに苦しそうにしていたのだぞ。


私はおもむろにスマホでメールが来ていないか確認する。あ、電源がついていなかった。急いでスマホを充電して確認する。


「あなたは死んでからも…。」


電源が付いた後、通知は2つ。芽衣と警察から一度ずつであった。


期待などしていない。既に名前を貸すだけの仲だったのだ。連絡がこないことなど当たり前だ。


ふと彼とのやり取りを遡りたくなり、履歴を確認する。ずっとやり取りをしていた気がする。多くのことを語り合った気がした。それを見たくなった。


しかし、驚いたことに私は彼との会話手段として電話、メールなどを一切利用していなかった。全て待ち合わせの連絡のみだった。


そうか、これじゃあ会わなくなれば距離もできる。


しかし、気が付かなかった。これほど距離ができているなど…。


ふと机の上に置かれた小説に目が留まった。


そうだ、これだ。私が更正した部分を水樹が次の小説でもわざと間違えたり、全く間違えなかったりしていたのだ。そのたびに私も直したり、直さずに放置したり、わざと間違えに戻したり。


おどおどしながら世に出た作品をみて、一切間違っていないのを見て何やら通じ合ったような気がしていたのだ。


私は…私は彼の小説を通して彼と表わしようのない会話をしていた。


最後の小説でも…。いや、最後の小説?


結末のない小説。私は大慌てで冊子のページをめくっていく。


私が更正した場所はどこにもなかった。


気が付かなかった。よく考えてみれば一日で読んでしまうなど、今までに一度もなかった。お酒を飲んでいたからとも思ったが、違う。


更正をしなかったからだ。


更正を必要としないことは別に驚くことではなかった。彼も馬鹿ではない。彼は二作目を書く頃には、既にそれだけの知識を持っていたことを私は知っていた。知っていてこのやり取りを気に入っていたのだ。


注目すべきはなぜ今回送ってきたものが、更正を必要としない作品だったのか。


「会話を望まなかった?」


死ぬことがわかっていた?


自殺しようと考えていた!?


そうか…この小説自体が遺書だったのか。


私はすぐに立ち上がって警察に連絡しようとして思いとどまる。


こんな話理解されるのか?更正が必要なくなったが、一応確認のため送っていた。そうとも考えられる。問題は、私以外からはそう確認にしか見えないこと。


私にしかわからない遺書の嬉しさ半面、芽衣を助けることができないことに戸惑ってしまう。


違う。彼の小説は全員が幸せになる小説ではないか?疑いようのないハッピーエンドのはずだ。芽衣が救われていないではないか。そう考えるなら、もっとわかりやすい遺書を彼ならば残すはずだ。


…仮に。仮にだ。芽衣に殺されることがわかったから送ってきたのだとしたら?


芽衣はこの小説に目を通す前に私に送っていると言っていた。それは芽衣自身の考えであるのだから、彼が知っているはずもない。彼は当然芽衣がこの小説を読むものだと考えて私に送っている。


それならばこのような回りくどいやり方であっても納得がいく。直接会おうなどと言ったのも、私を信用させるためだったのかもしれない。現に私は未だ彼女を疑っていない。


芽衣が彼を殺したくて、彼がそれをわかっていて受け入れたのだとしたら?ハッピーエンドになるのか?


「最後まで書いてよ…。」


彼の小説をパラパラとめくる。ハッピーエンドのはずの結末がない小説。


…そういえばこの主人公も自殺してたっけ。結局どうやってすべてがハッピーエンドになるのやら。


今回は今までにないほどのひどい内容だった。今までは主人公がひどい目に遭っていたが、今回は主人公の大切な人が、主人公を不幸から守ろうとして犠牲になっていったのだ。正直、周りの人がどうしてそこまで主人公を守っていたのかわからないほどに。


おそらく駄作となった小説だろう。感情移入がしづらい。この主人公のお兄さんの行動を例にするとわかりやすい。大物の絵描きなのに車にひかれそうになった主人公を利き手で庇っているのだ。それで腕を失っているのだから笑えない。普通じゃない。非現実的すぎる。


最も謎なのはそれほど大切に思われている主人公が驚くほど無個性なことだ。運動もしていなければ、趣味も特技もない。人並みの学力。ゲームは好きだが、特にうまいわけでもない。運動も好きだが体力がなさすぎて人より劣る。性格もそこら辺に居そうな、優しいでも、意地悪というわけでもない。


何一つとして特別な利点も欠点も持ち合わせていない。


こんな奴を不幸から守る周りは何を考えていたのだろうか?そこまでして守っていた主人公が自殺など、バッドエンド以外になんだというのだろうか?


毎回ながら、ハッピーエンドにならないのなら面白くもなんともない内容だ。


…もし結末があったのならば納得したのだろう。面白いと感じたのだろう。彼の小説はそういう小説だ。


なんで破ったんだよ。


『結末がないことを知らせるために破った?』


芽衣と行きついた答えを思い出す。今まで通り封筒に原稿用紙が入っていたならば、結末を入れ忘れたと考えても、意図的に入れなかったとは考えなかった。そのために冊子に綴じたのだろう。


破られた跡を注意深く見る。もしかしてこれにヒントがあったりして。


「…あ。」


結末がないこと、破られた跡、酔っていたこともあり、気が付かなかった。


破られた跡は一枚分だけであった。


たった一枚しか結末がない?


いや、芽衣と行きついた答えで間違いないのかもしれない。明らかに足りないページを破った痕跡を残している。結末は意図的に…。


こうして彼の思考を必死に読み解いていると、彼が目に浮かぶような、彼とまた会話しているようだった。私は諦めてベッドに倒れ込む。


『非日常なんて簡単に作れる。』


いつか会社を辞めてしまったときのように、この世を去っていったのだろうか?


『私に非日常はわからない。』


…そうだった。最初から答えは出ていたのだ。


「…郵便だっけ。」


大家さんの伝言を思い出す。そうだった、ファンレターは彼ではなく私の住所に届くのだったな。私への郵便と区別がつかないので、ファンレターは段ボールにまとめてもらうよう業者に頼んでいた。いちいち住所をかえるのが面倒、というのも理由の一つではあったが、この段ボールに些細なメッセージを小さく書いて送ることが大きな理由であった。


彼が読んでいるか、いないか。私が書いたとわかるか、否か。そこは問題ではなく、私が書いていることに意味があった。


彼の最後の小説の結末も、彼の人生の結末も、結局よくわからなかった。


今回に限りバッドエンドだった。本当は芽衣に監禁されて苦しみながら死んだ。


わからない。真実は明かされるまで不確定だ。


しかし、どんな出来事でも、事件でも、人生でも、小説でも。真実の方向とは別に、望む方向は誰にだってある。方向がわからない間はそちらに傾けていても、誰も悪く言わないのではないか?


ハッピーエンドだったのだろう。幸せだったのだろう。


うん、これでいいのだ。


どう考えても事実に揺るぎはない。水樹は死んだ。結末は紛失した。


ならばわからない事は、都合のいい結末であると考えていいのかもしれない。


お疲れ様でした。


テープの上をボールペンが滑り、書いた文字が途切れて読めないかも…いや読めなくもないが…まあいいだろう。このメッセージは必ず読まれるだろう。


私は自分の郵便ポストに投函されている広告を捨てていく中で、ある一つの封筒を見つける。


見つかることを私以外が望んでいたであろうその封筒。私はそれを開けようとして思いとどまった。今自分の答えを再び捨てて、彼の遺書に頼るのは間違っていると感じたからだ。


受け取ってポケットに入れていた電話番号を取り出す。


「もしもし、はい、坂口葉月です。…はい、上田瑞樹さんの件について…はい、遺書受け取っていました。…はい、すぐに向かいます。」


私は警察署で、本当に遺書が入っているのかどうか疑わしいほど薄い遺書を渡し、その場を後にした。


「この遺書は?」


私にはもう必要のないものだ。


「私の分は既に受け取っています。」


警官の不思議そうな顔から、自分の発言の異質さ感じることができて気分が良かった。


その後、芽衣はすぐに解放されたが、私のもとへは来なかった。彼女が来たとしても鬱陶しいと感じたと思うので、来なくても気にならなかった。もしかしたら、彼女なりの気遣いだったのかもしれない。


その代わり、私から連絡を入れた。


「新しい作品を書いたのですが、目を通していただけませんか?」


芽衣と詳しい話をしている中で、私に代わって彼が唯一答えたインタビューを思い返す。


『次回作もハッピーエンドですか?』


『私に聞かないでください。』


私の手はもう震えなかった。

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